さあ、みんなで

 ある日突然体に機関銃を打ち込まれた。感覚をどれだけ遡っても在るべき痛みはそこにはなかった。骨、皮、それと肉が、ぷらぷらと頼りなく繋がった体を見て、途方に暮れた。

 獣を模した生活は、突き詰めていくとぼくを機械に変えていった。今年を振り返り今の今のいたるまでぼくの足跡からは人間の匂いが全くしなかった。単調は卑屈を、卑屈は後悔を呼び、しまいには不健全な体を寄越してみせた。食べても、食べずとも、寝ても、寝ずとも、丸っきり同じ体。
 朝、洗面台の鏡に映る女を見た。自分より小さきものを見つけんと血走る目。許すことと諦めていることを勘違いし緩み切った口元。背中を丸め大事そうに抱えられた自尊心。ある有名な作家の芋虫という作品、そこに出てくる登場人物にそっくりではないか。しかもそれがそう、純然たる芋虫として描かれる夫ではなく、イロニックに表現された妻の方だったのだ! わたし時子現実もなかなか粋なことするのねヨロシク。
 表現するには不足でも、生きていくには十分な若い肉体を持ちながら、それを余して時間を貪っていく。その間にも時間は過ぎていく。時間に情はない。そこに何かをぶら下げるのは人間で、その重みによって加速と減速を変えていく。当然食い散らかされた時間は加速してぼくを運んでいった。
 そして文頭、何の脈略もなく、恵方からでも塞がりからでもない突飛な方向から銃弾は降り注ぐ。獣だろうが機械だろうが人間だろうが芋虫だろうが撃たれたら穴は空く。
 穴の向こうにせめて万華鏡の景色が広がっていれば笑えた。ぼくを貫いた弾丸がどこかで跳弾するさまが見えていれば傷を舐め合うことだって出来た……だけど、その穴の向こうには何もなかった。ぼくにはなにも見えなかった。
 どこかで期待していた。そこにあるのが”真実っぽいもの”だとしても結果として寄り添ってさえくれれば、ぼくは良かった。キリンの首が長いのは頑張ったからです、で良い。ぶどうは酸っぱいし、隣の芝生は青々としているし、ソドムとゴモラの奴らは実際やり過ぎ。その程度で充分だった。
 因果を知ろうだなんて驕りだと頭のいい人は言う。結末なんてあっけないものだと先生たちは言う。苦しみは乗り越えてこそと皆歌う。病めるときも健やかなるときも、富めるときも貧しきときも、愛し、敬い、慈しむと沢山の二人が頷く。
 そのどれもが、そら、そうやね。その通りやわぁ。
 でもな、ウチの心には寄り添ってくれへん。それが、悲しゅうて悲しゅうて……いやそんな悲しくないわ。なんなら何もないわ。ちゃうな、何もかもないわ。

 時間をかけて向き合ったところで穴は穴でしかなく、結局そこから何かを汲み取ることは出来なかった。
 ただ一つだけ、穴のすべてが銃弾によるものではないことを、ぼくは知っていた。実際には雨だれが石を穿つ迂遠さで出来た穴がちらほらとある。とはいえ、時間をかけていようが即席であろうが、ぼくの興味はそこになかった。

 わたしは今から、わたしを庇護するものに会いに行く。身に覚えのない懺悔をするためにだ。それらしい話を見繕って、被害者と加害者のレイヤーを伏し目がちの演技で華麗に表現してみせるわ。任せて、寺島しのぶって人を見て勉強したの。
 そんな意味のないことをして何になるのかって?  
 ねえ……あなたはいつもすべてを知ろうとするけれど、それがわたしにとって苦痛だと、あなたは最後まで知らなかったわね。
 これはおとぎ話ではないの。因果も乗り越えるべき苦しみもカタルシスもない現実。のぞき穴にかじりついたって無駄。誓いを問う人も、うなずくわたしたちもその向こうにはいないわ。
 さようなら。あなたに寄り添ってくれるものに出会えること、わたし心から願っているわ。そう、これだけは真実よ。
 


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