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老いてゆくこと

いま、2組の介護に関わっている。なぜ2"組"と書いたかというと、片方は母親という人間で、片方は猫という動物だからだ。

母親は10年前に脳の病気で倒れ、片麻痺になった。ほぼ寝たきりだが、排泄などはどうにか自力で動けるという感じである。150km離れた実家まで、仕事が休みの日などに通って世話のようなことをしている。

一応、家事能力を備えた父親がそばにいるし、近くにはきょうだいも住んでいる。それぞれの関係は良好であるので、よくある遠距離介護の過酷さはあまりないし、ご自身の身近で献身的な介護を続けていらっしゃる方の足元にも及ばないような状態であることは間違いない。

もっぱら、僕の役目は日常生活の介助ではなく、健在とはいえもう80に手が届こうという両親は、呆けているわけではないが決断能力がどんどん落ちていっているため、治療方針を変える、ケアプランを変える、受けるサービスを変える、そういうときに力技で介入する役目を負っている。

こういう生活になって、明らかに両親を見る目が変わった。体が動かなくなってゆくこと、老いてゆくことでの、かわいそうとも、気の毒とも、興味深いとも言い切れない複雑な心の変化をまざまざと見せつけられる。

もはや話すこともそんなにない両親と、長い距離を電車に揺られて、さして居心地がよいわけでもなくなった実家に居るのは、あまり快適なことではない。ただ、父親に言わせると、僕が帰って二人のそばにいるのは「空気の入れ替え」なんだそうだ。老いた二人がずっと一緒にいるのは、やはり鬱屈としたものがあるのだろう。「居るだけ」というのも大事な役目のひとつらしい。

母親は、動けなくなってからもともと強かった厭世観がどんどん強くなっている。救急車で運ばれた後、片麻痺が残ると診断されて、殺してくれ、と言っていた。ようやく、動かぬ手足には慣れてきたようだが、霞ががったような生活をずっと送っている。

昔とは考えられないくらい、父親はボンクラになった。でも、血がつながっていることが、それでも腹が立たないことのゆえんである。むしろかわいらしい。そして、昭和の男なのに、母親が退院したその日から、家のことをすべて自己完結で切り盛りしている。やはり、家事能力は男女関係なく生活力として必要だ、と思ったし、この年になって割と心の底から父を尊敬することになるとは思わなかった。ほんとうに、えらい。

母親が倒れ、父親は健在だが、この先どちらが先に逝くのかはだれにもわからない。統計的には、男性のほうが寿命が短いのだから、父に後悔なく母に添い遂げさせたい、その手伝いを出来るだけしたい、という気持ちもある。

ふたりは、人が老いるとこうなってゆくのだ、と身をもって僕に伝えてくれているような気がする。だからなるべく、足を運ぶ。そしてこの先今の自分に対して何をすべきか、帰ってきて自分の部屋で考えることが多くなった。そうしてまた、風を入れに、決断をしに、そして勉強させていただきに、電車に揺られて生まれた街に帰る。

もう一組の話は、こちら。


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おろち

書き重ねた雑文を淡々と/衝動は嘘を付かない/記事に対するコメントはTwitterまで

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