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ことばとともに気分よく生きていくために

 12歳だった頃、私は何を考えていただろう。どんなことで悩み、どんなことが嬉しかったのだろう。
 小学4年生にあがる時、私は親の離婚を機に転校した。転校先の小学校では、登下校時にぺらぺらのスクールコートを着てヘルメットを被らなければならなかった。寒くてださいこの格好が私は心底嫌だった。デニムジーンズを履いていくと「長ズボンは風邪のときしか履かないんだよ」と同じクラスの子に釘を刺された。それは校則外の不文律だった。
 大学を出て最初に就職した会社にも、たくさんの不文律があった。休み時間にはチャイムが鳴り、大人になったはずなのに小学校みたいだな、と思った。その会社は二年足らずで辞めてしまった。もしかすると12歳だった頃、私は辛かったのかもしれない。その証拠に、大人になってから、大人って最高だなぁと思うことがたびたびある(会社が嫌なら辞められるし)。小学校のクラスのことをあまりよく覚えていない。思いだすのは図書室で過ごしたこと、バレーボール部が楽しかったこと、6年生で初めて塾に通ったこと(その塾の国語の先生がちょっとイケメンだったこと)。
 子どもが自分で決められることは、ごく少なく限られている。ほとんどの事柄の下部構造は親の事情だ。12歳という年齢は、自分がこの先獲得していく自由の姿がぼんやりと見えはじめる頃かもしれない。「自由」を「ことば」と言い換えてもいい。卒業式の頃になってやっと、自分のなかに友達と交わすことば、先生のことば、教科書や小説や漫画のことばが入っていること、親のことばが自分のすべてではなくなったことがわかるのかもしれない。

 人はよく「自分のことばで話そう」と言うけれど、ほんとうは「自分のことば」なんてどこにもない。「自分のことば」として使うことばは、いつだって誰かのことばのまねごとだからだ。でも、がっかりすることはない。誰かのことばのまねごとを繰りかえしているうちに、自分なりのまね方ができてくる。この「自分なりのまね方を身につける」ということこそ、人の言う「自分のことば」の真意だと、私は考えている。
 詩を書くということは、この「自分なりのまね方=自分のことば」を思う存分披露することにほかならない。大事なのは「どうまねるか」だから、内容はくだらなくてもいい。何かへの怒りでも、いちばん深いかなしみでも、発見やひらめきでも、笑える話でもいい。なんなら気持ちのいい音の羅列だっていい−−「かっぱかっぱらったとってちってた」(by谷川俊太郎)。
 生きている間、ことばは私たちにずっとついてまわる。ことばはしつこい。時には人をものすごく辛くさせる。一方で、歌を歌うと元気が出たり、小説を読んで涙が出たりすることがある。「かっぱかっぱらった……」と唱えていると、なんだか悩んでいたことがばかばかしくなってきたりする。私たちがことばを学び、そのまね方を身につけるのは、そういうことばの機能を知り、必要に応じてことばに護ってもらい、ことばとともに気分よく生きていくためだ。
 ことばは私たちよりずっと長生きの先輩だ。ただし、ことばは永久に同じ姿で存在しているわけじゃない。誰にも見えないけれど、ことばたちは生き残りをかけた合戦をそこらじゅうで繰り広げていて、無数のことばが人間とともに生まれたり死んだりしている。私たちは生まれた瞬間、その合戦のどまんなかにぽーんと放り込まれる。情報や規則や不文律のことばが、日々血で血を洗っている。その光景は凄惨で荒れ果てている。
 詩は合戦が苦手なので、たいてい後方でぼんやりしている。ぼんやりするのは得意だ。詩と一緒に座ってぼんやりしていると、別の景色が見えてくる。ああ、こんな景色もあったのか……。そのとき、私たちは詩のことばに護られて、魂が静かに安らぐのを感じる。

 そういえば12歳だった頃、私はすごく「いい子」だった。誰もやりたがらない学級委員や児童会委員に立候補して先生に気に入られ、中学受験も楽しくこなし、反抗期はなく、母親との関係も良好だった。そして、作家になりたい、ものを書くことで生きていきたいと本気で考えはじめた時、それが最大のコンプレックスになった。私のなかの「いい子」からどれだけ自由になれるか−−そんなことばかり考えた。それでも今も私の無意識には「(社会という親にとっての)いい子でいなければ」という強迫がかかっているような気がする。
 そういうわけで、ことばの合戦は私の内側で現在も日々繰り広げられている。私は攻防に翻弄されてばかりだ。いまの私から12歳だった頃の私に言えることなんてほとんどない。それでも何かことばをかけるとしたら「詩でも小説でも友達でも家族でもいい、きついときはすぐ護ってもらうこと。大人になれば、大人って最高だなぁと思えることが必ずある。だからそれまで、できるだけ気分よく生き延びろよ」ということくらいだろうか。「そんなことわかってる!」と言い返されそうだけれど。


12歳の皆さんに贈る推薦図書3冊
(12歳だった頃の私を護ってくれた本ベスト3)

『魔女がいっぱい』ロアルド・ダール著/清水達也・鶴見敏訳(評論社)子どもを見くびらない大人が書いた物語。結末を読んで感じた動揺を忘れることができません。よくあるハッピーエンドとは全く違う、ハッピーサッドエンドです。“合戦”に立ち向かう、震えるような勇気が湧いてきます。

『みみをすます』谷川俊太郎著(福音館書店)私が初めて味わった詩集です。ひらがなとカタカナだけで、こんなに豊かな世界が目の前に広がることに驚愕しました。知っていることばばかりで綴られているのに、見たことのない景色を見せてくれます。

『COJI-COJI コジコジ』1〜4巻 さくらももこ著(集英社)名作『ちびまる子ちゃん』の作者が描いたナンセンス漫画。大バカのコジコジが宇宙の真理を教えてくれる、いい子のための傑作バカ入門です。さくらももこさんは『まるむし帳』という詩集を著した詩人でもあります。

初出:小金井アートフル・アクション!活動「詩人になってみよう」

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