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英語で第二の人生を切り開いてきた僕が考える「いま・ここ」を存分に味わうことの大切さについて

先日、2016年〜の世界一周以降ながきに渡ってお世話になった英会話・英語コーチングスクールを卒業させていただきました。

CEOの岡本氏のお友達である人気英語コーチの船橋由紀子氏監修の下、岡本ご夫妻(奥さまもTOEIC960点の英語コーチ)や若くて優秀なコーチ仲間と協働して質の高いコーチングサービスを開発し、提供できた時間はとても楽しく有意義なものでした。

が、時間が経つに従って少しずつ「40歳を超えて英語を学び直した僕にしかできない、自分自身のやり方でコーチングを提供してみたい」という気持ちが高まってきました。

そんな僕のわがままを聞き入れて、新しい旅立ちの機会を与えてくださった岡本CEO夫妻には本当に感謝しています。

そしてCROSSXROADを卒業させていただいた今の僕は、自分がベストと信じている学習方法・最良と信じているコーチングを気兼ねすることなく皆さんにお届けすることができる、そのことに本当にワクワクしています。

そんな僕のことを改めて知っていただきたく、クロスロードを卒業した自分自身の6年間と「英語とのお付き合い」を巡る僕の半生を自己紹介も兼ねて振り返ってみたいと思い、筆を取りました。


世界一周を機にフィリピンに移住

2016年、ソーシャルワーカーとして勤務していた大阪府立の精神科病院を後述する理由でやむなく退職して途方に暮れていた僕は「一度しかない人生、思い出に残る特別なことをしたい!」とおもいたち、その年の11月に世界一周の旅に出ることにしました。

大阪市内のアパートを解約し、1000枚のCDや書籍をはじめとする所持品をすべて処分して、心の赴くままに、身一つで日本を出ました。最初の目的地はフィリピン・セブ島でした。

1年間の世界一周を終えてすっかり海外に慣れてしまって日本に帰りたくなくなったんですが、日本はおろか、大阪からもほぼ出ることなく40年以上を過ごした当時の僕が頼れる英語圏在住の友人・知人などはおらず、海外にはまったくツテがありませんでした。

そんな僕が「ボランティアで便所掃除でも夕食作りでも何でもしますから!」と申し出て住み込みスタッフを志願したのが上述の『CROSSXROAD(当時)』です。

旅に出る前英語を学ぶために訪れたフィリピン・セブ島で、住み込みのボランティアスタッフとして働かせていただけることになったんです。

その後、同じセブ島にある別の語学学校に移籍し、トータルで約2年半、英語圏であるフィリピン・セブ島で生活させていただく機会を得ました。

世界一周中に不便を感じないようにと学び始めた英語でしたが、世界を旅するうちに英語で触れる新たな世界・価値観の豊かさの虜になり「もっと上手に英語を使いこなせるようになりたい!」と思うようになりました。お金のことなんて考えもしませんでした。

この想いが、僕に第二の人生の扉を開くきっかけを与えてくれたのでした。

旅をするために学び始めた英語にのめり込む

40歳を超えてから海外に移住し、英語を一から学び直す…。無謀と言われても致し方なかったと思います。友人知人を含む実に多くの40代以降の日本人が、年齢を理由に英語習得を、そしてなにより「もう若くないから…」と夢そのものを諦めていく現実を目の当たりにしてきたからです。

しかしながら、当時の僕には不思議と不安はありませんでした。絶対に英語ができるようになりたい!という強い気持ちがありましたし、何より「英語は楽しいもの」ということに、すでに気づいていたからです。

「楽しいから」ずっと続けていたかったんです。そして「続けていればいつかできるようになる」のが英語であるということを、同僚であり仲間でもあるフィリピン人講師から日々教えてもらっていました。だから、誰がなんと言おうと自分の決断を疑うことはなかったです。

44歳、多読・多聴で英検一級に一発合格する

当初は「海外に行きさえすれば、英語は伸びる」という楽観がありました。しかしながら現実はそう甘くはなく、海外生活が2年を超えた時点でも、初級者に毛の生えたレベルの英語力でどうにかサバイバルする日々が続きました。

そんな中、2018年、43歳のときに出会った「多読・多聴」という学習法で、僕の英語はブレイクスルーを経験することになります。

多読・多聴を始めてからわずか1年足らずで対策無しで英検準一級に合格し、その3ヶ月後に英検一級にチャレンジ、一発合格を果たします。

これがそのまま、今の英語コーチという職業に結びつくことになります。人生本当にどう転ぶかわかりません。

この頃にはもう、英語を使ってフィリピンで生活し就労することに全く難しさを感じることはなくなっていました。これ以降、僕の英語学習は多読・多聴を中心としたものに大きくシフトしていきます。

2021年1月、コロナ禍で帰国後約一年で受験したTOEICは925点。多読多聴を軸にした学習の威力を改めて実感したのと同時に、それを実際の英語運用能力に結びつけていく自分自身のメソッドに、確かな手応えを感じた瞬間でもありました。

実は英語から逃げ回っていた25年間

ここまで言及してきませんでしたが、実は僕は「関西外国語大学」という大阪にある私立外大を卒業しています。

これが僕が42歳で英検一級に一発合格できた理由だろうと思われる方も多いんです。なんだ、元々英語得意だったんじゃん…って。

しかしながら、僕の大学での成績は入学当初から下の下もいいところでした。授業についていくことが全くできず、大学2年生の春以降は徐々にドロップ・アウトしていきました。成績不良と出席日数不足が原因で単位をことごとく落としてしまい、結果的に2年も留年してしまいます。

