常識の壁

場づくりと常識の壁

場づくりをしていると、しばしば「常識の壁」に突き当たる。

「こんな場をつくったら、変に思われるかな?」
「この場の価値を説明しても、きっと分かってもらえない…」

このような疑念は、コンセプトが新しいと起こりがちだ。

「家庭の主婦が夜中まで会議するなんておかしいのでは?」
「まず一人前になって、それからやるべきことなのかな?」

この種の疑念は、スタイルが新しいとよく起こる。

どちらも正体は、「常識の壁」だ。

新しくつくられた場は、大抵何らかの新規性を帯びている。

新しいということは、それまでの枠組みの中に収まらず、
どこか飛び出ていたりはみ出していたりするものだ。

これはコンセプト(目的や趣旨に関すること)にも、
スタイル(やり方やふるまいに関すること)にも言えること。

だから、新しいというだけで、「常識の壁」に突き当たってしまう。

常識の壁にどう対処するのか

あなたは、「常識の壁」にどう対処していますか?

すぐ諦めたり、「常識の側」に立ちますか?
それとも、我が道を行く! と構わず突っ込んでいくタイプ?

常識というのは、不鮮明な写真のようなものだ。
ぼんやりしていて、肝心のところはよく見えない。

例えば、「家庭の主婦なので、夜は出られません」
という“常識的な”発言があったとしよう。

これに「そうか、主婦は夜出られないよな」と応じれば、
話はそこで終わりだ。それでいいなら別に構わない。

ただ、ここで流されずに粘るには、どうすればいいのか。

それは、鮮明化すること。状況を高解像度でスキャンするのだ。
先ほどの例なら、こんな問いかけが可能だ。

「家庭の主婦っていうか、◯◯さんが夜出られない理由は?」
「夜って何時以降のこと? 19時は夜に入る?」
「月1回でも無理? それとも続かなければ大丈夫?」

ちょっとツッコミが激しいと感じるだろうか。
でも、常識の壁に対抗するには、これくらいはやらないと。

「主婦は夜出られない」と“常識的に“収めてしまえば、
その人はその場を失い、場もその人を失う。

でも、高解像度で捉えたら、可能性が広がってくる。

「夜といっても、20時くらいまでなら大丈夫」ということなら、
開始時刻を早めて20時終了で場を設定するなど、やりようがある。

常識はあなたを守ってくれない

これは「根掘り葉掘り尋ねて心変わりさせる」ということとは違う。

必要があれば、やりとりの解像度を上げて丁寧に扱い、
一人ひとりの思いや事情を尊重する、という意味だ。

人ではなく“常識”に義理立てしても、何も得られない。

ピンチになるとどこかから“常識”が登場して、
あなたを救ってくれるだろうか?

深く考えず、常識や社会通念を無批判に採用して決断しても、
丁寧に考えて、自分の内側の基準に基づいて決断しても、
どちらも「自分の決断」で、結果は自分に返ってくる。

低解像度の不鮮明な考え方でぼんやりと判断すると、
流されてしまい、いつまでも自分の内側の基準が育たない。

僕自身の場合

さて、最後に僕自身の具体例を示そう。

僕は、様々な形で「常識の壁」に挑戦し、目立たないところを
ボロボロと切り崩したりして、ここまでやって来た。

いまも、壁に挑んだり、時に迂回したりしている。

例えば行政機関から仕事のご依頼がある。
行政機関は、もちろんおカタいところが多い。

おカタさは揶揄されることが多いが、
形式と手続きを重んじることで、
公平性が守られていることを忘れてはならない。

僕は、彼らのカタさを尊重している。

ただ、そんなおカタい場でも、僕は自分であることを貫く。

実際のところ、招かれた多くの場で、僕は異物だ。
でも、それがその場における僕の存在価値なのだ。
意識的にも無意識的にもそこに責任を求められ、応えている。

だから僕は、「ここではこうすべき」という常識の壁を、
揺すってずらしたり、迂回したり、いろいろやっている。

爆薬を仕掛けて破壊するようなことはしない。

打ち合わせを重ね、お互いがそうしたい理由を理解し合い、
その上で「そもそもの目的」とのつながりを検証する。

合わせるところはきっちり合わせるが、
合わせないところは絶対に合わせない。

こうすることで本当の意味での成果を上げられるし、
「呼んでよかったです!」と、喜んでいただけていると思う。

\Question/
あなたの近くにある「常識の壁」は何ですか?
それに対して、どんな態度を取っていますか?


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