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途中を晒すということ

時にアートの世界で好きなように絵を描き、時にITの世界でデザインに浸かる日々を送る、今日はデザイナーとしてゆるりとお話。

昨今、デザインの世界を覗くと、「途中を晒すことは素晴らしいことだ」という思考がさらさらと広がり始めて、マル秘な存在だったデザイナーの思考や振る舞いを垣間見ることができる。
尊敬するデザイナーがすぐ近くで喋りながら作業してくれてるような空気を感じている。
インターネットにとても感謝。

巷で有名なデザイナーが、自身のつくったものの完璧な状態だけでなく、それを生み落とすまでの思考の取捨や要素の組み立て、使われずに終わった没案を晒している。デザインを初めたばかりの若者たちにとって、それはとても学びになるんだろう。
ひとつ注を挟むと、ここでいう若者は、年齢の浅さではなく、その業界に浸かって間もない浅漬けの人を指していて、自分もその一人だ。

途中を晒すことの学びは、デザインだけの話ではなくて、絵や言葉の世界にも共通することだと思う。

絵を描く習慣がないひとや、身近に絵を描く人がいなかったひと。
今まで言葉の正しさに気を使う必要がなかったひとや、文章を書き起こす機会がなかったひと。
完成された絵や文章を見たとき、これはどうやって生まれたんだろう?何を考えながら作ったんだろうと疑問を感じた経験が、それはそれはたくさんある。

疑問に対して自分なりの答えを想像するけれど、想像の幅というものは、じぶんの中の知識と、誰かの思考を知っていてこそ広げられると思っている。
そして、完成形だらけの世界よりも、誰かの思考であふれた途中だらけの世界にいるほうが、想像するスピードが速いような気がしている。

巷で見かける輝いた若者たちは、そんな素晴らしい環境に身を置いて、得た知識をガソリンにして加速しながら、とても速いスピードで貪欲に知識を吸収し続けているように感じた。

世の中には、知れば知るほど面白いものが多過ぎて、全てのことを知るどころか、全てのことと自分の接点をつくることすら難しい。
目の前のものがどういう経緯で生まれたのか、どうやってつくられたのか、好奇心のある人々はその途中経過がきっと気になって気になって仕方がないはずだ。
だからこそ今この時、ものや思考の途中を晒すひとびとは、それはそれは多くの若者を助けているんだろうと思う。


ここまで、晒してもらう人の気持ちで考えたけれど、反対に途中を晒す人の気持ちはどんなものなんだろう。若者は、若者にとってはきっと晒さないことより怖いことはないし、晒すことに対して恥はないだろうと思う。

自分は、過去に描いたりつくったりしたものを見返した時、だいたい懐かしさよりも恥を強く感じるけれど、それでも、
「こんな絵を描いてる人も、描き続ければちょっとはまともになるもんだ」
とか、数年後に
「こんなUIつくったひとも、昔はこんなダサいものつくってんだ」と、未来の若者や自分のなにかしらの気休めになれば、それもまあいいか。

#デザイン #絵

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