他人の過去を変えてやりたい(現代日本に蔓延る人生の絶望について)

 この頃ふと、整形した果てに自殺する人の気持ちが分かってしまった。やりすぎて不可逆に変になったとか、完璧を目指しすぎたとか、整形で全てを変えようとしていたとか、自分の中で幾つか仮説があったけれど、どれも違っているんじゃないかと思う。
あらかじめ断っておくと、これは一応前向きな話であるし、特定の誰かについての言及では(本当に)ない。
 整形は確かに人生を変える。多くは良いほうに変わる。未来が開ける。その開けた未来こそが問題だ。

 注射でエラの筋肉を溶かすだけで異性の反応は変わる。明らかにそれ以前よりこちらに対して好意的になる。見た目が特段良い部類の相手だと大きな変化はないが、もっとやればあるいは、人生逆転も夢ではない。あれをやったら、これをやったらと、次々希望が湧いてきたというのは、僕の体験談だ。
 本格的に骨を削りさえすれば、人生はもっと劇的によくなり、世界は明るく、未来は薔薇色になるだろう。僕を取り巻く世界の変革は、きっとTinderが証明するに違いない。
 だがここで僕は気づいてしまった。その未来にも真に願った理想が無いことに。

 整形で世界が変わらないなんて話は嘘っぱちだ。整形で世界は変わる。人生は良くなる。だが、そこに願った世界はない。
 広がる未来の選択肢をいくら見渡しても、僕らの願っていた世界は最早存在しない。そこから目を逸らせず、現実との摩擦で心が火花を散らし、ついぞ擦り切れた時、あらゆる選択肢が一瞬で壊死し、ただひとつ自殺の道だけが残される。そんなことが、ある種の人間にはおそらくあるのだろうと思う。

 近頃よく言われている、変えられるのは自分の未来だけだという、もっともらしい話がある。自己啓発のつもりなのか、最悪なことに本人はセラピーと勘違いしているのかもしれないが、だからどうしたというのだろう。正論では人を動かせないし、ましてや救うことなどできないことも、近頃よく言われているはずだ。
 整形は自分の未来を確実に変える。だが僕たちが本当に書き換えたいのは過去なのだ。虐げられてきた自分の過去を、全て顔のせいにして闇に葬れるのならまだよい。僕は他人の過去を書き換えたい。

 たまたま見た目が良かったからと、チヤホヤされ放題の思春期を過ごし、苦しむ僕らを見下ろして全能感と選民意識を培ってきた、恨みの尽きない憎きアイツラの、燦燦と輝く煌びやかな過去を、一切の隙間なく血みどろに塗りつぶしてやりたい。自分が下であることよりも、あいつらが上であることが許せない。
 実現したいのは運や偶然に基づいた覆しがたい不平等の修正だ。奴らの栄光の過去を根こそぎ奪ってやりたい。思う存分汚してやりたい。それでまだ奴らの未来が幸せなら好きにしてくれ。その際それはもうどうでもいいよ。

 整形は怖い。ハマる人間からしても怖い。そのためらいをブッちぎって振り払い置き去りにするには強大なエネルギーが要るのがわかるだろう。突き動かすのは底なしのルサンチマン。
 例え無理だろうと過去を書き換えるその意志だけは形にしたい。世の中に見せつけてやりたい。そういういう強い怨念だ。当然ながらその道の行く先に救いはないのだが、そんなことは他人に言われるまでもない。
 我々にできることは、最早この不平等で理不尽な世の中を告発する生き証人として、これみよがしに、ただひたすら一心不乱に、次の誤りへと更なる破綻へと邁進し続け、生ある限りどこまでも破滅し続けることである。
 これはキルケゴールのいう『死に至る病』の最悪のケースだが、驚くなかれ、事態はよりマイルドな形で普遍的に浸透している。

 僕はずっと冒険がしたかった。『大長編ドラえもん』のような胸躍る冒険に憧れていた。これでいい歳してプリンセスに憧れる女子を笑えるだろうか。どちらもおんなじだ。ホグワーツからの使者だろうと白馬に乗った王子様だろうと、僕らを迎えに来ないことに変わりはない。例え来たとしても、グリフィンドールに入れないんじゃ結局おんなじだ。

