見出し画像

モノを手放すことは、自分自身を取り戻すことだった(旅立ち編)

最近書店なんかにいくと「断捨離」に関する本を結構見かけます。

世界一周に出る前、期せずして自分の身の回りのものを処分したので、あとから考えてみれば、あれって断捨離だったんだな、と思います。

僕は今の同居人からもよく言われるんですが、自分でもびっくりするくらいものを持たない人間です。コロナ禍で日本に帰国してからも、基本的には旅と移動が中心の生活なので、ものは必然的に少ないほうが良いんです。

世界一周後も、基本的に毎日愉快に過ごさせてもらっていますが、どうしてこんなにものがないと幸せなんだろう。考えてみました。


持ち物に関する哲学

60リットルの容れ物にはいらないものは、さしあたって生活に必要ないものだ

これが、ここ5年くらいずっと移動する生活を続けてきた中で得た一つの経験則です。

容れ物はバックパックのこともありましたし、今はスーツケースですが、とにかく60リットル、というのが一つの目安になっています。60リットルのカバンに入るもので生活する、というのがポリシーです。いろいろパッキングしていって、最終的にスーツケースなりザックの中に入らなかったものというのは「今はいらないもの」なので、ポイポイ棄ててしまいます。

また必要になれば買えばいいというスタンスなんですが、数週間もすれば意外とそれがない生活に慣れていくので、結局買うことはしません。で、モノは次第に減っていきます。

ものを所有するというのは、僕たちの世代にとってはシンプルに豊かさの象徴でした。人より高級なものを所有する。一つでも多く所有する。それが生活の充実を表している時代、というのがありました。

そしてバブルが弾けてそれが幻想だったということに気づいた最初の世代もまた、僕の世代だったんだと思います。

いま、僕は毎日をとても軽やかに生きていますけれど、これってシンプルに「ものを手放していった」事によると思っています。所有しているものの多寡と幸福の度合いに相関関係なんてないし、ものを持てばそれだけものに縛られて生活することにしかならないので、逆に息苦しくって仕方ないです。

モノへのこだわりは執着心

そんな僕にも、モノに囲まれて生活していた時代というのがあります。2016年に世界一周に出る前の僕の部屋は、僕の大好きなもので溢れていました。

まずジャズのCDです。1000枚以上ありました。それを、DENONの高級スピーカーとアンプで聴くのが大好きで、本を読んでいないときは毎日家で大きな音でジャズを聞くのが至福の時でした。

車はフランスの「PEUGEOT(プジョー)」という自動車メーカのものに乗っていました。青の206で、本当にお気に入りでした。仕事が終わったあとに目的もなく、湾岸線という大阪の高速道路に乗ってドライブする、というようなことを一人でよくやっていました。10年くらい乗りました。

家具は基本的に「ACTUS」で揃えていて、ベッドやマットレスにもこだわって随分高いものを所有していました。ベッドのうえって睡眠の時に、つまり人生で一番長い時間過ごす場所なので。ちょっとした小物や雑貨はFrancfrancで買ってました。
年に数回しかつけないテレビは大型の液晶テレビで、家電はだいたいちょっとデザイン性の高い「amanda」というブランドのものを使っていました。

洋服は「SHIPS」というセレクトショップでよく購入していました。10万近くするコートとか、ボーナスで買ってたな。ダウンもモンクレーだのノースフェイスだの、8万くらいする革のブーツだの、そんなのばかり持ってました。

そういうものはすべて、世界一周に出るために処分しました。実家とは絶縁していたので物を置く場所がなかったからです。数百万円分のモノを棄てて旅に出て、いま全く後悔していません。

だってなくなればなくなったで、全然死にはしないからです。モノへのこだわりって、ただの執着心だったんですね。

所有しているものが、自分を縛る鎖になる

僕は色々事情があって、引っ越しを何度か繰り返すということをしていたんですが、物件を内覧した時にまず考えるのは、これらの所有物がきちんとスッキリ入る部屋かどうか、ということでした。所有しているものによって生活の場所が決められていく感じです。

