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拝啓、おじいちゃんへ。

きょうも、しあわせでありたいと願いながらよるを迎えた。
わたしたち家族は夏の始まりから今日まで、つかれきっていた。
わたしは、「つかれた」と伏し目がちになり、
怒りとくるしみをすこしのぞかせる祖母のゆらぐ瞳を、まっすぐ見れないでいた。
ねえ、ばあちゃん。どうしてこんなにかなしいの。
どうして、こんなにしんどいの。

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おぼんのときだけ、仏壇の扉が開く。
仏壇には、ばあちゃんの自慢の夫、つまりわたしのじいちゃんと、ばあちゃんの両親(わたしの曾祖父母)、ばあちゃんのばあちゃんとじいちゃんの戒名がある。お仏壇の前には、おみそしるとごはん、今晩のおかずが置かれている。
仏さんってこんだけしか食べないの、お腹空かないのかなとばあちゃんに聞くと、そうだね、きっと天国に行ったらたくさんおいしいもの食べてるよ、ずるいねって笑った。

ばあちゃんは非常に敬虔なクリスチャンである。ミッションスクールに通い始めてから1日たりともお祈りを欠かしたことがないという。手術の日も。
クリスチャンのなかにもたくさんの種類があることはみなさんご存知のことだろう。カトリックとプロテスタントがあり、ばあちゃんはプロテスタント。そのなかでも無教会という、教会に行かずとも信仰を深めることのできる宗派(と呼ぶのだろうか)に属している。いまは夏休み期間なのだが、毎週日曜日の午前に集会があり、みんなで聖書の内容について語り合うのだ。
余談だが、小さい時、ばあちゃんが集会の帰りに買ってきてくれるミスタードーナツのシュガーレイズドが好きだった。ばあちゃんもドーナツは極めてシンプルなものを好む。箱の中身はポンデリング、オールドファッション、シュガーレイズド、フレンチクルーラー。やさしくてあったかい、ばあちゃんみたいなドーナツが好きだった。集会のお友達の話をする、ばあちゃんのことが大好きだった。いつも。いまも。

クリスチャンなので、じいちゃんとのおはかには入らず、牧場のなかにあるキリスト教信者のひとたちのおはかに、ばあちゃんは入ることになっている。数年前に亡くなったばあちゃんの親しい友人のおとなりのお墓なんだって。いいな。

キリスト教にも天国というものはあるらしい。でも、ばあちゃんは天国はかならずしも上にあるとは限らないと言った。

「だって、もしかしたら、下にあるかもしれないし。この世のなかにだって、天国はあるものね。だからあんまり、天国を羨むことはないのよ。わたしは、輝男さん(じいちゃん)に出会えたこの世が美しいと思っているし、つうちゃんに出会えたこの世を愛しているよ。」

うん、そうだよね。
わたし、ずっとばあちゃんと生きることをこころの拠り所にしていた。26歳にもなって、現役でおばあちゃん子なんだよ。
でも、だから、だからこそ、ばあちゃんが生きていても、死んでしまってもしっかりとばあちゃんは生きてるって、ちゃんと思い出せるようにして、生きていたい。

なんでこのnoteを書こうと思ったんだっけな。なんでだろう。


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毎日は、やるせないことと、かなしいことと、くるしいことと、なきそうなことと、ちょっぴりのよろこびでできている。ばあちゃんとの日々は、そのいろんなものが混ざり合ってできていて、決してすべてがキラキラしているものではない。
そんな日々を愛している。そんなあなたを愛している。


拝啓
天国のおじいちゃんへ

おぼんだから家にいるんだろうけれど、
みえないので手紙に書きます。
ばあちゃんは、年々うつくしくなっているでしょう。
あなたが生きていた頃は、
こんなにまっしろな髪じゃなかったものね。
わたしはじいちゃんを知りません。
もうすこしお酒を控えててくれてたら、
あと五年はやくたばこをやめていてくれたら、
おしごとを休み休みやっていてくれていたら、
あなたとおいしいおさけを飲めたのかもしれないのに。
こんなにかわいい孫がいて、あなたは幸せです。
こんなにすてきな妻がいて、あなたは幸せだったでしょう。
おじいちゃん、天国はたのしいですか。
おじさんと、まいにちのように晩酌しているのですか。
わたしは、まだばあちゃんが生きているこの世が
すきですきでたまらないので、
もうすこしここに留まっています。

ばあちゃんは大丈夫です。
わたしたちは大丈夫です。

嫉妬しないでね。

6番目の孫より。


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データ整理したアルバム写真をみていたら、いつのまにか書いていました。
へんてこなnoteだけど、ゆるしてね。



サポートの意味があまりわかっていませんが、もしサポートしていただいたら、詩集をだすためにつかったり、写真のフィルム代にとんでゆきます。