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仮面ライダークウガ考 【8】48話について

 さて。この項以降は、考察と言うよりも感想と言った方が早い内容になってしまうと思うが、 ご容赦願いたい。
 まずは、問題の(笑)48話『空我』である。
 次回予告でこのタイトルを見た時に、ぱっと私の脳裏に浮かんだのは、「色即是空」と言う言葉だった。
 なにしろ、その前の47話が、五代が他の登場人物たちに別れを言って回っている(しかも、とっても寒そうな中を、 バイクで!)と言う、なんとも不吉な話だっただけに……よけいにそう言う言葉が浮かんでしまったのだと思う。
 で、タイトルの意味を考えてみた。とりあえず浮かんだのは三つ。
 一つは、単なる「クウガ」の当て字ではないかと言うこと。もちろん、これはあるだろう。 もう一つは、「色即是空」からの連想で、「我は空(くう)になる」と読ませて、つまり、完全な戦闘兵器になってしまう、 と言うような意味。そして、もう一つは、「ぼくは空になる」と言う、エンディングのタイトルから来た言葉。 こっちだと、とりあえず戦闘兵器にはならないだろうが、しかし、空になるってどう言うことだろうか、とか考えてみると、 やや不吉な気がする。
 まあしかし、次回予告を見ただけでもすでに、かなり不吉な予感が増してしまったのはたしかだった。
 そして、いよいよ本編である。
 印象的だった部分について、それぞれ書いて行くことにしよう。

 まず、雪の中での五代と一条のやりとり。
 ここについては、すでに「2」の「一条薫についての考察」で書いているが、改めて、やはり書かずにはいられない。
 やりとり以前に、五代が一条だけを伴ったのは、やはり彼に最後まで自分の戦いを見届けてほしかったからだろうと思う。
 歴代のライダーたちや、他のヒーロー物では、主人公であるヒーローにとって、共に戦いに赴く相手は、どちらかと言えば、 自分と同じ能力を持つ者に限られていたように思う。ライダーで言えば、1号と2号のような、そんな一方もまた別の番組へ 出れば、充分主役が務まるような、そう言う能力を持っていたように思う。
 そして、そう言う能力を持つ相棒がいない場合は、たいていは一人で最後の戦いに赴くのが普通だった。
 だが、五代はライダーに変身する能力を持たない一条を伴った。
 それはやはり、一条を「共に今まで戦って来たパートナー」として認めていたからだと思う。
 同時に、もしも自分が<究極の闇をもたらすもの>に完全になってしまった時には、 自分を殺せるのは、一条しかいない、 と思っていたからだとも思う。あるいは、彼に殺してほしかった、と言うことか。
 それはむろん、けして一条が銃の扱いに長けていたからでも、神経断裂弾を持っていたからでもないだろう。
 それもあるかもしれないが、それよりも、彼への信頼がそうさせたのだ。それは言ってみれば、自分の命を彼に預けた、 と言うことだろう。
 もっとも、そんなことは改めて言うまでもないだろうとは思うのだが。
 少なくとも、「クウガ」をずっと見て来た視聴者ならば、二人の間の信頼関係は充分理解しているとも思うから。
 ともあれ、そうやって最後の戦いに赴いた先での、二人のやりとりである。
 一条は、ずっと気にしていたことを最後に告げたわけだが、おそらく、だからと言って、五代が自分を責めるとか、 そう言う風に思っていたわけではないだろうと思うのだ。ただ、自分の気持ちとして、一言謝っておきたかった、 のだと思う。もっとも、それへあんな答えが返って来るとは思わなかっただろうけれども。
 一方の五代の方は、たぶん、ずっと一条が民間人である自分を戦いに巻き込んでしまったことを気にしているのを わかっていたと思うし、だから、あんな風に答えたのだろう。が、けしてあの気持ちに嘘はなかったのだろうとも思う。
 人と人との出会いと言うのは、不思議なものだ。
 ちょっとした偶然のような出会いが、人生を変えてしまうようなこともある。そうして、それはけして一方の人間に とってだけ、そうであるわけではないと言うことだ。一見すれば、そう見えることであっても、一方にとってそうならば、 もう一方にとっても、かならず同じだけの重さのある出会いなのだ。だから、互いの人生が変わってしまったりする。 もちろん、その変化は良い方の時もあれば、悪い方の時もあるのだけれども。
 そして、五代と一条の出会いは、きっと良い方の変化を生んだのだろう。
 だから、五代は、「あなたに会えてよかったと思っています」と、はっきり伝えることができたのだ。
 もちろん、戦わなくていいはずの人間が戦うことも、その肉体が普通の人間ではなくなってしまったのも、辛いことだ。 だが、得られたものの方が大きかったのだと思う。五代と、そして一条にとっても。