車ってお金がかかります。月々のローンの支払はもとより、ガソリン代、保険代も必要です。タイヤは摩耗しますし、税金は毎年かかるし、ただ「所有している」だけで、ものすごい額のお金が飛んでいってしまいます。

僕は何度か転職を経験しましたが、転職先を選ぶ時にまっさきに見るのは「お給料」でした。家賃を払って、車を維持していける最低金額はこれだけ。そこに生活費とか交際費がプラスされていくと最低これくらいないとなって。

でも、世の中には少ないお給料で楽しく働く人っていっぱいいます。もしかしたら、いまの僕がまさにそれなのかもしれないけれど、これってあんなにモノを所有して、その維持管理費に一定のコストがかかるような燃費の悪い生活をしていると決して実現できない生き方です。

でも今は、自分がそこにいて気持ちがいいか?自分がそこで働いていて幸福かどうか?を中心に働く場所や住む場所を決めることができます。この生活が本当に身軽で気持ちがいいんです。

生活を豊かに満たされたものにしてくれるはずの「モノ」が、かえって自分を縛る足かせになる。そういう事に気づけたのは、世界一周のためにものを処分したからです。そう、別にモノって僕を豊かにしてくれるものでもなければ、幸せにしてくれるわけでも全然なかったんです。

モノを手放すことは、自分自身を取り戻すことだった

ものを手放していく生活の中で実感したのは、結局幸せって自分の外側にはないんだな、ということです。ちょっと哲学的だけど。

モノに限らず心もまた、外部になにか幸せのようなものがあって、それをつかみ取りに行くというマインドが結局自分を苦しめる原因になっていることってよくあるような気がします。

例えば他人から称賛されたいとか褒められたいとか。そういうのって自分の行動を他者の視点から規定することになるので、思い通りにいかないフラストレーションが溜まるだけです。

自分の周囲をモノで満たすように、自分のマインドを、称賛とか社会的地位とかで満たしてしまうのもまた、結局は自分を縛る足かせになってしまうと思うんです。他者から評価されるためにもっと頑張る、というのは一見とても真摯な生き方のように見えるけど、結局は幸福の基準を流動的で移ろいやすい他人軸においてしまうということに他なりません。

人間関係なんて、モノよりも更に移ろいやすくて脆いものです。僕があれだけ「評価されたい」とおもって一緒に過ごしていた職場の上司や同僚はもちろん、友人知人やひいては母親でさえ、いまはもうどこで何をしているかわからない。人っていまあるものが永久にずっとあるって思ってしまいがちですけど、そんなのただの幻想に過ぎません。

結局、幸せって自分の中にあるもので、外側に探しに行ったって何も見つかりはしません。これを手に入れればハッピーになると思って購入してきたモノは、自分のお部屋に持ち込んだ瞬間から少しずつ、自分を縛る呪いになっていったりします。

同じように、自分の心を満たすために手に入れた賞賛や社会的地位もまた、自分の心の部屋を専有していくうちに、だんだん足かせへと変わっていきます。

世界一周のための断捨離で得たもの

モノって、買って帰ってくることよりも手放すことのほうが遥かに難しいんです。僕のCDコレクションや何千冊という書籍やPEUGEOTがそうだったように。

僕が世界一周で得たものって、もしかしたらこの「モノからの開放」だったのかもしれないって思います。物質的な豊かさが精神的な豊かさを規定するというのが物質主義の骨法なのしれないけれど、そういうのって、ちょっと距離をおいて眺めてみた方がいい価値観なのかもしれない。そんな気がしないでもありません。

断捨離って言うとなんだか「思い切って」ものを投げ捨ててしまう感じがしますけれど、それを実行することで得られた幸福のことを考えると、シンプルに「手放す」という言葉で表現したほうがいいことなのかもしれません。

お金では買えない価値は、お金で買ったものをすべて手放していくことで見えてきた。この矛盾が、僕が「手放す」ことで得たものなのかもしれません。


この記事が気に入っていただけましたら、サポートしていただけると嬉しいです😆今後の励みになります!よろしくお願いします!