見出し画像

仏教超入門読んだら、仏教について実は全然知らなかった話

こんにちは!
迷走するときほど素晴らしい参考書籍を引き当てがちなオリタケイです。
今回は読書本紹介のnoteになります。

事の経緯は大したもんじゃないんですが、
神漫画の『宝石の国』を読み直して、その物語の根幹と言える宗教観に仏教についての記述があり、ついつい気になったからです。(単純)

amazonで本を探すと「大乗仏教が〜」とか「浄土宗が〜」とか仏教の派生系紹介ばっか出てくるんですが、正直派生系には興味がない。
「そもそもの仏教の考え方をわかりやすく説明してくれる本ないかな〜」
って思って本屋さんで見つけたのが「仏教超入門」でした。

読んでみたところ目から鱗どころの騒ぎじゃないくらい「仏教って素晴らしいものだったんだな...そりゃこんなに有名な宗教になりますわ...」って思えた本だったので、オススメしたいと思います。
思い悩んだり生きるのつれーなって思ったりしてるところでこれ読むと、儚さと無常さってこんな昔から続いてるものなんだなって途端に世界が美しく見えるのでオススメです。

---

前提:
仏教は悩み苦しむ人の考え方を楽にする"哲学"である

仏教は、ブッタによる「人生は苦しみである」という言葉から始まります。
それに合わせて、人と人の間に生まれる「縁」で成り立ち、人そのものは「空」であるという思想から様々な考えが述べられています。
何かを信じれば救われる、みたいなものは特になく、むしろブッタは弟子に対して、「死した後自分を拝めるのは何の意味もないからやめてくれ」とさえ言ってます。
(しっかり拝むどころか世界中に親しまれる三大宗教になるほど後世に語り継がれちゃってますが)

仏教は他の宗教とは毛色が異なり、信仰によるものではなく、あくまで自分自身と向き合いながら生きていくための知恵を授け、
生きる上での悩みや苦しみをできるだけ晴らし、澄み切った心で生きることを目指すよう教える宗教が仏教であるといいます。

仏は神ではなく、人間である。

仏とは超人とか神的存在のことではない。

仏はあくまで悟った人間であり、それ以上ではない。
仏像も、あくまで悟った人間をかたどっただけの造形物に過ぎないといいます。
日本では仏のことを「お釈迦様」っていうけど、お釈迦様も元はネパールの釈迦族に由来するものだし、別の種族なだけの同じ人間に様付けする日本人やばい。
呼び方を本質的に理解してたら、少なからず「様付け」じゃなくてせいぜい「さん付け」くらいなんじゃなかろうか。

仏教が定義する欲望 ”渇愛”

「欲愛・有愛・無有愛」
「欲愛」は、例えば金や物品を欲望してやまないこと。
表参道や銀座といったブランドショップからなる場所は、まさに欲愛の街である。
「有愛」は、生への利己的な執着である。
自分さえ得すればいい、人よりもいい暮らしがしたいという欲望のこと。「無有愛」は、死へと向かう欲望である。
人生に何の意味も見出せなかったり、自暴自棄になったり、自殺したがる欲望のこと。

人生の意味や死んでしまいたい感情の「無有愛」も渇愛に該当するのが意外だったところではありますが、
別のページに「自殺することは、自らの命だけでなく自らと関わった全ての縁をも否定することである」といった感じの言葉があったので、
苦しくても辛くても意味がなくても生きろっていう思想なんですね。
ブッタさんきびちい....

人は自分の価値観を基準に判断する

それを知っている料理人は、客の調子を顔色などから素早く見抜いてその人に合った味付けをする。すると、その人が美味しいと感じる料理が作れる。
客の様子に気をかけない料理人は、自分の体調に合わせて味付けをする。
まずい料理屋にはエゴイスティックな料理人がいる。

これは仏教の「縁」と「空」を重んじる考え方なるものだと思いますが、いい評価が得たければその評価する人にあった物を作ればいいし、評価なんて気にせず自分のエゴが詰まったものでもいいわけで。
要は使いどころですが、人の評価基準はおおよそ好みや自分が過去に見聞きした知識に基づいて判断されるので、他人から受ける評価は全部が全部正しいとは限らないなあと感じる今日この頃。
相手に最適化しに行くか、深く気にしないでゆったり構えてるかがいいのかなと思った次第です。

