鳥山さん

鳥山敏子さんのこと

 2013年の秋、師である鳥山敏子さんが亡くなった。亡くなってからの数ヶ月間で、たくさんの大切なことに気づかせてくれた。鳥山さんはやっぱり僕の先生だと思った。

豚一頭まるごと食べる授業

 鳥山敏子さんは、30年間小学校の教員をして、退職後「賢治の学校」をつくった。豚一頭まるごと教室に持ち込んで解体して食べる授業などが話題を呼び、著書もたくさんある。

 僕は学生のころ、鳥山さんの著書に出会った。豚の授業の他、スイミーになりきってイメージを探る授業などどれも魅力的で、収録された子どもたちの感想が瑞々しい。
 ただ、鳥山さんの本のなかには、にわかに信じがたい、よくわからない要素がいつも含まれていた。竹内演劇研究所での「レッスン」の様子だ。竹内レッスンについては今回詳しく紹介しないが、「からだが◯◯したがっている」というような、ひらがなで書かれた「からだ」が主語になった表現に、違和感があった。「私は◯◯したい」ではなく「からだが◯◯したがっている」って、変な表現。

 著書のなかの鳥山さんは、レッスンで自分の「からだ」と徹底的に向き合っていた。それは家庭や教室にまで及んでいた。自分という存在を尊重した、完全なボーダーレス生活。自分のからだが変わることで、授業が変化していくプロセスが綴られていた。

自分のからだとの出会い

 僕が実際に鳥山さんに出会ったのは、1993年の夏、伊豆の白浜海岸だった。
 ある朝目が覚めると、「きょうは鳥山さんに電話をしなければ」という考えが浮かび、そのまま電話をした。電話番号は、「ひと」という雑誌に載っていた。本の著者に電話をするという行為は、当時の僕には冒険的なものだったが、「起き抜け」というタイミングで、僕の「からだ」がそれをやってのけた。
 鳥山さんはちょうど在宅で、僕がレッスンに参加したいと話すと「学生ですか? 若いですねぇ! たぶん教員ばっかりだと思うけど、すぐに伊豆の白浜でワークがありますから、来ますか?」と、太い声で応じてくれた。

 2泊3日のワークで取り組んだことを、僕は鮮明に覚えている。大人になってからの原風景みたいに。

 初日の夜、鳥山さんと共にワークをリードしていた見田宗介さんから、なんの説明もなく「からだが自然に動くからそれに任せて」と言われて体験したワーク(後にそれを活元運動だと知る)で、「またまた、そんなバカな…」と思いつつ座っていると、本当にからだが自然に動き出した!
 でも、動きを意識すると、止まってしまう。でも力を抜くと、からだは常に僕の予想を越えた動き方で動き出す。自分のからだを制御出来ないのではなく、制御を手放すと勝手に動くのだ。なんだこれ。

「からだが勝手に動き出すなんて、もういままでの約束事が通用しない世界に足を踏み入れたんだ!」

 そう思うと、笑いがこみ上げた。僕が守ってきた小さな枠組みが、音を立てて崩壊したのが痛快だった。本来は無心で行うべき活元運動だが、僕は笑ってしまった。これは後の僕の人生を変えた瞬間だった。僕の様子を見ていた鳥山さんは、こう言って笑った。

「魚みたいに跳ねてたよ!」

 それからの数年間、僕は鳥山さんの元に通い、「からだ」を通して、自分の内側と徹底して向き合った(その間に、鳥山さんは教員をやめて、「賢治の学校」という運動を立ち上げた)。
 自分に向き合うことにどんな意味があるのかわからなかったが、そこには「確かさ」があった。確かにいま自分はこう感じているという、それまでの僕の生活にはない実感。実感があるということは、そこに確かに自分が存在しているということなのだ。

地域を「賢治の学校」に

 あれから20年以上の歳月が流れた。
 僕は鳥山さんのすぐ近くで働くことも出来たけれど、それでは自分自身のことに取り組むことにならないと思い、自分の地域(東京都町田市)で活動をはじめた。

