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他者の行為の意図について考える③

前回からの話の続き。
先輩方と共同研究をさせていただくという話だっただろうか。
その先輩というのは現場での経験を10年以上も続けて来られている3人の先輩だ。
4人1チームに分かれて、さらに2人1組という小さなチームを作る。細かい進捗状況などは2人のチームの相方に伝えるという流れである。僕の相方(相方とは絶対に言えないくらい大先輩)は何をさせても完璧にこなすことができる女性の先輩だ。これでもかというくらいなんでも完璧にこなす。何事にも丁寧なのである。その性格なので周りの先輩方からの信頼が厚く、もちろん僕の指導教員の右腕になっている御方だ。その大先輩と現場の経験が全くない僕がチームを組んだのである。

研究の流れはざっくりと説明すると4行程である。
①紙媒体のデータをエクセルに入力していき、扱いやすいようにしていく
②扱いやすくしたデータをもとに項目別にグラフや表を作成していく
③作成したグラフや表をもとにそのデータを分析していく
④分析したデータに基づき報告書を作成していく
というものであった。
この作業を今年の5月から7月の2ヶ月間行った。
クライアントがいる初めての研究ということもあり楽しみもありつつ、不安もつきまとっていた。

今終わってみると”もっと頑張れたのではないか”という感想を持てるが、作業している期間はそんなことは一切持つことがなく、ただ、ひたすら先輩に迷惑をかけないように自分ができることはそのくらいだということを言い聞かせながらデータと向き合っていた。

そこでふと感じたことが、”なぜ指導教員の先生は現場の経験がなく基盤も固められていない僕を共同研究者として迎え入れてくれたのか”ということである。
M2(修士前期課程2年目)になったからなのか?研究の手解きを実践的に学べということなのか?現場に出ることがないのであればデータを上手く扱えるようになるべきであるという思いからなのか?というように様々な考えが頭をよぎった。

そんなことを考えているうちに、家のベッドから起き上がる時に倒れたのである。
原因は「栄養失調」だと言われた。なんとなくそんな気はしていた。なんせ、毎日2時間から3時間睡眠の世界で毎日を過ごし、食べ物はカロリーメイトとレッドブルであったのだから。

それをお医者さんに伝えるとひどく怒られた。
「なんでもいいから野菜を食べろ、そして、1日はたっぷりと寝ろ。どこかで充電する日を作れ。薬なんか出すレベルじゃない。もっと自分を労われ。」と言われた。
今思い返すとなんて当たり前のことを言われているのだろうと、自分を憐れみたくなるが、その時は言われたことをただ「はい」と頷きながら聞くだけだった。

そして、2ヶ月が終わり、暫定的な報告書を出し、指導教員の先生に「共同研究のチームから降りなさい」という一言と共に、僕の人生で1番辛い2ヶ月が終わった。

先生からのその一言で僕は救われたと思ってしまった。
「眠れない生活、寝ても疲れが取れるどころか、疲れが溜まっていく生活が終わる…」と安堵の胸をなでおろした。

「他者の行為」
ここでは、指導教員の先生が僕を共同研究のチームに入れてくださったということにあたるが、このように他者の行為の意図について考えることは毎日を生活していく上で非常に大切なことだろうと思う。
表面的なことばかりに囚われていては例えば、周りに溢れている情報に翻弄されていくのではないかということを危惧する。情報に弄ばれてしまうのである。

「他者の行為の意図を考える」ということはすなわち「考える」ということである。しかも「人のこの行為はこういう気持ちからそうさせているのではないか」ということ、つまりは「人の気持ちを考える」ということ。
これが「思いやり」につながっていく。

「思いやり」を持つということは決して「優しい」と同義ではないと僕は考えている。それは、優しさがなくても人の気持ちを考えることができるからである。

僕のプロフィールから始まり、3回に分けて述べてきたが、考えることを忘れてはいけない、ということを僕は強く抱いている。

考えることをやめた時点で人は腐っていく。

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