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『遺体』ブックレット

一、バトゥミに浮かぶ

 終わっていくのを見ていました。
 何も憎まないように過ごしてきました。薄く引き延ばされた時間のなかに、ほんの少しの愛らしさを見つけて暮らしてきました。
 だからどうか、わからずにいて。理解しないでいてね。
 ここはバトゥミの港湾、望む黒海。
 逆転する画にわたしのからだは透けて。
 ジェットコースターの行き着く先で待っていてね。抱えきれないほど大量の時間とともに、会いに行くからね。

二、在処

 五月、場違いな気圧が銃口になってぼくの後頭部を指し示す。
 窓越しの曖昧な空気は季節感を失わせ、なにもない生活を加速させる。
 銃口に端を発した吐き気を誤魔化すため、煙草に火をつけた。煙とともにあらわになる肉体をぐっと引き寄せると、ソファに深く沈みこむ。
 淡黄色の天井を見つめ、過去を振り返る。
 ずっと引っかかっていることがあった。記憶のなか、明らかに歯抜けの部分があって、そこには大事なことが詰めこまれていたはずだった。何度もそこに手を伸ばしたが、触れる直前で引き戻されてしまう。
 引き戻しながらそいつは叫ぶ。
 人間になってしまうよ。
 ぼくにはその意味がわかる。痛いほどに。触ったらきっとこちらに戻ってこれないことも。
 明日もギリギリまで手を伸ばすだろう。それはたぶん自分が思っているよりも簡単なことなのに、決して埋まらない空白に見えた。
 フィルターが焼ける不快な匂いにハッとして、慌てて火を消す。同時に思考を断ち切り、玄関へと向かう。
 今日はどうやって人間のふりをしようか。この死臭の中で、どう振る舞えば人間でいられるのだろう。
 ここは日本、小さな町の古いアパート。隔絶した培養室。世界中の諦めの最大公約数。たのしいたのしいジェットコースター乗り場。

三、essence

「昔、怖かったものはなに?」
「障子に空いた穴、家の裏手の暗い森、カスタネット、大人の男の罵声、グリム童話、帰り道にあったモグラの死体、疎外されること、兄弟の視線」
「おとなになってどうかしら」
「大きい声は苦手です」
「自分が怒られているような気がするから?」
「そうですかね。怒られるのはいやです」
「それってだいたい理不尽なことで怒られてきた人が言うのよね」
「まあ、どうなんですかね」
「あなたの話をしているのに」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないし……よくわからないです」
「いつもそうやってはぐらかす」
「ごめんなさい」
「いまでもあなたのこと、よくわからない。理解しようとするのは迷惑なこと?」
「いや……」
「あなたがどうしたいか、何に喜ぶのか、何を悲しいと思うのか、どれも曖昧」
「……」
「それってね、わたしにとってすごく怖いことなの、知らぬ間に傷つけてしまうかもしれないから。何より辛いのは、傷付いていないふりをするあなたを見ること」
「……うん」

「いま、何を考えてるの?」
「ほんとうは」
「?」
「ほんとうは救われたい」
「救われたい?」
「ほんとうはずっと救われたいだけなんです」
「ねえ、ちょっと」
 どうして泣いているの?
 それきりめまいがして、なにも聴こえなくなった。
 ここは悪夢の入り口。白線の内側。きらきらひかるジェットコースターを見上げる鉄のゆりかご。

