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他者の行為の意図について考える②

前回からだいぶ時間が空いてしまったが、皆さんいかがお過ごしだろうか?

かく言う僕は、大学院の前期を終えて、ひたすらにぼーっとしている。
なぜ、ぼーっとしているかと言うことについては追って話すことにしよう。

前回の話の続きだが、僕は院生になって、1年半が経とうとしている。大学院の修士課程はほとんどの人が2年で終えるのが一般的だが、私は2年間ではなく、2年間の学費で3年間履修できる「長期履修制度」という制度を利用して大学院に通っている。
なぜ、3年間かというと、これにもまた理由がある。
私は学部時代には日本の文学について学んでいた。その中でも日本語の成り立ちについて学んだ。研究テーマは「艶」という語について意味の変遷についてだった。

なぜ、「艶」という単語を選んだかというと、、、
これといった理由がないのである、、、ただなんとなく、国語辞典を開いてそのページの一番最初に目についた単語が「艶」だったというだけである。
話が逸れてしまったが、大学院では幼児教育を専攻している。つまり、学んでいる分野が全く違うのである。もともと、子どもと関わることが好きだったということもあり、教育学を学ぶことができる大学に進学を志望していた。だが、第一志望の大学に受かることはなく、滑り止めの大学に進学した。そこで、日本の文学について学んでいたということである。

しかし、学部時代には教職課程を取り、中学校と高校の国語の教員免許を取得した。したがって、厳密にいうと、教育について全く学んで来なかったというわけではない。
そして、僕は幼児教育を学び始めて1年半が経った。そして、修士2年目の5月から先輩方と共同研究をさせていただくことになったのだ。これが楽しいと思えていた研究を苦痛と感じるようになったことの始まりである。

今回はここで終わらせていただき、次回から本題に入ろうと思う。では。


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