小説の感想『また、同じ夢を見ていた』ーー被害者のためのアドラー心理学

 良い本でした。良い本を読むたびカレン・クラシュカを思い出します。今回もバッチリです。

 作者は臓物の人で、風変わりな小学生の女の子による一人称視点が読みやすいです。
 それでこの1つのお話が、1学期の数ヶ月なの。子供の頃は時間のスケールが確かにこんな感じだったな、というのを思い出してしんみりしました。
 あの頃の感覚を思い出しながら、そして主人公の少女を通して世界の息遣いを感じながら、一緒に勇気を出して前進できる。ハードルを乗り越えて行ける。そういう素敵な作品です。

 ヒューマン系のストーリーに一つだけ入り込んでいるSF的な要素は予想通りの結末なんだけれど、だからこそ切ないというのもあるし、あえてそれを予め感じさせることで作品全体を柔らかくしているように思えます。
 後半は自分でも何故だかわからないまま、読みながらボロボロ泣いていました。ページの右上から左端までが切なさと繊細な感動で満ちていたのです。少し寂しいけれど心温まる、素敵な奇跡と美しい勇気のお話。

 さて話は変わりますが、以前流行ったアドラー心理学とやら、皆さんは実践していますか?
 成功するためにはとてもよい理屈らしいですよ。僕は今の日本で出回っているトリミングアドラー心理学は大嫌いですけどね。

 いじめや虐待などによって、人格形成前に抗いがたい理不尽な悪意を与えられ続けた人間の過半数は同じようにアレを受け付けないと思います。
 「この素晴らしい人間関係のルールを実践できる人間を生み出すには教育が最も大事だ」という部分をさらりと流し、極力目につかぬよう巧みにレースに包んで、せこせこと背後に隠して行き過ぎた自責へと誘うアレです。

 では、世の悪意をさんざ味わってきた我々は、アドラー心理学による成功のメソッドを全く享受できないのでしょうか? ある程度の有用性があることは確かなので、できることなら反射的な心理抵抗をかいくぐって、悪人の存在を無視した自責理論以外の部分のみをどうにか吸収できる方法はないものか。
 我々が世の悪意から受けた痛み苦しみを正しく発散しないままそれを亡き者にすることなく、つまり自責理論の狼藉に我々の人生が膝をつくことなく、新たに現れる人間関係の悩みを減らしていくことは不可能なのか。

 その答えの一つ、すくなくともそのヒントとなるものが、これだ、って思ったんですね。
 この本、我々に向けてのアドラー心理学なんですよ。勇気と人間関係と、あとはこう、「やっていく火種」みたいな話。心に火が灯る。激しく燃え盛りはしないけれど、確かに熱源がそこにあるのを感じられる。

 主人公の少女はド変人で、学校で浮いていて、おそらくは発達障害か、あるいは何らかのコミュニケーション上の難点を抱えているとしか思えない、高知能で理屈っぽく他人の気持ちがわからないという描写をされている。おまけに、家庭環境にも話が暗くならない程度の、しかしともするとその先の人生全てに影を落としかねないような問題がある。

 そしてその少女が、素敵な人達と、同級生と比べたらまったくもって普通ではない交流をしながら、人間関係の頓きポイントを乗り越えていく。
 一歩道を踏み外せば、真っ直ぐ進む勇気がなければ、理不尽に人生を滅茶苦茶にされてしまう可能性がある中で、知恵と勇気で正しい道を選び進んでゆくその姿はまるでジョースターの血統のようです。

 かといって道を踏み外してしまった人であっても切り捨てることをせずに、きっかけを得られれば人生を好転させられることを示唆してもいる。ずっと人生にこびりついたドス黒いシミのような記憶を、それこそ何遍も何遍も、数え切れぬほど夢に見続けようとも、道を切り開けることを示している。
 そしてそれには、やはり何らかの形での心理的精算が必要であることも。
さらにその精算は、人間関係を諦めなければ、他者との関わりを断ち切ることなく持ち続ければ、自分で選択できる瞬間がやってくることも。この作品はそれらを読むもの全てに提示している。
 我々の人生に希望の光を、自責原理主義者に避けがたい落とし穴の存在を、美しい物語によって示唆している。

 「その瞬間その瞬間で、我々は希望に向けての一歩踏み出すことができ、それをするかしないかは各々が選択できる」
と、いうような話がアドラー心理学の正しいキモなのではないかと思うわけですが、この作品はまさしくそれを、優しいお話にして語っているのです。決して読む者の暗い過去を非情に踏みつけることなく、あくまで淡く切なく綺麗でそれでいて力強く。
 我々の人生はいかに不運や悪意によって蹂躙されようとも我々のものであり、我々が進む道を選択できるということを語っている。

 そしてこの作者よくわかってんなーと思うのが、その他者との関わりが、実質的には半分くらい他者でないことですね。人生が暗礁に乗り上げてどうにかなった人の話は大抵「あの出会いがあったから」のパターンになるので、他人との良い縁に恵まれない人は余計塞ぎ込む結果になってしまう。それをSF的手法に寄って自己完結する方向に持っていっているので、「ケッ」というこれまた心理的リアクターの一種を無効化することに成功している。
 しかも、自称スマブラ最強の小学生を殲滅したインターネット時代の何者にもなれぬ問題についてまで言及があるわけで、本当に我々インターネット藻屑の為の勇気の物語だなあと思います。

 ではこのまま最後に作中の話しに戻って終わるとしましょう。
 作品がn年度エンドになることは中盤に示唆されていましたが、終盤の部分が静かなのに重厚な質量と迫力を持った怒涛の展開で、食い入るように読んでいたので、タイムジャンプの瞬間にはやられました。本当に夢から目覚めるような気分でn年後に飛ばされた。いやほんとあれにはやられた。

 なんとなくわかっていた不思議については最後にほとんど種明かしがあったので、みんな前に戻って確認したりしたと思う。変わっている変な奴を演出する記号だった古い歌もメタ的な意味があったことがわかったり、作中のあらゆる要素がエピローグに集約される作りは予想できていても凄かったた。
 わかっていても唸らざるを得ないものっていうのが本当に凄いものなんだと思う。

 そしてラストでは物語にさらなる続きがあることが示され、その結末は素敵なやり方でぼかされていましたが、皆さんはどのような結末になるとお考えでしょうか。作中一点だけ、まだ書き直されていない寂しいポイントがあったと思うので、SFチートによって人生攻略のヒントを与えられていた主人公は、きっとその部分をもハッピーエンドに変える選択をしてくれるのでしょう。
 しかし重要なのは、そこが正解にならずとも幸せになる道が存在しているということです。
 普遍的な成功へのエッセンスが選択と勇気と行動であるならば、我々にとってのプラスアルファの処方箋は「推敲と添削」なのでしょう。何度も失敗を思い返すのなら、まだ変革の余地があるということなのかもしれない。ならば心で灰の中に息づくかすかな火種に、勇気の風を送ろう。それがこの物語からの贈り物だ。

コミュニケーションと普通の人間について知りたい。それはそうと温帯低気圧は海上に逸れました。よかったですね。