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広田弘毅と吉田茂 違う道を辿った同期生の生涯を追う

今回は外務省で同期だった広田弘毅と吉田茂を紹介していく。
一応前に広田弘毅は紹介しているものの一番最初の記事だったため内容も薄いので、再度解説する。

(一応、載せときます。)

1.広田弘毅の生涯

1878年、福岡県で石屋の元に生まれる。
そこまで裕福ではなかったものの、奨学金が下り福岡の名門修猷館に入学する。その後は陸軍士官学校に入校しようとしたが三国干渉での日本の(弱腰)外交を見て心変わりし、外交官を志すようになった。
1901年、東京帝国大学に入学する。
外交官試験には英語が理由で不合格、しかし2度目で合格する。
1923年、欧米局長に就任。
しかし、後に思想が合わなかった幣原喜十郎にオランダ公使に(事実上の)格下げとなってしまう。1930年、駐ソビエト大使に就任。
満州事変が勃発、当時の田中内閣は各国に直ぐに満州の軍は撤兵すると伝えるよう各大使に命じたが撤兵しないことを予期していた広田はこのことをソ連に伝えなかった。案の定、軍は撤兵することはなく広田への信頼を勝ち得る結果となった。1933年、斉藤内閣の外務大臣に就任し、続いての岡田内閣でも留任した。
満州にある東支鉄道の問題を平和的な形で解決した。
協和外交を掲げ、中国に対しても融和的外交が採られるようになった。
二・二六事件が起こると岡田内閣は総辞職、その後は近衛に大命降下されようとしたが、近衛が辞退元外務大臣であった広田に大命降下される運びとなった。
組閣は軍部の妨害にあったが妥協し、広田内閣が成立した。
広田は二・二六事件の粛軍を軍部大臣現役武官制を復活させる代わりに実行した。議会では寺内寿一陸軍大臣と浜田国松議員による割腹問答があり、それがきっかけとなって、広田内閣は総辞職となった。
その後、近衛内閣の外務大臣に就任する。この在籍中に南京事件が起こった。
1945年に大東亜戦争が終結すると、戦犯として東京裁判にかけられる。
誰もが無罪になるだろうと予想していたが、判決は死刑。
減刑の署名活動が行われた。しかし、その願いは叶わず1948年、刑が執行される。1948年刑死。

2.吉田茂の生涯

1878年、高知県に生まれる。若くして父が亡くなると吉田家に養子に出される。
その後は学校を転々とした。外交官を志すようになり、学習院大学科に入学。
大学科が閉鎖されると東京帝国大学に移る。
1906年、外交官試験に合格。山東省で領事として勤務していた頃、岳父の牧野伸顕のつてで秘書としてパリ講和会議に出席する。
中国で20年以上勤務し、また中国の奉天に転勤を告げられ当時の外務大臣に抗議抗議の結果書類審査が行われたが不合格。それでも諦めがつかない吉田は満州で一番偉いのは吉田という文言を当時の首相である加藤高明に頼み書いてもらうことになった。(吉田は事あるごとにこの紙を関東軍に見せていたそう。)
広田内閣の組閣時、外務大臣候補として挙げられたが当時親英米派と思われていたこともあって軍部の妨害に合い、組閣から外されることになる。
1936年、駐英大使に就任する。もともと親英的だったということもあり、広田の計らいで就任となった。1939年、強硬派の松岡洋右外務大臣により待命大使となる。相変わらず中国に対しては強硬論出会ったが、日独伊三国同盟や大東亜戦争には断固反対であった。
1945年の終戦後東久邇宮内閣で外務大臣に就任する。
同期の広田から遅れて12年である。東久邇宮内閣が崩れると幣原内閣が成立。
外務大臣は留任した。
次期首相であった鳩山一郎が公職追放されると鳩山に首相就任を打診され、1946年内閣総理大臣に就任する。1948年、首相に再就任すると1951年に
サンフランシスコ平和条約を締結。無事独立を回復した。
1967年、病没。

3.広田弘毅と吉田茂の分岐点とは?

ここからは同期生だったが全く違った運命を辿った広田弘毅と吉田茂の分岐点について考えていく。
分岐点はまだ広田は欧米、吉田は中国と違う場所で勤務していた頃である。当時の外交官にとって広田のいた欧米は花形であった。だから、出世も早かったのではないだろうか。それに比べて中国では出世もそこまで早くなかったのでは?
(これはあくまで個人の考えです)

思想の違いが原因なのではと考える人もいるかと思うがそんなことはない。
逆に死刑となった広田は協調派、終戦後首相になった吉田は強硬派であった。

ここまで運命が別れたのは広田が首相になった時期が悪かったのもあると思う。前代未聞のクーデターである二・二六事件が起こった後、粛軍などやることが山積みだったのだ。


文献(文庫本ですが、一応)

落日燃ゆは広田についての小説ですが吉田も描かれていますのでおススメです!)


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