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最後の将棋はどっちが勝ったっけ。

それはあまりにも、あまりにも突然すぎるしらせだった。

2024年1月24日、午前9時17分
僕の大好きなおじいちゃんが天国へ旅立った。

その日僕は休みだったのになぜか朝早く目ざめた。
二度寝をしようと思ったがせっかく起きたんだし、
仕方ないので目を覚ますためにシャワーを浴びたり
洗濯物を畳んだりしていた。

その日は今季一番寒い日だった。

窓の外ではしんしんと雪が積もっている。
これはかなり積もりそうだ。

家族にこちらの状況を報告するため、
何気なく写真を撮って家族ラインで報告をする。
こういう時にまず反応するのは決まって母だ。
その日もいつも通り母がスタンプで返信をする。

家族ラインで雪の報告をした後、
僕は今度出かける予定のプランをパソコンで練っていた。

携帯の画面が電話の着信を知らせる。
そこには母親の名前が表示されている。

僕はその瞬間何かあったなと悟った。
さっきまでラインをしていた母からの着信だ。
よっぽどのことがない限り電話なんてかけてこない。

電話をとった。
母の息切れを聞いた後、
「じいちゃん…亡くなったって…」という母の声を聞いた。


事態がまったく呑み込ない。


祖父は正月に帰省した時に会ったばかりだ。

86歳にも関わらずお酒を飲んだり、
ピザやケンタッキーをほうばっていた。
ボードゲームだって一緒にして楽しみ、
能登半島地震の影響で家が揺れた後も
「怖いな」「大変なことになっているな」と話してたところじゃないか。

そんなじいちゃんが死んだ?

電話をしてきた母も正直状況がのみこめていないらしい。
それはそうだ、この前あんなに元気だったんだから。
また連絡すると伝えられ、通話は終わった。

通話の後は告げられた事実に対して、
ただただ涙を流すしかなかった。

「最後に話したのはどんな言葉だったか」
「最後に見たおじいちゃんの姿はどうだったか」

まったく思い出せない。

あの正月の日が生前最後のおじいちゃんと過ごす日になるなんて
夢にも思わなかったから。

母が電話を切ってから2時間後、父から着信が入る。
(少しややこしかったが今回亡くなったのは父方の祖父だ)
いつも父との電話はまず「おー、どいまどいまー」と
ふざけながら始まるのが主流である。
もちろんその日はそんな言葉を発するわけがない。

明らかにいつもより元気がない父の声を電話越しに聞く。
「もしもし。びっくりしたやろ。まぁ、残念やけどしゃあないわ。自転車でゲートボール行ってて、その途中道で倒れてたみたい。とりあえず今日明日にお通夜とかじゃないから。また連絡するわ」そこで通話は終わった。

その後自分がどうするか悩んだ。
状況ものみこめていないし、家族の一大事だ。
とにかく実家に帰りたい気持ちはある。
ただ外はこの雪だ。
行けたとしても帰ってこれる保証もない。
あれやこれやと考えていた。

結果的に大阪に帰ることにした。
ここにいても何もすることはないし、
この気持ちで何かできるわけもない。
雪や仕事など心配はあるがとにかく帰ることを優先した。

幸いにも雪は降っていたが高速道路は速度規制がかかっていただけで、
時間はかかったものの何とか大阪に帰ってくることができた。

おじいちゃんの家に着く。
部屋に入ると家族が集まって葬儀屋さんと話をしているところだった。
父と伯父と祖母が葬儀屋さんと話をしている。
悲しんでいる様子はみえない。

おじいちゃんの訃報を聞き、まず心配したのは父と祖母だ。
僕が自分の家族を好きなように、父も相当祖父のことが好きだった。
実家から徒歩3分の祖父の家に行ったときは
必ずと言っていいほど帰るのは遅かった。
祖母はずっとおじいちゃんと一緒に暮らしていた。
突然のしらせに気持ちの整理ができるのか心配だった。
2人の様子をみて少しだけ安心した。

葬儀屋との話が終わった。
明日最寄りの警察署におじいちゃんを迎えに行く。
ただ斎場の関係でお通夜が最短でも4日後にしか行えないらしい。少し時間がかかるが、いろんな準備をバタバタしなくて済むのはいい。それにおじいちゃんと長くいられるし。

葬儀屋と話した後の父の様子がおかしい。
髪の毛を何度も手で拭っている。

僕は知っている。これは父の癖だ。
何か深く考えたりするときに良くする癖。
ここで父自身も気持ちの整理が付ききれていないことを悟った。

そんなおり祖母が口を開く。
「私も気持ちの整理がついてないけど、みんな笑顔で送ってあげよう」

今回間違いなく一番一番動揺しているのは祖母だっただろう。
普段と変わる様子もなくいつも通りゲートボールへ向かう祖父を見送った。
まさかあれが最後に見た祖父の姿になるなんて微塵も思わなかっただろう。