四、ゴーゴーリベルテ

 花園と線路の間、なにかのオークション会場。
 ロックミュージックが流れている。チューニングのずれた自己主張の強いギターをバックに歌が聞こえる。
「ぼくたちを返せ! ぼくたちを返せ! ぼくたちを返せ!」
 きっとわたしのためには歌っていないんだろうな。
 ロックミュージック、時折通過するくたびれた夜行列車、花が咲くときに鳴る特有の破裂音、落札を知らせるハンマー、幾重にも折り重なりパレードのよう。 
 振動するスピーカーに人間そっくりのロボットが絵を描いていた。どうやら愛するひとの似顔絵のようで、彼女の眼の美しさをどの色で表現しようかと頭を捻らせていた。
 わたしは、それは人が絵に描けるようなものじゃないから、記憶のままがいいんじゃないかと思った。
 ステージではリーゼントのハンサムなロボットが煽情的なダンスを踊っている。花園にはたくさんの露店があって、売り子たちが花を踏みつけながらアピールしている。
 カラフルな飴、エキゾチックなアジアのスープ、うんと冷えた果物のジュース。
 悩んで悩んで、わたしは置物のように動かない老婆が売るフォーチュンクッキーを買った。クッキーを受け取るとき、貼り付けたような老婆の顔が泣いているように見えた。
 列車がよく見える縁石に座り、フォーチュンクッキーにかじりつくと、やけに甘ったるくて悲しくなった。
 わたしはわたしの想像していたクッキーが食べたかった。それよりほんのすこしずれているだけで、無性に許せなかった。
 どんどん悔しくなってきて涙がじわりじわりと溢れてくる。
「ぼくたちを返せ! ぼくたちを返せ! ぼくたちを返せ!」
 力任せにクッキーを放り投げると誰かのスーツケースにあたって砕けてしまった。
 スーツケースの持ち主は身なりのいい女性で、携帯電話で誰かと話しながらこちらを睨みつける。
「もう自由だって言ってたけど、つまりあんたの言う自由っていうのはあんたの見ている世界のなか、そのスクリーンのなか、二時間とちょっとばかしのなか、アラン・ドロンがボートで漂うシーンのなかでってことなのね」
 フォーチュンクッキーの小さな紙がちょうど彼女のヒールに滑り込んでしまったので、気まずくて涙は引っ込んでしまった。
「なにかのために死ぬっていうのは、同時に死ぬ瞬間までそれに生かされるってことよ。嫌でもね。」
 電話を切るとわたしを一瞥して線路の上を歩いて行く。
「それを呪いって言うのよ」
 彼女の背中が見えなくなる頃、音楽はしっとりしたクリスマスバラードに変わっていた。リーゼントのロボットはいなくなり、代わりにトナカイのロボットが一斉にステージに放たれた。
 ステージ上の装置が滅茶苦茶にされて、会場中からありとあらゆるもの、ハイヒール、クレヨン、カメラ、お弁当箱、線路の石、花びら、クレジットカード、とにかくすべてが投げ込まれていく。メリークリスマス、みんな口々に叫びながら。
 横倒しになったスピーカーの隣では、人間に似せたロボットが倒れていた。飛んできたなにかに当たって壊れたらしい。書きかけの似顔絵、空洞の眼に、投げ込まれた花びらがちょうど乗って、なんだか良い感じだった。
 わたしはクッキーの紙のことを思い出すと、飛び交うものを避けながら探しはじめる。
 メリークリスマス。メリークリスマス。楽しいね。嬉しいね。メリークリスマス。
 ようやく見つけたしわくちゃの紙を拾い上げる。
 そこには「自由、平等、博愛」と書かれていた。
 わたしには、それがなんのことだかさっぱりわからない。
 ここは花園と線路の間、なにかのオークション会場。ジェットコースターを愛する人たちのための。

五、いつか

 良い季節になったね。昼はまだ暑すぎないから、ピクニックでもしたいね。外に出るのはあまり好きじゃないんだけど、たまになら気分転換になるしいいんじゃないかな。
 お弁当を作るのは手間だから、コンビニでなんか買っていこうよ。サンドウィッチとサラダと、あとお酒とおつまみと、お菓子も買おうね。俺は甘いのは苦手だけど、余ったら全部食べるからさ。好きなもの、買っていいよ。
 面倒になったらやめて寝ちゃえばいいからね。

 夏風邪は長引くから早めに治さないとね。今からスーパーに行くから、食べられそうなものがあったら教えてね。そう、誰かがネギを首に巻くといいって言ってたけど、あれって効くのかな、俺はやったことないんだけど。その人は効くって。
 ゼリーとお水と栄養ドリンクと、あとなんだろう。お粥くらいは作れるけど、いつもお米の量を多めにして十人前くらい作っちゃうんだよな。鍋いっぱいになるんだよ。俺も食べるからいいんだけど。
 すぐ帰ってくるから待っててね。

 この季節って気付いたら終わってる、過ごしやすいんだけどあっという間で。あとは……友達の誕生日がすごく多いんだ。毎週誰かを祝ってたらカレンダーがすぐにめくれていく。まあでも、良いことだからさ。
 そういえばハロウィンっていつからこんなにメジャーなイベントになったんだろう。俺はやったことないんだけど、したことある? お互い十年遅く生まれてたら当然のように仮装して街に出てたのかもね。
 そろそろ電車に乗るね。帰りにあのハンバーガーのさ、月見のやつ買っていくから、二つ。
 
 そろそろ初詣でも行こうか。まだ露店もやってるし、ちょうどいいくらいの人出になってると思うよ。甘酒飲みたいね。俺も小さい頃から好きだったな。おみくじはだいたい毎年反応に困る感じのやつなんだよな。
 そういえば昨日もこたつで寝てたね。体に悪いって言うけど、あれ気持ちいいんだよな。折角なら大きいふかふかのクッションでも買って寝やすくしちゃおうか。電源さえ切れば大丈夫だよ。一日中映画でも見ながらこたつで過ごしてさ。
 大丈夫、好きなように生きていこう。
 
 本当に欲しいものをつかみに行くと言っていたね。
 それはなに?
 食べかすばかり散らばったベッドの上、そこにもなかったね。
 そんなものは最初からなかったのかもしれないね。

 それは海に似ていて、それは砂に似ている。取り憑かれて、取りこぼす。
 終わってしまえばいつも未来の顔で過去が笑いかけてくる。
 だから、せめてこれから先の時間のすべてに肯定されていますように。これから先の時間のすべてに守られていますように。
 
 ここは陽が落ちたさきの深海。真空の地獄。そしてジェットコースターの終着点。
 
 裏返して、すくいあげるよ。
 迷わずに。

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