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沈黙が僕たちの武器なら……「僕たちは希望という名の列車に乗った」と「沈黙する教室」で、自由について考える


1956年、東ドイツ。「ベルリンの壁」建設の5年前、まだ人々に東西の往来が許されていた頃。高校生のテオとクルトは何かと理由をつけては列車に乗り、西ドイツに遊びに出かけていた。ある日、二人は映画館で見たニュース映像に衝撃を受ける。ハンガリーで起きた民主化運動が暴動に発展し、彼らと変わらない年齢の若者たちが武器を手に戦っていたのだ(1956年10月、ハンガリー動乱)。いてもたってもいられなくなった二人は、クラスメイトに呼びかけた。


「彼らの為に黙祷を捧げよう」


授業中に行われた2分間の黙祷。このたった2分間の沈黙「国家への反逆」とみなされ、彼らは人生を賭けた決断を迫られる。


友を裏切りエリートの道を歩むか

信念を貫いて退学になるか


これは全体主義による思想統制・言論弾圧の恐怖と、自由のため、そして友の為に戦った若者たちの青春を描いた、実話に基づく物語だ。

今回は映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」及びその原作「沈黙する教室」を紹介しながら、アメコミの話題も絡めつつ、自由とは何かについて考えを巡らせてみたい。




☆「君たちは恵まれている」



映画「僕たちは希望という名の列車に乗った」は、ディートリッヒ・ガルスカ氏が自身の経験を記した「沈黙する教室」(訳 大川珠季、アルファベータブックス)を元に、登場人物の名前や出来事に多少のアレンジを加えている。しかし黙祷をきっかけとした一連の騒動は、実際に起きたことだ。東ドイツ政府が、未来ある若者たちを脅迫したのだ。

社会主義国家は人々に、飢えや失業、格差に苦しむことなく、皆が平等に生きられると訴えてきた。事実、労働者の父を持つテオも大学進学のチャンスを得ることができた。かつては農家の下働きだった校長、ゲオルグ・シュヴェアツは生徒たちに言う、「君たちは恵まれている」と。


「この厳しい時代に、高等学校で学べるのは誰のおかげだと思っているんだ。当たり前ではなかったことを、可能にしてくれたんだぞ。国は多くのことをしてくれている。そのためには惜しみなく資金をつぎ込んだんだ。そのお陰で僕たちは、十分な教育を受けさせて貰えている」

(ディートリッヒ・ガルスカ 著、大川珠季 訳『沈黙する教室』p.112、11〜13行目より引用)


しかし、この国には自由が無かった。思想・信条の自由も、信仰の自由も、言論の自由も無い。彼らは同志スターリンを讃え、堕落した資本主義は敵だと教えられる。情報は歪曲され、プロパガンダに利用された。ちょっとエッチな映画が観たい、ロックを聞いて踊りたい、派手な色のシャツを着ておしゃれしたい、その程度のことさえ、公には認められていなかったのだ。

ランゲ教育大臣とケスラー群学務局員は、生徒たちの親の仕事や家庭の事情を調べ上げ、退学になりたくなければ黙祷の主導者の名前を吐けと脅迫する。大学受験の資格を、子供たちの未来を人質にしたのだ。


「エリートへの道を捨てたくはないだろう?」
「病気の祖母がどうなってもいいのか?」
「キリストなど本当に信じているのか?」


この国では個人の自由は奪われ、多様な価値観のもとに幸福を求めることは認められない。人々は国家への奉仕を、いわば「生産性」のみを求められる。だから「自分で考え、自分で決めること」は即ち国家への反逆なのだ。思考停止に陥った人々は、やがて私は私であることを見失ってしまうだろう。誰かが決めたことに従っていれば良いのなら、これほど楽なことはない。しかし、そこに希望はないのだ。


☆沈黙を選んだ大人たち


終戦から約10年、人々は戦争の恐怖を未だ生々しく記憶していた。「沈黙する教室」には、ガルスカ氏が当時感じた矛盾した思いが記されている。彼らにとってソ連軍は恐ろしい略奪者であり、同時にナチスから彼らを救い、食料を与えてくれた恩人でもあった。
そしてソ連軍の兵士たちもまた、国に従っているだけのただの若者にすぎなかった。映画序盤で、テオがソ連兵に豆を投げつける場面の元となったエピソードで、若きロシア人将校は疲れた顔でガルスカ氏にこう言った。


「君のお父さんは生きているのか?」
「うん」
「お父さんはファシストなのか? 君はどうだ? 俺の兄弟は死んだ。ドイツ人に殺されたんだ。俺は君を撃ち殺してもいいのか? よく考えろ」


(ディートリッヒ・ガルスカ 著、大川珠季 訳『沈黙する教室』p.31、6〜9行目より引用)


