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35歳の俺が35歳問題について考えてみる

突然一日自由時間ができたらどうなるか。
まあ大体は余計なことを考えてしまうものです、良くも悪くも。
というわけで、謎の哀愁問題。35歳問題について軽く整理していこうと思う。

可能性の収縮。欠如の錯覚。

結局はこれに尽きると思うんですよ。20代の頃までって可能性は今よりずっと多くて、それだけで自由を感じていた。
35歳くらいになってくると、自分の実力が将来的にも分かってきたり環境も固まってきたりで将来の可能性が収縮していく感じが肌で分かってくるんですよね。
当然可能性を収縮させるように人生を選択してきたわけだけど、実際収縮するとそれはそれで哀愁を感じてしまうものです。人間なんだもの。

なぜ問題なのか

哀愁を感じているってことは今幸せなんだ、という事を認識できないと拗れた中年になってしまったり、脱サラとかルフィ的な異業種転職(駆け出しエンジニアに俺はなる的な)をしてしまうんですよ。知らんけど。
認知の歪みが発生しているんだけど、まあ人に言われたって気づかないよね。幸せの認識の仕方は人それぞれだからさ。

じゃあこの哀愁をどう処理したらいいのさ

詰まるところ、リスクの少ない新しいことを始めたら良いのではないかと思う。遊びでも習い事でも何でも良い。
(但し、それなりに疲れるので体力が落ちてる35歳ということを認識してこう!)
哀愁ってのは止まっているから感じるんだよね。今日だって急に自由時間ができたから哀愁を感じているのであって、家族と出かけてる時は感じる余裕なんてないしね。

あと、可能性が収縮したメリットを活かすべきだと思っている。
若い頃はあまり長期的な視点で選択をしていなかったけど、わりかし将来が分かるのなら長期的な視点で新しいことをやってみるのは良いんじゃないかと思う。

人生は航海か、または冒険か

人生を航海や冒険になぞらえたりしてるけど、あまり真に受けないほうが良いと思っている。
航海や冒険って大変だしね。一生航海し続けるって結構心理的負担でかすぎる。
自分は人生はマラソンだと捉えている。一生マラソンしているわけだけど、肝は自分に合ったペースを見つけてペースを維持できるように努めること。
途中で休んでたって良いけど、早く走って休むより一定のペースで走ったほうが結果的に良いタイムになるのも例えとして適切なような気がしている。
まあ人それぞれなのだけれど。

まあなんというか、哀愁を抱きしめて明日へ進むことが幸せの形の一つなんだよ。感じてくれよあの霞んだ原風景を。

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