祖母の死

初めてnoteに登録してこれを書いています。

11月14日、母方の祖母が亡くなった。
92歳だった。

10月の中頃に母親から「おばあちゃんの容体が少し危ないかも」と言われてから覚悟してたが、いざ現実を迎えると涙が止まらない毎日だ。
それでも自分の気持ちをここに書き記しておきたいと思う。

母方の祖父母とは名古屋の実家で二世帯で一緒に暮らしていた。一階に祖父母、二階に僕らが住んでいたので上京する前まではほぼ毎日顔を合わせていた。20代前半まで一緒に暮らした当たり前の様な存在だった。

僕はおばあちゃん子だったと思う。
物心ついた時からおばあちゃんが運転する自転車の後ろに乗せてもらって色んな所に連れて行ってもらった。コーラが大好きだけど一缶は飲み干せないから僕が半分飲んでた。リポビタンDも半分もらってた。

日曜早朝に祖父母と家の近くの川沿いを散歩するのが好きだった。
散歩の終わりにはおもちゃ屋でゲームを買ってもらったりした。
当時はそれが一つの目的だったけど、今も散歩が好きなのはあの頃があったからだと思う。

祖父母、特におじいちゃんは富士山が好きだったので静岡まで車を走らせて3人で日の出に染まる赤富士を見に行ったことも多々ある。
帰りに美味しいマグロ丼を食べた記憶が残っている。
今でも富士山を見るとテンションが上がるのは祖父母の影響だ。

大学生になりネットの友達とスカイプを繋いでモンハンをやって徹夜する夏休みを送っていた。朝5時頃、一階からおばあちゃんが作った朝ごはんの香りが漂ってきてそれを食べてから眠りにつく日々だった。
炊きたての白いご飯、味付け海苔、味噌汁、醤油と大根おろし。今でも炊きたてのご飯の香りを嗅ぐと一階の光景を思い出す。
おばあちゃんが作るだし巻き卵は砂糖が多くてあんまり好きじゃなかった。

就職の為に上京して仕事に追われてた頃、年末年始に深夜バスで初めて帰省した。リクライニングシートで寝不足の僕を玄関の扉を開けて「おかえりなさい」と言ってくれたおばあちゃん。とても温かくて嬉しかったのを覚えている。

おじいちゃんはちょっと昭和の考えが強い人で、身内の僕でも厄介だなって思う時が多々あった。父と仲が悪くしょっちゅう喧嘩してたのを覚えているし、上京してからも母や妹から相談される事が多かった。大好きな事には変わりないけど、人間って相容れない部分もあるからしょうがないと思っている。おばあちゃんはいつも中立的な立場で疲弊する父親と母親を支えていた。そう見えていただけかもしれないけど。

そんなおじいちゃんが施設に入って、おばあちゃんも別の施設に入って、実家に帰省しても祖父母がいない状態になった。

そこから2020年、世の中がコロナ禍になってしまった。
施設に面会に行けない。行けても一人だけ、それもパーティション越し。
上京している僕はともかく、近くにいた母でさえ直接触れることもできなかったみたいだ。

そして2021年の年始に祖父がコロナにかかって施設内で亡くなった。
泣きながら妹から電話がかかってきた時には全てを察した。
僕が名古屋に帰る頃にはもう火葬が済んで骨になって、小さく骨壷に入っていた。
不思議と祖父の時に涙は出なかった。
実感がなかったんだと思う。

別の施設にいるおばあちゃんには知らせなかった。
ショックで倒れてそのまま死んじゃう可能性があったから。

施設で暮らして誰も会いに来れない状況はとても寂しかったと思う。
歳を重ねてボケが進行してオンラインで面会しても僕の事もあんまりわかってなかった。ボケながらも100歳まで生きるつもりだったらしい。
電話で話す母が嬉しそうだった。

そして2023年の夏、お盆。
母親が「コロナも規制緩和したからおばあちゃんと面会できるけど、する?」と聞かれた。僕は即答で会いたいと言った。
今でもこの時の自分の判断は褒めてあげよう思う。

