見出し画像

vol.67「時間と性、ディストピア」(『侍女の物語』マーガレット・アトウッド 斎藤英治:訳/新潮社/1990年刊)

vol.67「時間と性、ディストピア」

みなさんこんにちは。
今週はカナダのSFです。

ほんとうは、前回の冒頭に書いた通り、福嶋亮大・チョウイクマン『辺境の思想』を扱い「ローカルということ」を考える予定だったのですが、よくわからなくなったので書けませんでした。それに昨日は中学生の知人とお酒を飲みまして、疲弊したので無責任なことを書いてしまいます。よって得意分野のSFに逃げました。屈辱…

マーガレット・アトウッド、『侍女の物語』。
では、どうぞ…。

本書はディストピアSFです。ときは21世紀の初頭ごろ、戦争かなにかで世界中に化学物質や放射能がまき散らされた社会。多くの男女が生殖能力を失ったせいで、数少ない「子どもを産める女性」が国家の所有物とされました。主人公の女性オブフレッドもまた、自由をうばわれ、地位のある男にあてがわれています。そもそも「オブフレッド」という名前も、「of フレッド」、つまり「フレッドさんのもの」を意味しています。彼女本来の名前は、使うことを許されていません。

🧜‍♀️🧜‍♀️🧜‍♀️🧜‍♀️🧜‍♀️

本書はオーウェルの『1984』と酷似した構造を持っており、物語のエピローグは「後世の学者がディストピア社会をふり返って書いた論文」によって締めくくられます。
『1984』の場合は主人公が検閲官という「公務」に就いており、「真実を削除し、都合のいい事実を偽造する」という、ディストピア社会の特性の一端を担っています。主人公自身がある程度の社会参加をしているおかげで、小説で描かれるディストピア社会は、その構造・概要が主人公によって語られうるのです。これは本来おかしな話で、「情報が政府によって管理されている」のがディストピア社会の特質なのですから、一人の人間が社会を見渡せるはずはない。なにせ、真実は絶えず隔離され、書き換えられているのですから。そこで主人公自身をディストピア社会の構築に貢献させることで、「社会の裏」を描き出すことに成功したわけです。

🧜‍♀️🧜‍♀️🧜‍♀️🧜‍♀️

いっぽう本書『侍女の物語』では、主人公は無職の女性。ある日突然クーデターが起こり、軍事政権が誕生し、憲法は破棄され…、彼女の「生殖能力」は国家の公共財とされました。次々と政府高官のもとを渡り歩き、その妻の前で男と交わる。彼女の日常は、政府によって徹底的に管理されています。脱走を防ぐため、破砕防止ガラスに覆われた小部屋に幽閉され。自殺を防ぐため、一切の刃物は与えられず。また、精神の自立を防ぐため、印刷物も、自由な外出も禁止されています。派遣先の家の妻に嫉妬されないように、あるいは男に情を移されないように、化粧品もローションもすべて使用不可。あらゆる情報・行動を制限された彼女に、「この不自由な社会」の裏側など、知るべくもありません。ディストピアは彼女の前に、ただ個別の「不自由な事柄」として表れ、その「一貫した構造」「連続性」は隠されたまま。これはひとえに、「女は家に入るものだ」とされているせいで、主人公は一切の社会参加が不可能になっているためです。この点にディストピアSFとしての、本書の特質があるように思います。

🧜‍♀️🧜‍♀️🧜‍♀️

女性が「家」に隔離されているせいで社会参加が不可能になり、歪んだ社会が「なぜ・どのように歪んでいるか」すら掴めない。ディストピア社会の下で延々搾取せざるをえない。そんな停滞した状況が、本書の物語に一貫しています。言ってみれば、暗くて地味、平坦な小説です。
エンタメとしてみれば、こういう無責任なレヴューがまず出てきますものの…、ここまで書いて気づいたことが一つあります。「女性が社会参加を許されない」というディストピア的状態は、まったくフィクションではありません。むしろ現代日本においても、ありふれた「状態」です。
しかし本書が、そういった社会にはびこる「女性蔑視の視線」を批判しているかというと、どうやらそうではない。先ほども書いたとおり、本書におけるディストピアを構築しているのは、「個々の事件」「女性がする嫌なシチュエーション」などなど、連続性・一般性を持たないイベントだけで、制度とか宗教とか、イデオロギーではありません。
そしてなにより、登場人物たちは思想を語らない。個々のイベントに対し「男というものは…」「女というものは…」という偏見は語るものの、それ以上のマクロな視点、「こんな社会はディストピアだ」「本来自由とは…」「望ましい性の在り方とは…」といったマクロな視点には立ちません。ここでの、「男や女」といったミクロな要素に関する知識は、自らの経験豊富さを誇示するために口にされる偏見に過ぎない。誰かを批判することも、誰かに批判されることも想定していない、自己中心的な物言いです。