そんな祖母の一言で、
僕はみんなが暗い気持ちにならないよう、
明るく振る舞うようにした。
恐らく家族には感づかれていただろうが、
僕にできる最大限の家族への配慮だった。

翌日 午前8時40分
祖父を迎えに行くために父と祖母と家を出た。
まずは検案書をもらいに近くの内科医院へ向かう。

検案書
かかりつけの医師ではなく、警察医が検案後に作成するのが検案書です。 「事件性があると考えられる」「事故」「自殺」「死因がはっきりしない」などの場合は、警察が検視・検案します。 検視とは事件性があるときに行われるものです。

検案書を受け取ったあと、
近くの警察署までおじいちゃんを迎えに行く。

警察署には少し早く着いてしまった。
僕たちはロビーにあるソファに向かいあって座ることに。

その日は本当に天気が良く、
窓から差し込む陽がとても暖かく感じられた。

時間が来た。
いよいよ祖父を迎えに行くことに。

僕はてっきり警察署内に祖父がいるものだと思っていた。
実際に連れて行かれたのは外で、
そこはお世辞にも綺麗とは言えない、
なんともお粗末な小屋のような場所に案内された。

「こんな小屋にみたいなところに置いとくなんてバカにしてる」
祖母がそう口にした。
祖父のことが本当に好きだったからそう思うのも仕方ない。僕だってそう感じたくらいだ。

ただ僕は単純に
「こんなところに祖父が一晩いたのか…寂しかっただろうに…」
という感情が胸の中を駆け回っていた。

そして小屋の中から白いガーゼに包まれた、
全長170cm程の何かが運び込まれてきた。

僕はこの瞬間を一生忘れることはないだろう。
今まであんなに話したり遊んだりしてきた、
大好きな祖父との再会がこんな形になったのだから。
これが本当に祖父なのかとさえ感じた。

涙が零れ落ちそうになるところをグッと堪え、
お世話になった刑事さんにお礼を伝え警察署を後にした。

午前10時20分
おじいちゃんがようやく家に帰ってきた。

一階の二間続きの和室の襖が閉められ、
おくりびとさんがおじいちゃんの身支度をしてくれた。

父や祖母は事切れたおじいちゃんと会っているらしいが、僕は会っていない。

その現実を見ていないから今まで耐えてこれたとも言える。もし会ってしまえばついにそれが現実になる気がして、このまま襖が開かなければいいのにとさえ思った。

が、
そんな未来がくるはずもなくゆっくりと襖が開く。

そこには本当に眠ったように布団に横たわる祖父の姿が。

涙を堪えるのが限界だった。
「あぁ、本当に祖父は逝ってしまったのだな」
その現実を突きつけられた自分には
この涙を堪える方法が思いつかなかった。

一粒、また一粒と静かに涙を落とした。
せめてバレないように泣こうと思ったがバレないわけがない。そんなことは自分でもわかっている。
だがそうするのがせめてもの自分にできることだ。

その日の夜は何人かがおじいちゃんに会いにきてくれた。おじいちゃんのゲートボール仲間や同じ町の人たち、父の友人も来てくれた。父が友人と話している時、ようやく普段と同じ様子に見えたので少し安心をした。

こんなに多くの人が来てくれるのは幸せなことだな。
これも祖父の人徳あってかと感じた。

家族と式や仏壇、墓の話などいろんなことをした。
そうこうしているうちにあっという間に通夜式の日になった。

通夜では泣かないときめていたのだが、
父が焼香をあげる時に改めて祖父が死んだことを実感して涙がこらえきれなかった。父が祖父に焼香をする姿寂しそうな姿に耐えられなかったとも言える。

式の最後、喪主である父から参列者へ挨拶があった。

渡邊家はもともと岡山に本家があるのだが、祖父は若い時に大阪に出てきた。そこから僕の地元にもなっている堺市の百舌鳥というところに住んだ。
父はここまでこの場所でやってこれたのも百舌鳥のみんな、特に同級生グループ 十日会のおかげだと話、涙を流しながら感謝していた。

僕はこの時、父が泣いているところを初めてみたかもしれない。
父は基本的に怒りもせず悲しんだりもしない。意図的にかどうかはわからないが明るく振舞っている。おそらく父が泣いているのを見るのは祖父母の亡くなったときだろうと思っていたが、いざその光景を目の当たりにすると僕もまた泣けてきた。

