責任

次の扉を開く! 「100%わたしの責任」という捉え方

責任という言葉は、ときに重く響く。「責任を取る」とか「責任を追及される」とか、嫌な話感がすごい。ただ、そんな風に責任を偏って狭くとらえてしまうと、場は本来の輝きを発揮できない。

「責任者」はだれだ?

公園に空き缶が落ちていた。近くに空き缶入れがあるのにもかかわらず、地面に捨てられている。さて、あなたなら、だれに責任があると考えるだろうか?

A:空き缶をポイ捨てした人
B:公園の管理者
C:空き缶を発見したあなた

とりあえず、この3択。
(A、B、Cのうち、あなたの見解は?)

A:そんなの捨てた人が悪いに決まっている。正解。
B:公園をきれいに保つ管理者の責任だ。正解。
C:見つけたあなたが悪い不正解。そんなわけない、冗談じゃない。

AとBはどちらも正解。しかし、これら正解は、目の前の場を変える力がない。場づくり的には、正解はCだ。ただ「悪い」というのは間違え。

「100%わたしの責任」という考え方

正解はCの根拠は、「責任(responsibility)」の本質にかかわっている。

公園に空き缶が落ちていた。それをあなたは見つけた。
あなたが捨てた空き缶ではないし、あなたは公園の管理者でもない。だから、あなたは悪くない。ここまでが前提条件。

その上で、「100%わたしの責任」という考え方を示したい。
「100%わたしの責任」というのは、「自分の自由意志で、好きに決めることが出来る」という意味だ。意思決定を自分の自由意志で行える状態のことを言う。

もう一度、あの場面に戻ろう。
目の前の地面に空き缶が転がっている。それをあなたは見つけた。

A:スルーして立ち去る
B:拾い上げて、空き缶入れに入れる

この2つを、あなたは100%自分の責任で、つまりまったく自由に決めることが出来る。これを、僕は場づくりの現場での「責任(responsibility)」と定義している。

「なにもしない」はあなたの選択

よくある間違えは、「拾い上げて、空き缶入れに入れる(B)」のような分かりやすい行動が選択による行動であって、「スルーして立ち去る(A)」のような見えにくい行動は選択ではない、という考え方。これはおかしい。行動のわかりやすさと選択の有無は関係がない。何もしないということも、何かをすることとまったく同じ重さでの、あなたの選択であり、意思決定だ。

つまり、あなたが空き缶を見つけてしまった時点で、あなたはその空き缶に対してどのような態度を取るのか、100%の責任がある。だれが捨てたか、だれが責任者か、そんなことは現場ではどうでもいいのだ。

ただ、あなたは悪くない。少しも悪くない。たとえ気付かないふりをしてスルーしても、それにかかわっても、どちらにしてもあなたは悪くない。ただ、その行動の結果は100%自分で引き受けていかなくてはならない。50%でも99%でもなく、100%なのだ。なぜなら、あなたはどちらでも自由に選べたのだから。

繰り返しになるが、どちらを選んだとしても、あなたは悪くない。自由意志を与えられ、ある状況に参与した時点で、100%の責任が発生している。あなたは悪くないから、だれも責めないし、責める奴など放っておけばいい。あなた自身があなたにかける言葉に、耳を傾ければいい。

あなたのセンサーは常に最高品質

空き缶を、あなたの運営する場での「ひっかかり」だととらえてもいい。あなたの生活のなかでふとした瞬間にあらわれる「まだぼんやりしたアイデア」だととらえてもいい。

大切なのは、あなたが「それ」を発見したという事実。そして、それに関与するもしないもあなたの自由、100%あなたの責任だということだ。

空き缶の近くを通った一体何人が、空き缶に気付いただろう。100人が通り過ぎても、気付いたのはあなた一人かもしれない。あなたの鋭敏なセンサーが、空き缶をキャッチした。あなただから、あなたが特別だから、キャッチすることが出来たのだ。

たくさんの場数を踏んできた立場から、ここは経験則で語りたい。その人のセンサーが「何か」をキャッチした場合、それはその人にとって必要なことか、あるいはその場にとって必要なことか、それら両方かのいずれかだ。必要があるからキャッチした、そう考えるのが妥当だ。

あなたのセンサーは、いつだって最高品質で、しかもそのときのあなたに最適化されている。だから、そのセンサーがキャッチした「何か」を、大切に扱ってほしい。それは、自分自身を大切に扱うこととまったく同じことなのだ。いや、「自分を大切にします」と言葉で言うのは簡単だが、実際にはこういう意思決定を通さないと、自分を大切にするということを行動で示せないこともある。

想像を越えた豊かさこそが本当の豊かさ

場の力が本当に引き出されるためには、その場に転がっていた「空き缶」を発見した人が、100%自分の責任で自分で判断する必要がある。場に参与している人がキャッチした「何か」は、常に鍵なのだ。その場にとって、次の扉を開くための鍵だ。

扉を開けると、その向こうに何があるのか?
それれは開いてみないとわからない。

それでも、自分で選択をすると、結果がもたらされる。結果のすべてを把握することは不可能だが、一部くらいはだんだん分かるようになる。成功しても失敗しても、やがて自信がついてくる。

「目的は何ですか? ミッションは何ですか?」

簡単に言葉に出来ることを前提に投げかけられる質問の数々。
そんなの簡単に言えるかよ、言えば分かるのかよ、といつも思う。

その場にこめられた思いの本質、場の本当の価値、そして可能性。それらは、事前に言葉で小さく規定されるものではなく、場を重ねながらやがて紐解かれ、立ち現れてくるものだ。その時々で言葉は必要だが、それに縛られる必要はない。口当たりのいい表現で自分や場を矮小化してはダメだ。
「この場を守ります」などと言いながら、感じることと考えることをやめていないだろうか。そんなことをすると、遅かれ早かれ場は死んでしまう。だから、鍵を見つけたら、次の扉を開くのだ。

計画できることなど、たかが知れている。
本当に素晴らしいことは、計画外に起こる。


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