和歌山県、和歌の浦。県名を掲げるこの名勝地はきっと、和歌山の名に深い関わりがあるにちがいない。
『「和歌山」の名の由来ですが、元々、和歌山というのは上代の国府、藩政時代の藩主の居住地であった地の呼び名で、その名の由来については諸説あるうち、昔から和歌浦の名が最も知られていたので和歌山の名ができたという説が有力です。藩政時代には「若山」に統一された時期もありましたが、再び「和歌山」に改められました。』
日本・47都道府県のうち、唯一文芸的な響きのある県名である。そしてその由来とみられる「和歌の浦」とはどのような土地柄だろうか?
和歌の浦の「和歌」は、奈良時代の歌聖、『田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける』であまりにも有名な山部赤人がこの地を詠んだことが由緒とされる。その歌は、
『やすみしし わご大王の 常宮と 仕へまつれる 雑賀野ゆ』
『背向(そがひ)に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白浪騒き』
『潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より 然ぞ貴き 玉津島山』
の三歌が、玉津島神社に歌碑として残っている。
現在、和歌の浦(和歌浦と称されることが多いようだが)は、和歌山市の最南部、和歌川の河口部に広がる干潟を取り巻く地域、さらに外海に面した人工海浜の片男波、「日本のアマルフィ(イタリアの景勝地)」と称される雑賀崎も含まれ、日本遺産として認定されている和歌山県屈指の景勝地とされている。
前置きが長くなったが、本題の「ふゆのそこ」に戻ろう。
和歌の浦の中心地、玉津島神社・塩竃神社が並ぶ辺り、粗削りの巨岩にまずはノックダウンされた。
はるか古に、景色の美しさに心を奪われた聖武天皇の驚きはいかばかりであったろうか?かくして天皇は詔を出され玉津島を神とし、この眺望を大切に守るよう指示された。
熊野の地をしばらく歩き続けているが、かの地に感じる何かによく似ている。言うなれば荒々しいもの。人智の及ばないものの啓示。
不老橋から和歌川に沿って上手へと歩いてゆく。川沿いの修船工場を通りすぎてゆく。
さらに歩き続けると、懐かしい商店街がある。「明光商店街」である。
とはいえ、開いている店は少なく、傾いた軒が非常に印象深い本屋が出色であった。
まだ日暮れまで時間があったので、新和歌浦=雑賀崎まで歩いてみた。吹き付ける海風が非常に冷たい。夏場は賑わうビーチもすっかり打ち捨てられたような印象だ。ただ力強い岩石の造形が非常に心強い。
遥か長い年月における侵食と風化という、想像を絶する「見えざる手」。また古の王による詔。不思議な自然と人間の交わりによりこの地の歴史は今も人々の心を掴む力を持っている。
新和歌浦からの帰り途、もう日暮れ時である。だれもいない片男波のビーチは殺風景そのもの。人工物の悲哀とは言い過ぎか。
和歌浦を一望できる神社裏の奠供山に登った。
やはり絶景である。
そしてその「ふゆのそこ」に私はまた、春を見出すのである。
春はもうそこまで来ていた。