犬王。昔懐かしい「新しいこと」

ネタバレ満載なんやけど、犬王を観てきたんで感想を語りたいんよ。それと、おっちゃんの趣味には合わんかったんで辛口になってるから、その点はごめんやで。
もちろん「すごくよかった!」っちゅう人かておるやろうし、それはそれでええことや。同じ時間とお金をかけて「楽しかった!」が得られる方が、「うーん。微妙」を得るよりもずっと幸せやからね。

室町時代を舞台に、異形の能楽師「犬王」と数奇な事情によって盲目の琵琶法師となった「友魚」。二人の邂逅と成功、そして別れをロックオペラとして描いた本作。監督はアニメ「夜は短し歩けよ乙女」や「映像研には手を出すな!」の湯浅政明。その他も犬王役は女王蜂のアヴちゃん、友魚役は森山未來。音楽は大友良英、脚本に野木亜紀子、キャラ原案が松本大洋っちゅう豪華メンバーなんや。

物語の前半は二人の生育から出会いまで。後半は出会った二人が伝統的な能を犬王と友魚が革新的な、異形的ともいえるスタイルの能でブッ壊し、都を熱狂させていくっちゅう流れで、その部分が全編ほぼほぼライブシーン。合間にストーリーパートがちょっと。

このライブシーンがロックオペラ的なものなんよ。能舞台のシーンでは犬王が舞い、歌い、プロジェクションマッピング的な演出やカラーライトによる演出。ワイヤー(というか縄)による空中飛行。龍が踊り、舞台下から無数の作り物の手が突き出される。

一方の友魚は基本的に毎回どっからか連れてきた(作中での言及一切ないから詳細不明、唐突に出てくる)ドラムとベース、火吹き男と橋の上で犬王の舞台を宣伝するライブを行う。

でまあ、この友魚のライブでやる曲やビジュアルが60~70年代のロックバンド風やねんね。途中で友魚は自分の「座(芸能事務所みたいなもん)」を立ち上げるんやけど、このメンバーもみんなそんな感じで。

そらまあ室町時代にそんなもん見せられたら革新的どころか異次元みたいなもんなんやけど、観てるこっちらかしたらビジュアル的にも音楽的にも、なんとも昔懐かしいっちゅうか。少なくとも「新しいもん見せられてる!」っちゅう気分にはならんわけで。琵琶を背面に回して演奏するとか、どこの○○○○やねん。

音楽自体は悪くないんやけど、なんちゅうかこう、昔のロックっぽさのおかげでいまいち作中で起きてることに説得力がなく、チグハグな感じがしておっちゃんは乗り切れんかった。

アニメーションはさすがに凄くよかった。よかったんやけど、なんちゅうか60年代風ロックバンドっぽいビジュアルデザインのおかげで、ときどきビックリするくらいダサい感じになってることがあって、ちょいちょい笑いそうになってもうてキツい瞬間もあった。

最後に犬王の面を外すとグラムロッカーみたいなメイクの顔が出てきたところとか、そもそもその前段でチカチカしたサイケな照明でシルエットになった友魚たちがカクカクしながら演奏してるシーンとか。犬王の最後の舞いが謎にバレエダンスまんまみたいなところとか。橋の上でのライブも急に友魚が脱ぎだしたり腰振ったり。
「いや、ダッサ!」とか「え?なんで!?」
って突っ込みそうになって我に返らされた瞬間がちょいちょいあった。

それから、映像と音楽を楽しむ作品なのでカットされたっちゅうのは分かるんやけど、二人で組んでなんかやろうってなって、初手からなんであんな「(当時としては)何もかもが新しい」みたいなスタイルが出てきたんかは気になってしゃあなかった。特に友魚とかあの音楽性が出てきそうなキャラじゃなかったやん。犬王も自分が異形なんはええんやけど、舞台演出とかどこから着想得たんや。

二人の友情についても「以後、二人の友情は強く育まれたこととする!」みたいな短いシーンがあったから、まあそういうものとして観るのはいいんやけど、最後の方で友魚は自分たちのスタイルに固執して処刑され、犬王はそれをあっさり捨て去って権力者の下で長生きしたのに、なんでラストシーンで亡魂になって現代で琵琶の弾き語りしてる友魚(なんでか命がけで固執したスタイルやのうて普通の琵琶の弾き語りになってる)の前に初期の姿で出て来るねん。
「いやお前、あっさり友魚とやってきたこと捨てて長生きしたんやろ! 今ごろなにしに来てんねん!」
って突っ込んでもうたやないか。友魚の亡魂が見た幻っちゅうんなら一応は辻褄合うけど。

「新しいことをやってそれが大きなうねりになり過ぎて潰される」みたいな展開でもなく、「将軍様の政治的判断でオーソライズされてない平家モノはダメになりました」で潰される展開もカタルシス不足やったなぁ。これやったら「新しいスタイルかどうか」に関わらず非正規の平家モノはアウトになるっちゅうことやもん。

…あ、そうか。友魚も犬王も自分たちのスタイルで、引き続き平家モノ以外の当たり障りない演目をやるっちゅう選択肢はあったんか。いらんことに気づいてもうたなぁ。
そうなると「平家の亡魂から集めた、語られざる平家モノをやる」ことと「新しいスタイルの能をやる」こととが二人のあいだで不可分やったんか。分離できたとしてどちらにどれくらいウェイトがあったんか、は一考の余地がある。その辺は作中では特に意識されてるようでもなかったか。
いずれにせよ二人が長期的にああいうのを続けられてたとしたら「平家モノ以外も演目が必要やろ」ってなってたろうなぁ…。

ともあれ、細部のディテールで整合性取ろうとするあまり全体が死んでしまう作品もあることを考えると、こうしたことにこだわり過ぎるんは不正解、みたいな場合もあるんよ。せやけど、この作品に関してはその辺のバッサリ具合がやりすぎで、おっちゃんとしては気になるレベルで説得力失ってたように思う。

それと、おっちゃん的に一番気になったのが「能楽にちゃんと向き合ってこうなったんか?」っちゅうところ。
「正統派の能に対して、異端のまったく新しい能楽とは何か? それはどのようなものか?」っちゅうことを考えに考えて考え抜いて「わりとベタな60~70年代ロックやライブ演出」にたどり着いたんならよかったんやけど、どうもそういう感じは伝わってこなかったんよなぁ。知らんけど。
エンタメ作品やからっちゅうのはあるにしても、「既存への反抗だからロック」って手アカのついた図式を持ってきただけのように見えてしまって、なんとも…。
ごくごく個人的には
「これが!オレの考えた!異端の!見たこともないような!能楽っちゅうもんや!」
ってのを観て打ちのめされたかったなぁ。

まとめると、おっちゃんとしては残念な結果になってしまったんやけど、こういう作品が制作されて公開されること自体はええことやと思うから、興行的には成功してほしいし、みんな『ワールド・イズ・ダンシング』読もうや! ってことやな。犬王観てこの時代の能に興味持った人もそうでない人もぜひ。おもろいんよ。『ワールド・イズ・ダンシング』。


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