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第9章 モリソン号ショックの人々


(1) 親日家を生むニューイングランド

① 波紋を呼ぶ『モリソン号航海記』三誌

19世紀に入り、日本近海の太平洋の波は高く激しくなってきます。
それは、西洋の産業を支える鯨油の需要の急増に対して、北太平洋にクジラの好漁場が発見され、アメリカをはじめ西洋各国は競うように太平洋に進出してきたことにあります。
また、アメリカは米墨戦争に勝利し、国土が西海岸まで達します。さらにその新たな国土に金鉱が発見されて急速な発展を遂げ、アジアとの独自の航路を開いていきます。
北方からは、ロシアが悲願の不凍港の獲得を目指して南下政策を推し進めています。
そのロシアと対峙する英仏は、アジアにすでに足場を築いています。
産業革命は、蒸気機関の改良や活用範囲の拡大で発展をとげ、交通革命も起こしています。
このような情勢の中、今まで、太平洋の孤島であった、言わば地の果て極東の国、日本がにわかに脚光を浴びてきたのです。
多くの国々が、西欧の圧倒的な科学技術と軍事力の前に植民地化、あるいは自治権の侵害を受ける中で、幸いにも日本は自らの手により、旧態依然の封建社会から近代化(明治維新)を成し遂げることができました。
当時の日本は、このような外圧に耐え得るものでは決してありませんでした。
日本が西洋列強に対抗しうる軍事力も見識もなかったことは、前章の「ペリーによる日本遠征」で述べたところで明確です。
それなのに日本は「なぜ西洋列強の植民地となることを免れたのか」の視点で調べてみると、ある特徴・傾向のあることに気付かされます。
それは、日本開国を知るや多くの外国人が鋭意やって来ますが、その大半の人たちは不思議なことに、日本をよく知る大変な親日家なのです。
そこでさらに、その人々の日本指向のおおもとを遡って調べてみると、これも前章で述べたことで繰り返しますが、この親日感情の源は「ペリーの日本遠征」でもみたように、やはり「モリソン号事件」にたどり着くようです。
1837年、キングの仕立てたモリソン号が無情にも日本から打ち払われた事件は、西欧諸国に反日感情を煽るようなものでしたが、三氏による『モリソン号航海記』の意外な筆跡は、思いのほか日本の好印象を強烈に植え付けることとなりました。
これら『モリソン号航海記』は、明らかにこのニューイングランドの地に波紋を呼んでいることが分かります。
そこで改めて、これら文献がどのように、西洋人に影響を与えたのか、少し拘って見てみたいと思います。

②  親日家の萌芽

事件後、まず宣教師ウィリアムズは、いち早く『チャイニーズ・レポジトリー』に、「モリソン号事件」の詳細を「どうして日本がこうまで外国人を寄せ付けなくなったのか調べるのは決して無駄なことではない」と、真摯なタッチで報道しました。
次に翌年5月には、同じく宣教師のパーカーが友人アンドリュー・リードに託して『モリソン号航海記』をロンドンで出版しました。これは、アメリカン・ボード機関紙『ミショナリー・ヘラルド』の6月号にも掲載されました。このパーカーの書は「日本人の人情風俗、文化の程度、船載の日本人漂流者の心情の変化を傳える」点で出色と、歴史学者岡本良知氏の評価です。
そして、モリソン号事件の集大成ともいうべき、キングの『モリソン号航海記』が出版されたのは1839年のことで、この書については前章で詳しく述べたところです。
これらの「モリソン号事件」関係の三誌を指して岡本氏は、自身の論文で以下のように記されています。

この数少ない航海記は驚くほど明瞭に且つ冷静に作られているから、当時の心ある人々を動かすに足りたであろうし、後世の研究者にとっても最も信頼すべき資料となるのである。

岡本良知論文 丸善書店『学燈』第50巻第3号『天保8年渡来モリソン号航海記』より

さらに、欧米でこれら三氏の書物に注目が集まるころ、当事者の日本人音吉は、二度の訪米を果たしていると思われます。特に二回目の時は、教育者ギュツラフ夫人メアリ―に伴われたもので行動範囲も広く、言葉の障壁もなくコミュニケーションも綿密であったことでしょう。
すでに本稿で何回か紹介しているモリソン号のインガソル船長の「不幸な日本人漂民の中の2,3人は、合衆国に来たり、日本の国民を代表してアメリカ人の目に訴えることであろう。」という彼の遺志は、音吉によって実現されていたと思われます。
これら一連のモリソン号関係のニュースは、岡本氏が指摘したように、ニューイングランド(アメリカ東海岸地方)に、大きな関心と衝撃をもたらしたものと思います。
まさにこの時期に、親日家誕生の萌芽をみるのです。