 それだけじゃない。舞台にもうちょい現実味を持たせたってそうだ。池井戸潤が書くような、世間を揺るがす大プロジェクトを、二転三転のシーソーゲームの果てに成功に漕ぎつける大仕事も、「恋に仕事に大忙し」みたいなキラキラOL生活も、多くの人たちの人生には存在しない。
 僕ら非グリフィンドール的な人間の人生には、ただ色褪せた食玩のおまけの山のようなレディメイドの未来が広がっていて、その中でなるべく凹凸の少ない道を探して進むのが関の山だ。

 所謂「お仕事物」のような日常があるのかと言えば、あるのだろう。どこかには。だがそれは僕らの行く道にはない。
 ある日突然特殊能力に目覚め、カッコイイ必殺技を駆使して世界を守る夢物語なんかと違って、池井戸潤の世界がふと顔を出す可能性はゼロではないけれど、その少ない可能性が開かれているのは、人生の前半を優秀なスコアでパスできた連中にだけだ。ブリジット・ジョーンズになるにも運と才能がいる。
 落第したまま青年期へはじき出された僕らに至っては、みそボンの席があれば上出来だろう。

 自分の未来にあの頃夢見た正解が存在しないこと。これが現代社会に蔓延る不幸の大きな原因なんじゃないだろうか。
 特に日本において事態は深刻だ。多くの場合に宗教を持たないからである。日々の祈りで救いがもたらされると信じられていたら、どれだけ幸福だったろう。
 今、我々を救い得るのは趣味とフィクションしかない。しかしそのフィクションこそ、我々の飢餓感を煽るお手本のカタログであることも事実なのだ。『天王寺に住んでる女の子』みたいな悲劇は、関西の若者に限らず社会全体の病理だ。しかもこのサイクルはノーンターバル。ナギ節すらない。

 この絶望の輪廻が現代のお悩み市場で大きなシエアをしめている。プリンセスに憧れようと、プリンセスが自立しようと結局は同じことだ。自立してどうなるのだろう。それで幸せな人間ならよい。新時代の正解に乗って『アナ雪』的価値観に溶け込めた女の子は晴れて解脱だ。
 でも『白雪姫』や『眠れる森の美女』を好きだった女の子はどうなるのだろう。自分の人生に正解がないことも、世間の正解が自分の正解でないことも、行きつく先は同じ。正解がないことには変わりがない。
 確かに自分の未来を変えることはできる。戦略と努力の程によっては、今より幸せになることだって夢ではないはずだ。でもそれが、昔の自分が内面化した正解の形に添っているとは限らない。

 なにも努力は無意味と言って、自堕落に生きる態度を肯定するわけではない。人間は日々何らかの向上心を持ち、諦めを拒絶し、何かに向けて前進していることが望ましいはずだ。頑張りたくない人が無理して頑張らなくても良いと思うが、一切の向上心を捨て去る態度は褒められたものではない。

 これは開き直りを正当化した言い訳話ではなくて、正しく絶望するための話である。
 ひょんなことから絶望が降りてきて、覚悟もないまま直視してしまえば、人間は耐えられずに精神を害すだろう。パニックに陥るか、さもなくば静かに精神が黒ずみ、ひび割れ、砕けていく。
 そうならぬよう、落ち着いた静謐の中で絶望を見つめる訓練の話だ。いわば現代病理へのワクチンで、あらかじめ絶望に向き合っておこうというわけだ。ダメージを最小限にするために。

 正解に見放された我々は、そこから逃げず、現実を見据え、しっかりと踏み込まなくてはならない。地に足を付けなくては矢の一本だって撃てやしないのだから。我々は改めて意識せねばならない。
 我々の人生に、あの頃の自分が憧れた正解はないこと。それを誰も与えないこと。誰も助けに来ないこと。それでも歩まねばならないこと。これらを見つめ、正しく絶望する態度が必要だ。それこそが我々の誇り高き反撃の第一歩となる。

コミュニケーションと普通の人間について知りたい。それはそうと温帯低気圧は海上に逸れました。よかったですね。