幼な子を愛でる視線/サリンジャーの悉皆仏性
こんにちはと初めまして。おすぬです。
川沿いの桜がいっせいに咲き始めました。
今日も保育園児のグループがいくつもお散歩しています。
台車に乗せられたよちよち歩きグループ、
歩きもおしゃべりもしっかりしてる年中さん年長さんチーム。
あの子にも、この子にも。
あのころの我が子の面影を探してしまう。
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『ライ麦畑でつかまえて』で有名なサリンジャーには、「グラース・サーガ」と呼ばれるグラース家の兄弟が登場する作品があります。
うろ覚えですが、
そのうちの1冊『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア - 序章』には、語り手であるバディ・グラース(グラース家の次男/作家で女子大?の教授)が
「フラニー(グラース家の末っ子)でない女学生はいない」
と悟るような場面があります。
愛すべき対象である末妹フラニー。自分が大学で女学生たちに教えることは、フラニーに愛情を注ぐようなものだ、と気づいてバディが救われる話です。(すみませんうろ覚えです)
話はそれますが、
この考え、仏教で言うところの「悉皆(しっかい)仏性」に似てると思いませんか。誰のなかにも仏はいる。
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で、これを
桜の下を散歩する園児たちにおきかえると
「ウチの息子でない園児はいない」
てことになります。
まー、つまり、みんな可愛いってことです。
たぶんウチの息子が幼いときに、いまの私のように思って見ていたママさんや元ママさん(おばあちゃん)、叔母さん伯母さんたちがいたのでしょうね。
こうやって見ず知らずのお母さんたちのあいだで「可愛い可愛い」の見守り視線はバトンタッチされていく。
連綿と続く「可愛い可愛い」視線。
パパさんたちもそうかもしれませんね。
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サリンジャーの余談です。
グラース家の長男シーモアは哲学的な人物で、『バナナフィッシュにうってつけの日』で若くして謎の死を遂げます。
グラース家のほかの小説『フラニーとゾーイー(村上春樹訳だとズーイ)』では、世間の俗っぽさを嫌悪して閉じこもってしまう自意識過剰のフラニーを、シーモアの言葉が救います。
「太っちょおばさんの靴を磨け」
誰もが低俗な太っちょおばさんである、と。その太っちょおばさんのために働け。
この太っちょおばさんとは。。。
ここでも「悉皆仏性」的なものを感じます。
当時のアメリカの東洋思想への傾倒の現れかもしれませんね。
こちらの企画に参加しています。
それではこれにて。ありがとうございました。
(ライラン26日目)
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