仏教で用いられる表現は、現代の比喩・暗喩である

仏教をはじめ、宗教は様々な暗喩を用いている。
そのことをあらかじめ踏まえて読むことをしないと、死後には天国、煉獄、地獄が待っていて、(中略)この世の終わりにはハルマゲドンが起こり、死者たちは墓から蘇り、天使があちこちに飛び回り、悪魔が墜落するというカオスに満ちた幻想怪奇の世界が世界の聖典に書かれていることになる。
(中略)
あらゆる表現とたとえ話で教えられているのは、倫理と生き方なのだ。
聖典で魔法や奇跡のように描写されているのは全て暗喩の表現なのである。

仏教は、思い悩み苦しむ人が触れる哲学であることから、その悩みや苦しみが晴れ新しく視界が切り開かれた世界のことを「浄土・彼岸・仏国土」といった暗喩で言い表していて、
「輪廻」も直接的に生まれ変わることを予言しているのではなく、考えや思考を改めて人として生まれ変わるようなことを「輪廻」と表現しているらしい。たしかに、今までの仏教の教えを踏まえると、肉体のことに言及するのはなんか違和感がありますね。
キリスト教の『聖書』にある「ヨハネの黙示録」も、天使がラッパを吹いて陸は割れ空から水が血に変わり世界が滅亡すると言ったSFファンタジー全推しなストーリーが公式アイテムで記載されていますが、それらも暗喩なんだなあと思えば、なるほど意味がある記述なんだろうな...と思えます...ね...

平家物語にある「諸行無常」の言葉に続く希望

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
驕れる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し
猛き者もついには滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ

これは『平家物語』にある平家の興隆と衰退を歌う有名な歌ですが、
ここで表現される「諸行無常」という言葉は、
「常に同じものはない。全ては移り変わり、いつかはチリのように虚しく消え去ってしまう。」という儚さと無常観を表したものです。

この言葉が現代一般的に解釈されている意味は、何しても無駄だから諦めてしまえというニュアンスが多いような気もします。

悟れどころか全てを諦めろと言わんばかりの内容ですが、実際の解釈とは異なるようなのです。
ブッタの教えによれば、その無常に嘆き悲しむことはエゴであり、煩悩である。世は儚く無常でありこれは変わらない事実であるが、無常を受け入れ変化に注意を払い、努力して生き続けることが大事なのだという意味を教えていると著者は言います。

そりゃ「何しても無駄だ」なんて言葉をいう人が今この現代まで世界中で親しまれるわけがありませんから、日本においての宗教観、および「諸行無常」も含んだ様々な仏教用語がいかに大衆向けに都合よく解釈されたまま広まっているのかが理解できます。

なぜ日本の仏教は特殊なのか

仏教は本来、「人と人との縁によって人は成り立つ」「人はもとより”空”な存在である」という考えに基づく、
いわば生きる人間が自身の努力をもって生を全うするための哲学です。
いるかどうかわからない超越した神のような存在へ祈り続けることで、いつか窮地に陥ってしまったときに助けてくれることを信じて祈り続けるのではなく、悩み苦しむ人間に対して「考え方」という知恵を授け、自身の力で道を切り開き生きていけるよう諭すのが仏教です。

対して日本で広く理解されている仏教は、仏壇や仏像の前で一心不乱に「祈る」ことで、神や仏がきっと助けてくれるに違いないといった認識が一般的です。
人とは超越した何かに祈りを捧げることで救われる、それはキリスト教でいう「キリスト」の存在に近いものです。
つまり日本の仏教は、仏教よりもキリスト教に近い存在であると言えます。

こうして俯瞰した時、
日本で信じられている仏教は、あまりに人間のビジネスによって都合よく魔改造されてしまった状態で大衆に放たれてしまっているように感じます。


今回読んだ「仏教超入門」は、
仏教の本質的な教えに触れられたとてもいい良書だったので、
なにか思い悩んだり物事に詰まったり、
感情が不安定でうまくコントロールができない...
といった人には参考になるんじゃないかなと思います。ぜひ。

頂いたサポートは息抜きのタピ代になります!