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穴を開けつづける

右耳に2つ。左耳に4つ。
わたしの耳に開けたちっちゃな穴がもたらした、ちょっとした気づき。

小中学生ぐらいのときから、おしゃれだなぁと思ってピアスに憧れた。
イヤリングだとなんかちょっとダサい気がしていて、マグネットタイプのものが出たときはよりピアスに近づいたように思えてうれしかったのを覚えている。

高校生になったら!と思っていたのに、受験で失敗。行きたかった公立高校に行けず、私立の学校に通うことになる。校則が厳しかった。校則を破ってまでピアスを身につけるメリットを感じられず、大人しく諦めた。

高校卒業してすぐに、ピアッサーを3つ購入。とりあえず左右1つずつ。すぐに左耳にもう1つ。

なんとなく、奇数がかっこよく感じたから。それだけ。

その後少しの間は、”おしゃれ”としてのピアスを楽しんだ。
繊細なものだったり、大ぶりなものだったり、洋服に合わせてピアスをつけるのが楽しかったし、ピアスをつけているというステータスに満足していたのかもしれない。

少しすると、物足りなさを覚えた。

耳たぶに3つ開けたぐらいじゃ、つまらない。
人とちょっと違うことがしたくて、軟骨に開けた。(※その当時自分の周りに軟骨に穴を開けている人がいなかっただけで、今思えばそんなに珍しくもない…。笑)

軟骨に穴を開けた瞬間の、耳たぶのそれとは違う痛み。

思えばそこに快感を覚えていたのだろう。

その軟骨部分のピアスホールが安定してくると、それさえも物足りなく思えてきて、もうひとつ軟骨部分。ついでにもうひとつ。と続けて2つ。
耳たぶとは違って、軟骨部分は腫れたり膿んだりで、ひどいときは寝返りがうてなかった。
でも当時はそんなことすら、武勇伝のように話していたんだよなぁ。

こうして右耳に2つ、左耳に4つの穴が開いたとき、ふと気づいた。

わたしにとってのピアスは”おしゃれ”としての意味を失っていた、ということに。
じゃあなんだっていうと、

”痛みを感じることで、じぶんの存在の再確認をすること”

だったんだよな。どう考えても。いま思うとそんな考えの方がイタイ気もするけど。それでも、耳のじんわりとした痛みはわたしにとっての安らぎだった。

今はもう痛みはない。
安らぎを、ほかのところに見出だせるようになったのかもしれない。

(でも今再び穴開けたい欲求が高まっているので、安らぎ不足してきてるのかも。笑)

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