主人公たちの親や教師たち、つまり積極的にナチスを支持した、あるいは消極的に現状追認した大人たちは、今度はソ連による支配を黙って受け入れるしかなかった。映画では描かれなかったが、ドイツ語教師パウル・ホルツは過酷な時代を生き抜く為に、あえてナチ党員になった過去がある。彼の哲学はこうだ。


「自由に、望むように生きなさい。ただし人間でいなさい」

「人生を壊しちゃいけない。いいんだ、何度だって過ぎ去るがままにしておきなさい。何も言わないほうがいい、黙っておくのが一番いい」

(ディートリッヒ・ガルスカ 著、大川珠季 訳『沈黙する教室』p.76、6行目、及びp.77、6〜7行目より引用)


彼は生き延びるため、人間らしい理性を失ってしまわないために、あえて沈黙を選んだ。そんな彼の生き方を誰が責められるだろう。
「沈黙する教室」にはパウル氏をはじめ、校長やその他の教師たちがそれぞれどのような人物で、当時どんな思いを抱いていたかも記されている。彼らが子供たちを守ろうと戦っていたことも。


劇中で特に印象的だったのは、ある少年に残酷な真実が明かされた場面だ。彼の元になった人物も実在していたわけだが、大人たちの選択がこのような悲劇を生み出したと思うと、やりきれない気持ちになる。
全ての子供たちは不自由だ。 なぜなら彼らは、大人たちが選択した世界の中でしか生きられないからだ。
しかし、その不自由な世界に希望があるとすれば、それは自分の頭で考え、自分で未来を選ぶ自由があることなのだろう。

そんなことを考えながら「中動態の世界 意志と責任の考古学」(國分功一郎 著、医学書院)をパラパラとめくっていたら、あのカール・マルクスが似たようなことを言っていることに気がついた。


しかし、ジョンソンは歴史を中立的な条件として考えているのではないか? 歴史の持つ強制力がそこではあまりにも過小評価されてはいないか?
そう考えるとき、どうしても言及しなければならないのが、カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』の冒頭にある次の有名な言葉であろう。
「人間は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである」。

(「中動態の世界 意志と責任の考古学」國分功一郎 著、医学書院、p.285、2〜7行目より引用)


マルクスは、果たしてこんな未来を予期していただろうか。



☆「ヒーローになるな」:アメコミと「全体主義の恐怖」


ラース・クラウメ監督
は公式パンフレットのインタビューで、「私はスーパーヒーローが主役のフィクションより、事実に基づいた映画を観るほうが好きだ」と発言している。アメコミ紹介ブログを書いている身としては苦笑いしてしまったが、ここであえてこの映画とアメコミ・ヒーローものを関連付けてみよう。



ヒーローコミックと社会主義との関わりで真っ先に思い浮かぶのは、東西冷戦下のヒーローたちの悲劇を描いた「ウォッチメン」と、その原作者のアラン・ムーアだろう。戦後のイギリスで生まれ、労働党政権下の長きに渡る不景気や紛争による混沌の中で育ったムーアは、初期の代表作「V・フォー・ヴェンデッタ」全体主義がもたらす恐怖を描いている。目や耳、鼻や口を名乗る政府機関の役人たちは、国民を監視し、盗聴し、宣伝(プロパガンダ)する。そして彼らの思想や政策の意思決定をするのは、フェイト(運命)と名付けられたコンピューターだ。


「V〜」の映画版を監督したウォシャウスキー姉妹の代表作「マトリックス」の世界では、人間たちはロボットたちを動かす燃料にされていると気づかぬまま、仮想現実の中で生かされていた。人々が自由意志を失った世界、そしてコンピューター(AI)という意志のないものに支配された世界という設定は「V〜」と地続きだ。



ザック・スナイダー監督作「マン・オブ・スティール」の冒頭で描かれたスーパーマンの故郷のクリプトン星は、国策で管理人工出産を行っており、遺伝子操作された人々は与えられた役割のために生きるしかなかった。培養液に浸かり、木の実のように栽培された赤ん坊たちは「マトリックス」のオマージュに見える。「自由意志」が奪われ、思考停止したクリプトン人は破滅のときを黙って待つしかなかった。この危機を予見していた科学者のジョー・エルとその妻は、数百年ぶりの自然出産で生まれた我が子を船に載せ、宇宙の彼方の地球に送る。「夢と希望」を託して。




その続編「バットマン VS スーパーマン ジャスティスの誕生」の悪役、レックス・ルーサーの父親は東ドイツ出身だ。ルーサー曰く、彼はゴミ捨て場から古新聞を拾って読み、カビの生えたクラッカーを食べるほどの貧困を経験し、祝日のパレードで独裁者に花を振っていたという。そして渡米後に起業し、一代にして巨万の富を築いたのだ。彼が乗った船は希望だったかもしれないが、結果として「希望の象徴」であるスーパーマンの生命を脅かすヴィランを生み出してしまったことに、何か因果めいたものを感じる。