 当時の「賢治の学校」は建物がなく、運動体そのもの。支店を増やすとか、会員を増やすという考え方ではなく、一人ひとりが自分自身のこととして、それぞれの場所で、それぞれのやり方でやればいいという考え方だった(こういう運動の展開は、鳥山さんと共に当時の賢治の学校で活動していた津村喬さんによるものだと思う)。
 僕はそこで、有形無形の様々なことを学び、多くを吸収した。「地域を賢治の学校に」と、思っていた。それがずっとずっと続いて、いまのれんげ舎がある。「賢治の学校」とは、お便りをいただくくらいで組織だった横のつながりはないが、れんげ舎の活動はその系譜に位置づけることが出来る。

横につながるな 深く深く潜ってゆけ

 いまの世の中、みんな横のつながりばかりに気を取られて、つながることで生み出される高揚感に中毒しているように見える。僕は、水脈を共有した湖どうしのように、通底するつながりが好きだ。
 周囲に合わせ、日和り、空気を読み、ジョークを飛ばし、適度にマジメな一言を吐いて、横へ横へと広がっていく意識。置き去りにされていく本当の自分。つながろうと周囲に向けて手を伸ばせば伸ばすほど、切り離されていく。ほっこり系の雑貨に囲まれていようと、オーガニックな食生活だろうと、自分が自分自身を置き去りにしていては、なにも変わらない。

 そこには、根深い自己否定がある。自分を信じられないのだ。活元運動のように、抑制を解いたときに動き出す自分のからだと心を信じていない。だから、自分自身には目を向けず、また目を向けないことの手段として、横へ横へ視線を走らせ、つながってゆく。そして、人はどんどん孤独になる。

 息を止めて、僕は自分の内面にダイブした。深く深く潜った。

 深く潜れば、いつか息が続かなくなると思っていた。光は失われて、闇があると思っていた。でも、口から息を吐くと、そのまま呼吸が出来た。目を開けてみると、そこには光があった。窒息することも、闇に迷うこともなかった。
 むしろ、「ふだんの自分」が窒息しそうになっていることに気付いた。闇のなかで迷っていることに気付いた。僕は僕自身の内側を見ていなかった。いや、見ていたのだが、それに価値を認めず、無視していたのだ。

自分を信じろ 子どもを信じろ

 だれからともなく、だれにともなく、僕の内側から言葉がやってくる。

 自分を信じろ。子どもを信じろ。他人のことは気にするな。比較そのものがネガティブで、あなたが比較した瞬間に立っているそこは、既にあなたの道ではない。未来を予言するな。保障を求めるな。大切なものを永久保存しようと試みた瞬間、もうそこはあなたの道ではない。

 知らぬ間に自分でかけた手錠を外すのだ。あの先に行けば死んでしまうよと教えられた境界線を、繰り返し繰り返し越えるのだ。

 この<わたし>という、底の見えない湖のなかへと、素潜りでダイブしていく勇気を、鳥山さんは僕に与えてくれた。目の前で、繰り返し繰り返し、やって見せてくれた。やってみせるという以上に、人を励ます方法があるだろうか。やってみせるという以上に、人に与えられるものがあるだろうか。

 お別れの日。
 一日働いて眠ったような顔の鳥山さんに、心のなかで話しかけた。

 鳥山さん、ありがとう。僕は鳥山さんが旅立ってから、急に気合いが入ったよ。会うこともほとんどないのに、後ろにはいつも鳥山さんがいるような感じがしていたんだと思う。自分よりもっとうまくやれる人がいるから、いざというときにはやってもらおうと、どこかで思っていたんだと思う。
 鳥山さんが旅立ってしまって、もう僕以上に僕の思いを語ったり、僕を理解したり、僕のやりたいことをやれる人は、この世にいなくなった──なんだ、後はもう全部自分がやっていいんだ。

 これからは、自分で自分を信じて活動すればいいよと、最後にもう一度背中を押してくれた。一生モノの励ましをくれた。ありがとう、鳥山さん。

*この原稿は、「名前のない新聞2014年3月号」に掲載したものに、加筆・修正したものです。


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