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思春期 其の壱

思春期とは
青年期の前期。第二次性徴が現れ、生殖が可能となって、精神的にも大きな変化の現れる時期。ふつう12歳から17歳ごろまでをいう。春機発動期。

春季発動機という言葉がピンとこなくて調べてみたら、なるほど、そういう意味か。

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中学校生活…今の世だったら「学級崩壊」レベル

僕の中学生活のスタートは、複数の小学校から生徒が合流し、新しい友達ができるかとワクワクするような出来事もなく、小学校の同学年がそのまま持ち上がりという変化に乏しいものだった。
変わったと言えば、同じ顔触れが学生服とセーラー服を着て、通う校舎が変わり、クラスのメンバーが入れ変わる。長距離を歩いて登校していた友達が、ヘルメットを被って自転車に乗ってくる、その程度のものだった。

僕が通う中学校には、先輩にもクラスにも荒れている奴らがいて、そのメンバーが中心となって、とにかく騒がしい環境だった。ちょっと突っ張るのがかっこいいとでも思っている奴らが上級生に多数いた。
(果たして、突っ張るの意味を今の若者に理解できるのであろうか…)

教師たちも怒るには怒るがあきらめモードな感じだった。
虐めもそこそこにあった。メンバーが変わらないということは小学校からのいじめられっ子は、小中9年間いじめられっ子という地獄の義務教育を過ごすことになる。
真面目な生徒は、そんな荒れている奴らを見て見ぬふりをしているような状態だった。

そんな中でも、弱っちい僕が虐めの標的にならなかったのは、丁度入れ替わりで中学を卒業した兄の存在があったからかもしれない。
兄は、男子の後輩から恐れられる怖い先輩(ヤンキーではない)で、女子からはモテモテだったようだ。
小さな村社会である。「〇〇先輩の弟」ということで僕は、3年生からは可愛がられ、2年生からは虐めの対象からは除外(あいつに何かしたら先輩にやられるから)されていた。
時には「なにガンつけてんだ!」的ないちゃもんを付けられることもあったが、比較的平和に過ごしていた。

部活動くらいしかやることがない中学生

そんな荒れ気味の中学校だったが、部活だけはみんな一生懸命だったような気がする。各学年2クラスしかない中学なので、男子が入れる部活は運動部のみ3種類だけ。せっかく水泳が得意になったのにプールすらない学校に水泳部はない。
小規模校あるあるなのだが、生徒は原則全員部活動をしなければならない決まりだった。
強制入部の部活動、学校周辺は農村地帯、街へ行くにも自転車でそこそこ時間がかかる環境では、部活くらいしかやることがないと言うのが正解かもしれない。

とりあえず、運動音痴だった僕は消去法で部活動を決めた。小学校からの仲の良かったダイスケが入るからだったような気もする。(記憶が定かではない)
ダイスケは部活を始めてから体つきが変わりスポーツマン体型に成長し、身長も伸び、さわやかイケメンに変身していった。もう何十年も会っていないけど、大人になってから見た彼も格好良かった…気がする。
僕は相変わらずの運動音痴っぷりで1年生のころは部員の中でおまけみたいな存在だった。
僕の学年には、体格に恵まれ、競技センスのいいメンバーがそろっていた。ダイスケを筆頭に1年生でレギュラーメンバー入りする部員が続出した。

鬼のような厳しい顧問と、真面目なメンバーが懸命に練習したのももちろんだが、たまたま粒ぞろいのメンバーが揃ったという相乗効果も相まって、例年市の総体で1回戦負けだった田舎の中学校が地区大会を制し、県大会に出場するようになっていた。

裏方としての僕

部活で活躍できないだろうと僕は僕なりに考え、2年生になる頃だっただろうか、顧問の先生に裏方になる事を願い出た。
これは、自分がこの部活についていけないと諦めたということでもあり、逃げでもあった。しかしながら、部活動は必須のため逃げ道はない。幽霊部員になれるほど部員数もいない。ならば、自分の居場所を自分なりに作るしかない。子供ながらにいろいろと考えた末の苦肉の策だった。歴代の部員からも厳しいと恐れられていた顧問に思い切って相談した。
そして僕は、顧問の先生と部員のサポートをするマネージャー的存在として活動することを許された。

練習試合の審判や、公式試合でのスコアー付け、けが人が出た時の応急処置、練習メニューの調整や雑用などを行い、部員の活動をサポートした。
3年生になってからは、キャプテンとなったダイスケがチームを引っ張り、部の活動を僕が支える立場となっていた。
チームが強くなっていく中で、自分がそれを支え、中には僕がいたから強くなれたんだと言ってくれるメンバーもいた。僕はそんな存在でいれることが嬉しく、毎日が楽しかった。

今となって思う。この頃から辛くて我慢できないことから逃げる性格。よく言えば自分なりに活躍できる場を自分で考えて行動できる。どちらが正解かはわからないけれど、こんな経緯があっての今の僕なんだ。

「失恋」とまではいかないまでも

ダイスケとの関係は変わらず同じ中学の同じ部活の友達である。僕がダイスケを好きなことにも変化はなかった。キャプテンとして活躍するダイスケは女子からモテた。中学生ともなれば誰と誰が付き合っただの、誰かと誰かがキスをしただの、惚れた腫れたの多感な時期である。

遠征で前泊した夜、眠れない夜に始まった恋話。ダイスケから「俺〇〇と付き合ってるんだ」と聞いた。恋愛がどういうものかも理解していない年頃の恋なんて、今となっては思い出のひとつでしかない。しかし、当時の僕にとっては「好きな人に恋人ができた」という事実はとても切ないものだった。失恋というほどのものではなかったと思う。ただとても切なくて寂しい思いをした気がする。ほかの友達の「誰が好きだ」とか「誰が可愛い」という話を聞くにつれ、僕はやはり「自分がほかの子達とは違うんだ」と感じた。
僕は女子とも仲良く女友達も多かった。しかし、彼女たちは恋愛の対象となる異性ではなかった。

狭い世界での進路の選択

3年生になり、高校進学を考える頃。
当時は学区制があり、県内でも住んでいる地域によって受験できる高校が決まっていた。もちろん私立校もあるにはあるが、偏差値が高く優秀な高校は公立高校だった。
僕は、複数の市町村で括られた学区の中でも一番大きな市に住んでいた。市内の公立高校は4つ。その中で、高校卒業後に進学するか、就職するか、工業や商業の専門高校かで行先は決まってしまう。
学力的に公立が難しいとなると、市外の公立か私立かという選択肢になる。
交通事情も考えると市外の高校は通学が厳しく選択肢がさらに狭くなる。

(今は高校卒業後の進路も考慮し、電車で1時間以上かかる有名な大学の付属高校に通う学生もいるらしいが、当時では考えられないことだった。)

僕は、高校卒業後は就職したいと思っていた。当時はまだ高卒後の進学率が5割程度の時代。自分で働いてお金を稼いで自由になりたかった。勉強が嫌いというのもあったが、働くということが大人になることだと思っていた。

今思えばだが、進学しておけばよかった。学歴がすべてではないとは言うが、人生の折り返しを過ぎた今でさえ転職しようと思っても応募条件に「大卒以上」の一言があるだけで、履歴書を送る事すらできないのだから。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
自分の10代を振り返り、誰がこんな駄文を読んでくれるんだろうと思いながら書いています。
もしよかったら、続きも読んでいただければ幸いです。





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