前章で述べたペリーやパーマーは、これらの人々の草分けということができましょうか。
また、ペリーの後を受けた初代駐日総領事(後に初代公使)タウンゼント・ハリス(1804-1878年)に代表される外交官がいます。
そして、ヘボン、ブラウン、フルベッキや少し時代は下りますが、G・P・ピアソン(1861-1939年)など宣教師の一団がいます。
その中でもヘボンとピアソンは、ギュツラフ訳の『約翰福音之傳』を携えての来日です。
また、日本に来ることはありませんでしたが、彼の地にあって、日本を目指す若者を支援したハワイの宣教師サミュエル・Ⅽ・デーモンや、若き新島襄の後ろ盾となった大富豪アルファース・ハーディーなどは、その時流の人物ととらえることができます。
彼らは言葉を変えれば、一連のモリソン号事件の報道や、音吉の切なる訴えに衝撃を受けた人たち、すなわち“モリソン号事件ショックの人々”と呼ぶ事が出来ると思います。
この章では、不可解な経歴を持つ、特に“ショック”の大きい二人にスポットを当て見ていきたいと思います。
その二人とは、ペリーの後を受け継いだハリスと、新島襄が岳父と仰いだハーディーのことです。
筆者は、彼らのその不可解な経歴の中に、音吉の姿を見るものです。

(2)ハリスの日本観

① 領事旗にかけるハリスの誓い

初代アメリカ駐日総領事に任命されたハリスが、軍艦サン・ジャシントン号で日本の下田へやって来たのは、1856年8月21日(安政3年7月21日)のことです。一行は、秘書兼通訳のヒュースケンのほか、中国で雇った使用人5人の総勢7人といささか寂しい陣容です。
それでもハリスは、ペリーが交わした『日米和親条約』の条約文を片手に、意気軒高と押し入って来ました。
9月4日、彼は、領事館としてあてがわれた下田柿崎の玉泉寺境内に、日本で最初の星条旗を揚げます。それを見届けたサン・ジャシントン号は、午後5時、下田港を後にします。
ハリスは、日本に不平等条約を強要したとか、唐人お吉の人生を狂わせたとか、はなはだ芳しい評価はされていませんが、よくよく調べてみると、そんな人物ではないということです。決して大げさではありませんが、日本の尊厳(自主権)が守られたのは、ハリスの強力な指導、教示があったからと言えます。
現代に至る歴史教育では、当時の混沌とした幕末日本にあって、ハリスの言動がいかに日本を近代化に導くために作用し貢献していたか、、正しい評価はなされていないようです。
これは、ハリスの名誉にもかかわることですが、それよりもむしろ日本のために、その後の日本がたどった悔やんでも悔やみきれない禍根の道を考えると、どうしても検証しなければならないものです。
そのハリスの日本での第一歩、アメリカ領事館が開設された日、彼の日記は以下のようなものでした。

旗竿が立った。水兵たちが、それを廻って輪形をつくる。そしてこの日の午後2時半に、この帝国におけるこれまでの「最初の領事旗」を私は掲揚する。厳粛な反省―変化の前兆―疑いもなく新しい時代が始まる。敢えて問う―日本の真の幸福になるだろうか? サン・ジャシントン号は5時に旗を一寸傾けて、私に挨拶しながら出港した。

玉泉寺住職村上文樹師著『開国史跡 玉泉寺』より

この中に記された「最初の領事旗」の旗竿は、高さ13間(24m)程にも及ぶもので、その作業は困難を極め、内外の人足をかき集めようやくにして立てられたと、その様子が描かれています。
そして、彼の日記は、サン・ジャシントン号(アームストロング提督)が「旗を一寸傾けて」出港していったと続いています。
それにしてもこの中の記述で気になるのは「敢えて問う―日本の真の幸福になるだろうか?」と疑問符のついた一言です。
ハリスは、もとより自ら志願し「日本を鎖国から開国開放し、西洋の文明化を」と張り切ってきたはずなのに、この一言はいったい何を意味しているのでしょうか。
実は、このハリスの疑問符のついた自分自身に問いかける言葉にこそ、日本を目指した決意が込められているのです。
それは、はからずも次に紹介する痛ましい事件からうかがうことが出来ます。