式が終わった後は、式場で出前の寿司を食べた。
その場には僕たち家族や祖母や伯父叔母いとこ、岡山の本家から祖父の兄弟家族といったように親戚一同が集まっていた。本家のみんなと会うのなんて一体何年ぶりだろう。こう言っては不謹慎かもしれないが、祖父の死をきっかけにみんなと久々に会え、また自分が渡邊家の人間だということを再認識できてなんだかうれしかった。

岡山の本家のみんなと久々会えた。
いとこ一同。

次の日、いよいよ告別式。
祖父と別れの日になった。

今まではまだ祖父の遺体を目にすることができた。
しかしそれもこの日限り、祖父は今日骨になってしまう。
皆もそう感じているのだろう。皆涙して最後の別れを惜しんでいた。

だが、祖母だけは毅然として涙していない。
もはや今回祖父が亡くなって一度も泣いていないかもしれない。
そんな祖母が強くもう一度言う。
「みんな、おじいちゃんを笑顔で見送ってあげよう」

祖父と祖母は心底仲が良かったと僕は感じる。
少しおちゃらけた祖父だったが祖母の言うことには、
「はいはい:という感じで答えていたし、
その祖父の性格に楽しそうに付き合っているのが祖母だった。

祖父の死に対して一番悲しみにくれているであろう祖母がそういうのだ。
僕は最後見送るまで、絶対に、絶対に泣かないと、
祖母と一緒に笑顔で祖父を見送ろうと誓った。

式は滞りなく進み、出棺のタイミング。
僕の地元百舌鳥にはふとん太鼓という秋祭りがある。
その祭りのではみこしを担ぐ際の掛け声があるのだが、
出棺のタイミングではその掛け声とともに棺をあげた。

知らない人からすると非常識かもしれないが、
祭りが好きだった祖父への僕らなりの最大の送り出しだった。

たぶん「すなすな」って言いながら棺の中で笑ってた。

霊柩車に乗って祖父は火葬場へ向かった。
同乗者として父が乗り込む。
この時2人きりの親子の最後の会話がどんなものだったか、僕には見当も付かない。

僕らが乗り込んだバスは霊柩車よりも少し後に火葬場に着く。
電動の棺運搬車に乗せられた祖父と共に告別室へ。
この無機質な部屋はいつ入っても落ち着かない。

最後の別れを惜しんで皆涙を流していたが僕は泣いていない。
そう心に決めていたから。

そして祖父を入れた棺は火葬炉へ。
これで本当に最後のお別れだ。

皆の涙ぐむ音、啜り泣きの声だけが火葬炉内に響く。

本当にこれでいいのだろうか。
祖父との別れがこれで、果たして祖父もこの別れを望んだだろうか。

僕は違う気がした。
これが本当に最後なら僕は祖父にありがとうと伝えたかった。
最後祖父の入った炉内に向かって手を振った。
「バイバイ」「ありがとう」
僕の発した言葉が届くわけないが、言わないと後悔する気がした。

これは正直カッコもつけていただろうし、
もはや自分にとってエゴのようなものだっ。

けど祖父は本当に僕のことを気に留めていてくれたし、僕にとっても祖父は大切な存在だった。

まだ僕が小さい時に嬉しそうに僕と遊んでくれる祖父の姿を、ホームビデオで何度も見た。

蒜山の別荘で祖父と過ごす僕の姿。
その蒜山で一緒に行った蒜山高原ジョイフルパーク。
祖母と三人で行った地元のプロジェクションマッピング。
無理やり連れて行って2人の馴れ初めを聞いた近所の蕎麦屋。
何度も対局して勝ったり負けたりを繰り返した将棋対決。

一緒に行った蕎麦屋さん

そして最後に過ごした日は、
みんなで一緒にクラッシュアイスゲームで遊んだ。
それが祖父をはっきりと覚えている記憶なのだが、
氷が全部落ちた瞬間、何度も心から笑っていた顔が目に焼き付いている。

まじめっちゃ笑ってたクラッシュアイスゲーム


最後に話した言葉、最後に見た姿は全く思い出せないが、最後の祖父の記憶が温かく楽しそうなもので本当に良かった。

もう話すことも、
もう一緒に笑うことも、
もう一緒に過ごすこともできない。

けど僕が渡邊忠の孫だという事実は変わらないし、
27年間一緒に過ごした記憶も消えないし。

27年間本当にありがとう。
もし願いが叶うならまたいつか一緒に遊ぼう。
さよなら、大好きなおじいちゃん。


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