M・ナイト・シャマラン監督「ミスター・ガラス」では、精神科医が主人公たちを「自分はスーパーヒーローだと誇大妄想している」とみなし、「普通」にするべく治療を試みる様が描かれた。スーパーヒーローの特殊能力を「個性」と置き換えるなら、その個性を否定し、排除しようというのだ。



映画評論家の町山智浩氏はシャマランとスナイダーに共通する要素として、「肩をすくめるアトラス」「水源」の著者、アイン・ランドのファンであることを指摘し、三者に共通するテーマは「一部の天才による独裁の肯定」だと批判した(参照:上記音声配信)。しかし私はこれに異を唱えたい。

アイン・ランドは1905年にロシア帝国に生まれ、1917年の十月革命を目の当たりにしている。比較的裕福な家庭に生まれたランドはソ連による財産の没収(搾取)と思想統制を経験したという。渡米後に書かれたランドの初期の小説「アンセム」は、「私」という一人称が消え、「我々」のみを使うことが許された全体主義的な世界から、主人公が脱出しようとする物語だ。


PLAYBOY あなたの初期の小説『アンセム』で、主人公が「選択するのは私の意志なのだ。私の意志の選択こそ、私が服する唯一の命令なのだ」と宣言する場面があります。これは無政府主義ではありませんか? 自分自身の欲求や意志こそ、人が服すべき唯一の法なのですか?

ランド それは違います。これは、『アンセム』のストーリー全体の中で解(かい)されるべき詩的表現です。人が服すべきなのは、自分自身の合理的判断です。私は「自由意志」という言葉を、一般に用いられているのとはまったく違った意味で使っています。自由意志は、人間の考える能力、そして考えない能力で成り立っています。思考という行為は、人間にとって第一の選択行為です。合理的な人は、決して欲望や気まぐれに従って行動しません。自分の合理的判断に基づく価値に従ってのみ行動します。これが、合理的な人が服する唯一の権威です。


(PLAYBOY 1964年3月号、アイン・ランドへのインタビュー:日本アイン・ランド協会HP掲載の翻訳記事より引用)


このようにランドの思想の原点にあるのは、言論弾圧・思想統制によって「私」が失われていくことへの恐怖である。そして人間には「自分で考え、自分で決めること」、つまり「自由意志」こそが必要だと説いているのだ。ランドとシャマラン、スナイダー、ウォシャウスキー姉妹、そしてムーアを繋ぐテーマは「全体主義の恐怖」そして「自由意志の肯定」だと、私は考える。

「ヒーローになるな」


テオの父親は息子にそう言った。どんな親も、子供の生命の安全を願う。それでも彼は、最後には息子に選ばせた。本当に守るべきは、息子の「自由な意志」なのだから。




☆大いなる自由には責任が伴う


最後に少しだけ、私の個人的な過去について記して、本稿のまとめとしたい。(詳細はぼやかしておく)

高校受験のとき、私にはどうしても行きたい高校があったのだが、母はそこを受験することを認めてくれなかった。私は何度も粘ったが、母は頑として保護者同意欄にサインしようとしなかった。結果的にこのことは私の受験に対するモチベーションを著しく低下させた。特に行きたくもなかった高校に通うことになった私は、それなりに楽しい時間と、それを上回るストレスと疎外感を味わった後、この学校から転校することを選んだ。

きっと似たような経験をした方は少なくないだろう。「なんだ、その程度で」と思う方もいるかもしれない。しかし当時の私の無念は、テオやクルトたちが感じた苦悩に通ずるものがあったと思う。私は選びたかった、行きたい学校を、自分の未来の可能性を。

本当に行きたい学校に受験できたなら、合格できなかったとしても、それが自分の実力だと受け入れられただろう。しかし「挑戦すらさせてもらえなかった」ことは、私の胸にじわじわと黒い染みを残した。私は、負けるなら納得して負けたかった。(とはいえ、後に両親が転校を許してくれたことには感謝している)。

「子供たちには未来がある」と大人は言うが、自分の未来を選ぶ自由を奪われた子供たちは、生きていく為の指針を、希望を見失う。ましてやそれを脅しの材料に使われるなど、子供たちにとってどれほど残酷なことか。これからの未来を創るのは子供たちだとしても、子供たちの未来の可能性を拡げていくことは、大人たちの役目なのだ。


自由とは、責任を放棄することでは無い。

自由とは、自分で考え、
自分で未来を選択できることだ。

人から自由を奪うことは、
その選択に伴う責任を奪うことだ。

未来の可能性を奪うことだ。

だから人間には、自由が必要なのだ。


だから彼らは、沈黙を選んだ。


だから彼らは、

希望という名の列車に乗った。



☆「僕たちは希望という名の列車に乗った」は絶賛公開中。


☆原作「沈黙する教室」は早くも重版出来だそうです。


☆翻訳者の大川珠季さんによる「沈黙する教室」解説note 


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