なんとか卒業にまでこぎつけたものの、就職町氷河期だった当時、2年も留年した男子外大生にまともな就職先なんて当然のことながら見つかりません。フリーターとして大阪のミナミという繁華街でバーテンダーの仕事をしつつ、日中は書店員として好きな本に囲まれてアルバイトをしていました。

その後一年間専門学校に通って「精神保健福祉士」という国家資格を取得し精神科の相談員の仕事につく機会を得ましたが、、英語に対する苦手意識・後ろめたさを抱えたまま、大学卒業から20年もの間、英語からは逃げて逃げて逃げまくる生活を送っていたんです。

15年もの間英語から逃げ回った挙句、僕の英語は壊滅的で全く使い物にならなくなっていました。そんな僕が、どうして40歳を超えて英検一級・TOEIC900overという結果を出すことができたんでしょうか?

英語も人生も「全力で楽しむ」もの

僕が大学で英語を嫌いになった原因は実に「英語力で人間性を含めた全てが評価される」という冷酷な事実でした。

外大なんだから当たり前といえば当たり前ですが、英語力や英語の上手さがそのまま成績に反映され、それによってクラス内の格付けが決まる状況は、僕には単に苦痛でした。

卒業後は同様に、年収の多寡や社会的地位の高低で序列され格付けされる日本という国とそのシステムにも強い違和感を感じていました。

そんな日本を逃げるようにして出て経験した世界は、僕に全く新しいパースペクティブを与えてくれました。当時の僕の10分の1程度の収入で毎日笑って楽しく暮らす人たちが世界中にたくさんいる。その事実に僕は愕然としました。

30年以上先の老後の心配をして決して恐々とする。少しでも高い収入・充実した福利厚生を求めて転職を繰り返す。周囲の目を気にして思うことも口にできず、親兄弟や社会が望む自分を演じる。自分はなんのために生まれてきたのか?そんな問すらも思い浮かばないくらい、自分自身を押し殺して周囲の環境や体制に従って生きていました。

今振り返ってみれば、本当に神経症的な毎日を過ごしていたと思います。

事実、僕が大阪府立精神医療センターを退職した理由が「うつ病」でした。長年にわたって自分を押し殺し続けたことによる精神的疲労が原因でした。

その前年には青信号で横断歩道を横断中に信号無視の自動車に跳ねられ、背骨を折る重症を負いました。幸いなことに障害は残りませんでしたが、どれだけ気を付けて生きていたところで、そして未来を案じてみたところで、人間なんていつ肢体が不自由になったり死んじゃうかわからない。

それなら思いっきり今を、人生を楽しんだほうがいいんしゃないか?

そんなある種の「割り切り」が、僕を全く新しい世界へといざなってくれました。そして「英語」が、そんな世界への橋渡しになってくれました。英語が好きにならなければ、語学学校でボランティアとして働くという選択肢は自分の中に生じ得なかったでしょうし、「英語コーチ」として全く想像もしなかった第二の人生を歩むことにもならなかったでしょう。

思うままにならない未来を案じて今を犠牲にするくらいなら、今を思う存分味わって、全力で楽しめばいい。そんな一見シンプルな、ややもすると自暴自棄とも思われる僕の現実への関わり方が、ぱっとしない日常を大きく変えてくれました。

「いま・ここ」を存分に味わうことの大切さについて

未来が不安なのはみんな同じです。でも、不安に思ったからと言ってそれで未来が見通せるようになったりはしないし、銀行の預貯金残高が潤沢になったからと言って、その金額それ自体が未来を明るく照らしてくれたりはしません。

未来はむしろ、見通すことが出来ないからこそ素晴らしいものにもなり得るんです。逆に何が起こるかわからない5年後10年後を恐れて今を犠牲にして背中を丸めて生きることもできる。

未来を希望に溢れた豊かなものにするのか、素養不可能な混沌と捉えるのか?それを決めるのは他でもない、今の自分自身の「いま」に関わる振る舞い方それ自体なのではないでしょうか?

素晴らしい未来への扉を開く鍵は、まだ起こっていない出来事に対して背中を丸めて恐々としているだけでは決して見つけることはできません。その事に気づけたとき、人は自らの運命の主体となって、自分自身の手で希望に満ちた素晴らしい人生を歩み始めることができるようになるんだと思います。

これが41歳で全てを投げ捨てて「今を生きる」という生き方を選択した僕の、自分自身の人生に対する処方箋です。

年齢は関係ありませんし、特別な能力も決して必要ありません。シンプルにいま・ここにいて、酸いも甘いも、自分の身の回りに起こる出来事を存分に楽しめばいい。ただそれだけなんです。

冒頭の写真は、映画「南極物語」を小学生の時に見てからずっと訪れてみたいと夢見ていた場所「南極大陸」に上陸した時の写真です。

専門職公務員という社会的地位や、銀行の預金残高が僕をここへ連れて行ってくれたわけではありません。むしろそれらを手放し、同時に未来に対する不安を手放した代わりに今を大切に生きることを選択したからこそ実現しえたことだった。

これが、この長い長い投稿をお読みくださったみなさんにお伝えしたい全てのことです。


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