🧜‍♀️🧜‍♀️

本書は、「時代というマクロなもの」を捉える困難さを描いているように思います。「社会参加を許されない女」や「特権に甘やかされた男」は、個々のメロドラマや性的なやりとりを通じて「社会」を学びます。公共財としての「快楽抜きの生殖」と、秘密裡に運営される風俗やクラブとの間を行き来し、人のサガというものを知る。しかしそこからマクロな視点、思想あるいは理想にたどり着くには全く別の素養が必要になるようです。人は「どれくらい快楽に流されるものか」「どれくらい異性を必要とするものか」という事実を知るだけでは、その事実を否定したり、批判して別の「望ましい性の在り方」を考える道筋にはつながりません。
この「性に関する惰性」に抗うには、なにが必要なんでしょう。まったく分かりませんし、経験もないので見当もつきませんが。しかし批判性とは、一般的に「時間」がもたらすものだと思います。今とは違った常識・理想を持った時代について、多くの資料を参照可能にしておくこと。本書においてはあらゆる印刷物が禁止されているため、この手段は封じられています。

🧜‍♀️

ディストピアSFは他にも『華氏451度』『ハーモニー』『すばらしき新世界』など、名作が数多くあります。それぞれ、ディストピアによって抑圧されるのは性・知性・信教の自由などバラバラですが、「ディストピア状態が続いている理由」はどれも共通しています。印刷物・情報の流通の制限によって、人々が過去や未来を見る力を無くしていること。これは本書においても同様でしょう。
昨今、あいちトリエンナーレに関する報道・言論が錯綜しています。『表現の不自由展』が、果たして「何についての表現」の不自由を訴えようとしたのか。政治に限った話なのか、それとも「人間の知性一般」に関わる表現を総合したものなのかは、検討の余地があります。しかし人間は、たやすく表現を封じられ、「時間」から疎外されるものだということは、これらSFの名作たちが示すとおりでありましょう。あんまり無関心ではいられません。

(おわり)

「お酒を飲む」という行為を、まるで自傷のようにおこなう人がいます。「オレなんか毎日飲んでるぜ!?」とか、「昨日も友達ん家でオールしちまったー」とか。

だから、なんだ。

とは毎度思いますものの、アルコールという「正気を失わせる物質」によって、やさぐれたくなる気持ちは理解できますし、広く共感されるものでしょう。本書においても、「女性の性」が阻害される社会に不満を抱き、「性の濫用」をしたがる人物が登場します。
主人公の親友モイラという女性ですが、彼女は水面下のクラブに勤務しており、多くの男性と交わっています。生殖機能を社会に管理されるくらいなら、性器を擦り切れるまで使い切ってやる、という考えだそうです。分かる話ですが、不毛だとも思います。
一人一台スマホをもって、Amazonや楽天市場やブックオフが隆盛を極め、図書館が万人に開かれている。書を手に入れ、「時間性」を得るにはいい時代なはずです。この財を活かす必要はありましょう。活かす「責任」があるとは…、言えませんが。

🦇🦇🦇🦇🦇

そういえば、ちかごろ『仮面ライダーキバ』というTVドラマを観ていまして。2008年と1986年という、二つの時代を行き来する、愛と不倫と血筋のもつれの物語なんですけれども。登場人物を親子二代に渡って描くことで、人のつながりや愛をテーマに挙げています。本稿の「時間と性」というテーマ立てを援用して、『キバ』を楽しむこともできるかもしれません。ご興味あれば。

では、次の水曜日にお会いしましょう。

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

ありがとうございます!
3

大学生の読書日記

東北大学/「エキマエ読書会 by東北大生’s」のオーナー/ 「読書生活のサンプル」をお送りします(毎週水曜日)

UNI選書

大学生から贈る、「読書生活のサンプル」。図書推薦文の形式をとりながら、「学生思考」をお届けします。(毎週水曜日更新) 扱う本のリクエストも受け付けております!各ノートのコメント欄からどうぞ…
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。