施設内で面会できる人数は3人までなので僕、妹、甥っ子と3人で会いに行った。
おばあちゃんは車椅子に乗って髪の毛をショートヘアにしていた。
随分細くなった身体から小さな声を出して「ありがとねぇ」と言ってくれた。多分僕の事は認識してなかったと思う。マスクをして顔が隠れていたから、一度も僕の名前を呼ばなかった。
次いつ会えるかわからないと思ったから写真を撮った。

甥っ子と3人で

帰り際におばあちゃん長生きしてね、と伝えた。
これが僕とおばあちゃんの最後の会話だった。

10月の中頃に母親からおばあちゃんの容態が悪くなっているとLINEがきた。
友達と飲み屋にいた僕は店を飛び出して母親に電話した。
色々な処置をしたり、施設を移動したり、やれることはしたいと話した記憶がある。酔いも一気に冷めた。

母親からは随時おばあちゃんの状況を伝えてもらった。
意識はしっかりしてるし施設も移動して色々処置もしてもらってたがこの頃から持って半年、早くて一ヶ月と言われていた。
いつその時が来てもいいように覚悟はしていた。

そして11月14日、深夜3時に妹から電話がかかってきた。
その時点で全てを察した。あぁ、予期していた事が現実になってしまったと。

「おばあちゃんが亡くなった。今から病院に行く。」

しばらくベッドの中で暗闇を見つめてボーッとしていた。
結局寝れずに仕事に行った。

忌引き休暇をもらって急いで名古屋に向かった。
新幹線、妹の運転する車、なるべく考えないようにしていた。
気が緩むと涙が出そうだった。

葬式上に着いて棺桶の中にいる動かないおばあちゃんを見て涙が止まらなかった。今にも起き出して名前を呼んでくれそうなのに全然動いてくれない。堪えていたものが全部出てしまった。

その日は葬儀会場に父母甥っ子と四人で泊まった。皆でおばあちゃんとの写真をボードに貼って、僕が文字を描いた。

最後の祖母孝行ができたと思う。

寝る前に母親と二人でおばあちゃんに沢山話しかけた。
「もっと会いに行けたら良かったのにごめんね」
「次の1月の誕生日まで待ってるのかと思ったけど違ったね、おばあちゃんはおじいちゃんの誕生日を命日に選んだんだね」
母の言葉に涙が止まらなかった。
そうか、おじいちゃんの誕生日だったか。忘れてたよ。
おじいちゃん寂しがり屋だから、おばあちゃんを向こうに呼んじゃったのかな。ごめんねビックリするよね、向こう行ったらおじいちゃんが先にいるんだもん。

次の日、葬式を終え火葬場に行く前に最後のお別れをした。
冷たくなったおばあちゃんの肌に触れてまた涙が止まらなかった。
最後に大好きだったコーラを少しだけ唇につけてあげた。

霊柩車に棺桶を入れる時に、My Chemical RomanceのHelenaのMVを思い出した。あれもおばあちゃんへの曲だったけな。

火葬場で骨になったおばあちゃんは随分と小さくなっていた。
右足に大きい金属が入っていた。そういえば足腰悪かったよね。
皆で骨壷に骨を入れたけど、甥っ子は初めて実感する人の死が怖くて嫌がっていた。僕は母親の背中に手を添えていた。

火葬場からの帰り道、雲一つない青空から冷たい風が吹いた。
晴れ女だったのかな。

料理の味付けが大雑把なおばあちゃん。
杏仁豆腐が食べたいと伝えたら木綿豆腐を買ってきたおばあちゃん。
木綿豆腐じゃなくてデザートだよと伝えたらヨーグルトを買ってきたおばあちゃん。
結局、飲むヨーグルトを買ってきたおばあちゃん。
僕を後ろに乗せながら道にタンを吐くおばあちゃん。
車道専用の橋を自転車で渡るおばあちゃん。
皆に内緒だよ、とこっそりお小遣いくれたおばあちゃん。
背骨が曲がって身体が小さくなってたおばあちゃん。
身内が集まるといつもニコニコ笑っていたおばあちゃん。
おじいちゃんと一緒に色んな景色を見に行っていたおばあちゃん。
あっちでおじいちゃんと富士山見に行けてるといいね。

僕はまだしばらくあなたの事を想って泣くと思います。

ありがとう、おばあちゃん。

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