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『ジョーカー』は本当に悪なのか?

アメコミムービー好きの多くが心待ちにしていた『ジョーカー』。

僕自身アメコミムービーは好きだけど、LOVE ホアキン・フェニックス
これが観た理由として一番大きかったです。
(『ザ・マスター』、『her/世界で一つの彼女』辺りが好きなんですけど顔のシワまで使って感情表現が出来る素敵な俳優さんです…!)

作品としてもベネチア国際映画祭で金獅子賞を取ったりと公開前から注目されていた作品ですが、公開されると海外での評判とは違って日本(と言っても身の回りの人レベルの意見しか見てないですが…)では賛否両論の意見が見受けられました。

ヴィランとして人々を恐怖に陥れ、バットマンを大いに苦しめてきたジョーカー、本作ではその「ジョーカー」になるまでの話が描かれますが…
個人的には「普通」でした。
とある理由で人から馬鹿にされたり、ザジ・ビーツの件、母親の件など(ネタバレになるかもなので詳しくは言いません!)、心的なものが明確な理由としてあったことでなんだかもったいないような気がしました。

「俺たちのヴィランはそんなやわじゃないんだぜ!」と叫びそうになったんですけど最後まで大人しくしてました。
で、観ていくうちに「ジョーカーってホントに悪なの?」という素朴な疑問が生まれました。

本作では「銃」が象徴的なアイテムとして登場します。
それだけ聞くと「やっぱ悪じゃん!!」と思うかもしれませんが、それは銃が一般的ではないからではないでしょうか?(現に僕も旅行先で兵隊さんが持っていたマシンガンにビビってました)
アメリカなどの銃社会からすると「銃=犯罪」だけではなく、「銃=自衛」の意味合いも強いと思います。

映画内でもその存在は「犯罪の象徴」としてではなく、社会的弱者としての自分、コメディアンとしての自分を「自衛」するために機能していました。
ちなみに、同様に『天気の子』でも「銃」が象徴的でした。
『天気の子』では自分の知らない誰かが作った社会への主張、社会の枠へ無理やり当て込まれそうになった時の自衛として日本では手に入りにくい「銃」が描かれていました。(ここは銃社会とそうでない社会の差が現れているので『ジョーカー』と『天気の子』比較しながら観ると面白いです!)

あまり詳細書くとネタバレになるので書きませんが、
この映画でジョーカーは悪ではないことを提示してしまったように感じました。
少なくとも僕は、誰からも愛されない分、自分で自分を愛そうと努力するジョーカーを悪とは見ることができませんでした。
社会の庇護下から外され、とある事情によりマイノリティに属することになり、家族の愛すら受けられなくなった可哀想なジョーカー。
理由があって、仕方なかった、どうしようもなかった…そう物語が訴えかけているような気がしました。

コメディ(喜劇)でありトラジディ(悲劇)でもある。

ジャック・ニコルソン、ヒース・レジャーと名優たちが演じてきた魅力的なヴィラン、ジョーカー。
社会的な制約が身近に感じる現代で肯定されたホアキン版ジョーカーは、長年存在してきたヴィランの一つの終着点なのかな?と思わずにはいられません。

※写真はシネマトゥデイさんから拝借しました。

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