見出し画像

vol.68「無尽蔵のいたわりと残虐さ」(『幼年時代』トルストイ 原卓也:訳/新潮文庫/1973年刊)

vol.68「無尽蔵のいたわりと残虐さ」 

みなさんこんにちは。
今週はトルストイです。

ものすごい有名作家ですが、いつから日本で有名になったのかは、そういえば知りません。ウィキペディアによれば、明治文学のころから知られていたようですが、印象としては少女漫画と親和性が高い気がします。『ミルモでポン!』の彼氏役も呼んでいました。これは…違うか。

『幼年時代』、トルストイ。
では、どうぞ…。

本書は小説ですが、半自伝的な性格を持っています。タイトルどおり幼少時の思い出をもとにした処女中編。トルストイは晩年、自分の執筆活動のいっさいに「無意味さ」を感じるようになり、駅でひとり肺炎に倒れます。本書を執筆した時点から高い評価を得て、作家として比類なき名声を修めた彼ですが、その人生は空しさや孤独のうちに終わったようです。
そうして人生を終えた彼ですら、幼年時代は「幸せな時代」だったと考えているようです。屈託のない信仰心。だれに対しても発揮される同情、やさしさ。淡い恋。そういった「失われた純粋さ」を、幼少時の自分に見いだしています。
そういえば、同窓会で知り合いにあったときも、「小学生のころに帰りたい」なんて人はけっこういることを知ります。そう考えるのが普通なんでしょうか。

🐜🐜🐜🐜🐜

「少年の純朴さ」を描くエピソードとして、たとえば、主人公ニコーレニカ(10歳)と家庭教師カルル・イワーヌイチの関係があります。
カルルは身寄りのない老人で、主人公たち預かった子どもたちに奉仕することで、なんとか居場所を得ている男です。
しかし、ニコーレニカ一家が田舎からモスクワに状況する際、家長であるニコーレニカの父は、カルルに暇を出そうとします。これはカルルの心をまったく荒ませる事件となりました。「心から主人に尽くしても、見返りは期待できないものなのだな。」などと同僚にもらし、人生の希望を見失います。
結局ニコーレニカが父に頼み込むことでカルルもモスクワに同行するのですが、「老人の心を子どもが癒す」という状況には、なにか普遍性を感じます。

🐜🐜🐜🐜

人間の人生は有限であり、そして「人生後半」に進むほど残り時間、つまり「選択の自由」や「可能性」といったものは失われます。家庭教師カルルもまた、身寄りを失い、仕事で受け持った子どもに尽くすことで、なんとか「お情け」を受けて生き延びています。
「家庭教師を雇う」という売買契約を考えた時、「いなくてもいい人間」に給与を払い続ける理由はありません。カルルは「給与なんていらないから、おそばに居させてください」とまで言うのですが、そんな義理もないはずです。
ところで、通常の利害関係で考えれば引き出されない「用済みの家庭教師カルルをモスクワに連れていく」という判断は、ニコーレニカ少年によって導かれます。子どもというのは、自分で自分の食い扶持を確保していませんから、利害の観念は(大人とくらべれば)薄いと言えます。それに、トルストイが考えるような「純朴さ」も備えている。
もはや人生に「可能性」「選択の余地」が失われた、行き詰った老人を、可能性しか、不確定要素しか、不可解さしか持たない子どもが癒す。それはこの無常の世界の、「やさしさ」と「残酷さ」のつり合いをとる法則なのかもしれません。

🐜🐜🐜

ここで、「子どもには純朴さがあるもの」として考えると、「行き詰った老人」と「始まったばかりの少年」の間に、バランスが釣り合っていることは分かります。
しかし、子どもの「なにも持っていない状態」「なにも経験していない状態」。つまり「タブラ・ラサ(白紙)」な状態が「人をいたわる」方向に進む保証は、本来ありません。
「なにも持っていない」からこそ、利害をこえた「施し」「お情け」を引き出すことができますが、「なにも経験していない」からこそ「無尽蔵の悪意」が湧いてくることもありましょう。「タブラ・ラサ」が「いたわり」と「悪意」、どちらの方向に進むかは常に不確定です。

🐜🐜

どうして子どもから「無尽蔵の悪意」が出てくるかも…なんて不快な話をするのかというと、僕自身の「幼年時代」に根拠があります。
ちいさいころの思い出なんて、後年に意味付けしただけで、当時は深い考えなんて無かった…ってことが大いにありえますが。ともかくこんな記憶があります。

幼稚園時代。園児たちは庭で自由時間を過ごしている。それぞれ色んな遊び方をしているなか、僕だけが「巣から湧いてくる蟻」を、ひたすらに踏みつぶしている。すると、それを見かねた先生が声をかけてきました。

そんなことは止しなさい。もし君が蟻さんになって、先生に踏みつぶされたら嫌でしょう?

僕は答えます。

いいよ!(踏めるもんなら、踏んでみなよ!)

先生は「蟻さんだったら…」という仮定で話しているが、現に自分は蟻じゃないのだから、大きすぎて踏みつぶすことはできない。それに、親から預かった園児を、先生が「踏みつぶす」なんてしたら大問題だということを、子供心に理解していたように思います。

🐜

「純朴な子供」には優しさを発揮して「失うコスト」もなければ、残虐さにブレーキをかける「辛い経験」もありません。しかし、売買などの契約や、「先生と園児」の関係といった「論理を見抜く力」は、具体的な経験によらず身につくものではないでしょうか。
「もし蟻さんだったら…」などというナメた理屈をこねまわすと、少年に「あなどっている」ことがバレます。
本書の主人公ニコーレニカは、母の死によって幼年時代を終え、続編『少年時代』に進みます。子どもの「いたわり」と「残虐さ」両方に進みうるタブラ・ラサ(白紙状態)を方向付けるには、やはり大人の側が論理力を発揮する必要がある気がします。論理性は、具体的な経験によらずとも、宇宙や時間、未来や別次元すら「語る力」を人間に授けてきました。それはまた、明らかに「人生の残り時間」が違う、人生観が違う大人と子どもの「言葉」をつなぐうえで、数少ない手立てのように思えます。
別に大人と子どもが、口頭で直に「語り合える」なんて思っていません。ただ、トルストイが残したような「無意味な文学」を、いつか受け取る人間がいるのではないか。

(おわり)

はたから見ればドン引きですが、蟻をひたすらに踏みつぶすことの、なにがいけないのかは、ちょっと言葉で説明しづらい。「もし蟻さんだったら…」という過程を敷くこと、ずさんな理屈を使ってしまうことも理解できます。

どうせ「蟻になる」なんて、カフカ的変身を本気で信じているわけではないでしょう。しかし論理のずさんさからは、そのまま「真剣さ」「本気さ」の欠如が透けて見えます。

「子どもの純朴さ」を安易にあげつらう人は、はたして「純朴さの意味」を本気で考えたことがあるのでしょうか。

では、次の水曜日にお会いしましょう。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

来週もがんばります!
3

大学生の読書日記

東北大学/「エキマエ読書会 by東北大生’s」のオーナー/ 「読書生活のサンプル」をお送りします(毎週水曜日)

UNI選書

大学生から贈る、「読書生活のサンプル」。図書推薦文の形式をとりながら、「学生思考」をお届けします。(毎週水曜日更新) 扱う本のリクエストも受け付けております!各ノートのコメント欄からどうぞ…
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。