 次に印象的だったシーンは、ダグバとの殴り合いだ。
 表面上だけ見れば、二人の力が逼迫しているために、技を使って攻撃を掛け合うことが無意味だから、殴りあう、 と言うことなのだろう。が、実は、私はそこに別の意味も込められていたのだと思う。
 当初、私はこのシーンについては、PTAなどから抗議が来るのではないか、と考えていた。 最近は、暴力シーンについても何かと規制が働くことが多い。また、以前、「ウルトラマンティガ」かなにかで、 「物語がシュールで暗すぎる」と言った抗議が新聞に載っていたのを見た記憶もあり (それは、別に暴力シーンとかがあったわけではなく、偏執狂っぽいキャラが登場する話だっただけなのだが) 何か言われそうだなあと思ったのだ。
 まあ、その後、そう言う抗議を私は目にしてはいないのだが。
 ともあれ、そう思っていたところ、某テレビ番組でビートたけしが自分の映画の中の暴力シーンについて語っているのを 聞いた。そして、別の考えが浮かんだのだ。
 たけしは言っていた。 「自分の映画の暴力シーンは、痛いから、もうとにかく見ているだけで痛いから、誰もまね しようなんて思わないだろう」と。
 それで、気付いたのだ。「クウガ」のあの殴り合いのシーンも、実はそう言う意図があったのではないか、と。
 殴られたら、痛いのだと言うこと、逆に、殴る方も痛いのだと言うことを、 番組の製作者たちは、主な視聴者だろう 若い世代に伝えたかったのではないか、と思うのだ。実際、この48話に至るまででも、五代が 「殴るのは、けして気持ちいいことじゃない」と言葉に出して言っているシーンも幾つかある。
 もしかしたら、クウガが敵に刺されたりした時に、生身の体と同じように血を流すのにも、そう言う意図が含まれて いたのかもしれない。
 たとえ、それがテレビの中の人物であっても、自分の好きな人間が、刺されて血を流して苦しむのなど、 見たい人はいないだろう。だからこそ。

 若い世代が事件を起こすと、いわゆる識者たちは、かならずゲームやマンガの影響を指摘する。 もちろん、そう言うものの影響も本当にあることはあるだろう。
 現代のように、若い世代が祖父母と共にくらすこともなくなり、ペットさえもロボットがとって変わろうとしている 世の中では、人の死に触れる機会は、昔に較べて、はるかに希薄になってしまっている。そんな中で、死んでも 教会や寺院に連れて行けば、すぐに生き返るキャラクターや、人の形をしていても、人間ではないから殺してもいい、 とされている敵キャラばかりを相手にして過ごしていれば、死や暴力に対する実感が薄れ、刺されたら人は死ぬし、 死んだら生き返らないのだ、と言うこともわからないようになってしまうのかもしれない。
 だが、だからと言って、死や暴力を隠してしまえばいいと言うものではないと思うのだ。私は。
 ようは、ゲームであれマンガであれ、「死」や「暴力」をどう描くかと言うことだろう。
 「死」も「暴力」も、本気できっちりと描くなら、受け手もまたちゃんと受け止めてくれる。そう言うことだと思うのだ。
 たとえば、永井豪の「デビルマン」(もちろん原作版の方)などはどうだろうか。
 彼の作品は、かつて「暴力的だ」と批判を受けたこともあった。が、「デビルマン」で描かれている暴力は、 少なくともまともな神経を持った人間なら、読んでもまねをしようなどとは思いもしないようなものだ。 しかも、悪魔であるはずのデーモンたちよりも、人間の行う暴力の方がよりひどくあの作品では描かれている。 (たとえば、デーモンが人間と合体することがわかってからの、悪魔狩りなどは、これでもかと言うほど醜悪な 人間の暴力が描かれる)
 それは、ビートたけしの言う「痛い暴力シーン」であり、同時に「クウガ」のあの殴り合いのシーンに、 製作者側が込めた思いであると思う。

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