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岸和田だんじり祭り--手作り地車でトレーニングする少年達(岸和田旧市)に明るい未来を想う。

緊急事態宣言の続く大阪、日課のように撮り歩いているつもりだが、最近は街歩きするのも気が重い。というのも「街力」の衰退が顕著で、以前は大阪の街歩きスナップ撮影の中でずいぶん力をもらっていたことを思い知る。街力の源泉「食い倒れ」大阪で飲食店がここまで打撃を受けると、将来ほんまに心配なのだ。

とは言え、最近のことである。岸和田を撮り歩いている中で、非常に面白く元気な少年たちと出会った。写真を撮らせて欲しいと声を掛けるとすぐ快諾してもらった。
(ただしフォトジャーナル的な撮影の経験は無いに等しく、しかもピントもマニュアルだからその点は何卒お許しいただきたい)

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彼らは、岸和田旧市だんじりの少年団である。写真にあるように、手作り感の色濃い練習用だんじりを引いていた。話によると、オフィシャルなものではないとのことだが、しっかりした造作で立派なものである。
何事にせよ行き当りばったりの写真活動で恐縮だが、これを良い機会として、彼らの練習風景写真をご紹介する合間に、だんじりとはなにか、まただんじり曳行に必要な構成員について簡単にまとめてみよう。

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●だんじりって何? ※岸和田市公式ウェブサイト等よりの抜粋。
[歴史]
元禄16年(1703年)、時の岸和田藩主岡部長泰(おかべながやす)公が、京都伏見稲荷を城内三の丸に勧請し、米や麦、豆、あわやひえなどの5つの穀物がたくさん取れるように(五穀豊穣)祈願し、行った稲荷祭がその始まりと伝えられる。
[地車]
地車の代名詞がだんじりと考えられがちだが。祇園祭の山鉾、ねぶた祭の山車も地車の一種。一方大阪各地の地車は、ほぼだんじりである。そもそも地車は神様への奉納品でどの地車も贅を凝らした装飾に満ち、独特の音楽を奏でており、豪勢なものになっている。岸和田のだんじりではその彫り物の豪奢さが見もの。
[岸和田だんじり祭の特徴]
派手・見栄の至高の追求であろう。それを象徴するのは、その歴史の中で祭りに殉じた男たちの命の重さが証明している。

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●だんじりの役割分担
通常、1地車あたり総勢500-1000人もの構成員を擁する。だからこそ4トンもの巨大地車が大人の猛ダッシュ時のスピードで爆走するのだ。
以下、同じく岸和田市公式ウェブサイト等よりの抜粋の役割分担の説明である。また同時に写真をみていただきたい。少年たちは巧みに本番のだんじり構成をシミュレーションしていることに気づかれるはずだ。

1.鳴り物
 大太鼓、小太鼓、笛、鉦を担当。通常、青年団から鳴り物係が選ばれる。

2.綱先(つなさき)・綱中(つななか)
 だんじり曳行の主動力。曳き手のうち、曳き綱の先頭を綱先、中ほどを綱中と呼ぶ。綱先は曳き綱がたるまないように綱を張り、綱中は進行方向に全力で綱を曳く。

3.綱元(つなもと)
 だんじりに一番近い曳き手を綱元と呼ぶ。やりまわしの時に綱中の力をだんじりに伝える重要な役割を果たす。

4.前梃子
 コマの回転面と地車の間にヒノキ材の梃子を差し込みだんじりを制御する。やりまわしの時、内側の前梃子は旋回のきっかけをつくり、内側のコマの回転を抑え、だんじりを曲がりやすくする。左右二本の前梃子を操作する係は非常に危険な役のため、かなりの熟練を要する。

5.大工方
 だんじりの大屋根や小屋根に乗り、団扇を手に華麗に舞う。まただんじりの前方が見えない後梃子に進行方向を指示する。

6.後梃子 だんじりの舵取り梃子で長さ約3.5メートル。大工方の合図により左右にくくり付けられた綱(ドンス)を引いたり、肩で押すなどし、だんじりの向きを変える。二十人から三十人で担当する。

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残念なことに、コロナのため今年もだんじり曳行は見ることができない。しかしこのように土曜の人気の少ない公園で、確かに伝統の伝承は脈々と熱く続いている。
彼らは、まだまだ遊びのようなものだと謙遜していたが、彼らの輝かしい将来は約束されているに違いない。

初めての私的フォトジャーナルである。写真許可を頂いただけで、特に取材もしていないので内容は薄いが、写真が真実である。
神様に良い機会を与えていただいたと信じ、これを第一作として、被写体にぶつかってゆく活動をはじめてゆきたいと思う。

最後に撮影を快諾していただいた皆さんに心より感謝いたします。

※余談
6年前、筆者が住んでいる大阪市・東成区に、地車乗りのおじさんが店長の喫茶店があった。大阪市も地車が盛んな地域だが、各地の地車仲間と深く交流されている様子を色々話して頂いた記憶がかすかに残っている。

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もう店じまいされているようだが、まだまだお若かったので、東成区の地車に深く関わっておられるに違いない。

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