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「私は嘘をついたことがありません」という嘘について。

不惑の年を超えて、嘘をつくことに抵抗がなくなってきた。と言うか、嘘と本当の境界があやふやになってきたのです。

あやふやになってきたのにははっきりとした理由があって、それは「言わない」ということもひとつの表現だと知ったことから。

マトリックスにするとこんな感じ。

みんないろんな価値観に基づいてひとつひとつ判断してる。でもそれはあくまで「つもり」であって、価値観なんてものはあやふやだし判断というよりもなんとか因果関係を結びつけて納得しようとしてる。人によって異論があるとは思うけど、そんなふうに僕には見える。

誰かとのコミュニケーションの中で相手が求めているのは価値観の共有でもなく判断の委任でもなくその場その時での納得でしかなかったりもする。なので自然とその到着地がなにかを知ろうとすると、だまって聞くしかなくなってくる。

嘘をつかないのと本当のことを言わないのは、黙っているとどちらも同時に行っていることにもなる。その振る舞いはすでにズルい嘘だ。そして不惑の年を超えると左の2象限の面積が広くなってくる。

どこの家でもたぶん、父と母はなにかの偶然で出会い、いくつかの嘘を介して生活を始め、やがて子が産まれたのだろう。

嘘から産まれた人間が育って大人になり、目の前の相手に対してできる最大のもてなしは、嘘をつかないことでも本当のことを口にすることでもなく、ただ、嘘の混じったやり取りの中で泳ぐことなんじゃないだろうか。

ま、これもぜんぶ嘘なんだけどね。

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