② ヒュースケン事件

その事件とは、ハリスが日本着任後、4年半経った1861年1月15日(万延元年12月5日)、彼の腹心ともいうべき秘書のヒュースケンが攘夷を叫ぶテロの凶刃により殺害されたというものです。
この時の、ハリスの一連の対応から、彼が何のために日本へ来たのか、また、その決意の強さをうかがうことが出来るのです。
ヒュースケンは、その日、プロシアの使節オイレンブルグ伯の仮公邸、赤羽接遇所で条約締結交渉の通訳を務めた後、夜9時ごろ、宿舎である元麻布の領事館の善福寺へ、いつものように帰る途中、薩摩藩士の待ち伏せに遭い襲われたというのです。
ハリスは、念願の『日米修好通商条約』を1858年7月20日(安政5年6月19日)に結んだあと、次々と西洋各国が交渉に入る『修好通商条約』の締結に協力して、通訳として優れた才能を発揮するヒュースケンをその要請にこたえて派遣していました。
この日も、オイレンブルグの要請にこたえたもので、すでに4ヶ月が経過していました。
ハリスは、国務長官宛に、事件の経緯と日本側の対応、そして彼の葬儀の模様など記した報告書(1861年1月22日付)を送っています。

ヒュースケン氏は、三人の護衛の下、帰宅の途上、突然両脇から攻撃された。役人たちの馬が刺し突かれ、斬りつけられた。提灯は消え、ヒュースケン氏は両わき腹を負傷した。彼は馬を全力疾走させ二百ヤードほど走った頃、大声をあげて役人たちを呼び、負傷して死にそうだと言ってから落馬した。暗殺者は7名で、直ちに逃げ去り、難なく闇夜の街に隠れてしまった。

『ヒュースケン日記』青木枝朗訳より

事件の状況をこのように記し、ヒュースケンが翌16日朝12時30分(ママ)に死亡したと報告しています。
日本側の対応は「16日朝7時、シメ(新見)豊前守、村垣淡路守、小栗豊後守が来訪し外国事務相の弔意を伝え、政府は百方手を尽くしてこの恐るべき犯罪を行ったものを逮捕し処罰するつもりだといった。」と続け、18日には、物々しい中行われた葬儀に、日本側から、前々日弔意を伝えた三氏のほか、高井丹波守、滝川播磨守が、そして、各国の領事及びその随員、神父、海兵隊員など、大勢の人が参列し盛大に行われたことを伝えています。
そして、遺体は、1マイル程離れた麻布光林寺墓地に埋葬されたこと、この時懸念された心配(ローニンによる襲撃)もなく「大勢の人々が軍楽隊の演奏とただならぬ“みもの”に惹かれて集まってきたが、みな静粛で秩序があった。」と民衆の情景を記しています。
報告書は、さらに続けてヒュースケンの人柄にも触れてます。
「彼は親切で愛想のいい性質であり、日本人に対して暴力を揮ったことはないし、彼らの言葉を話すことによってひろく人気を集めてもいたようである」と彼の人懐っこさや、日本語を覚えて交流を深めていたことを紹介しています。
 しかし、日本の世情は、日に日に深刻さを増していて、特に「当地に来たときは、夜間の外出は危険であると当局から聞かされていた。」とは、比較的安全な地方都市の下田から、攘夷を唱えるローニンが横行する首都江戸に移り住んだことの懸念を「私は常に、ヒュースケン氏が危険を冒していることを警告し、そのようにして身をさらさないよう願っていた。」とも述べ、かかる危険な身を案じてもいました。  
そして、ハリスの報告書は「われわれの関係は、主人と雇人というより、むしろ父と子のようなものであった。」と結んで、その心情をあらわしています。
このころ、ハリスの指摘を待つまでもなく、このようなテロ行為事件が頻々と起こっていました。この尊王攘夷のテロ行為にあって斃れた外国人は、ヒュースケンで7人目と言われています。

③ 事件の対応に見るハリスの決意

この事件をきっかけに、イギリス・フランス・オランダの諸外国の領事たちは、緊急の協議会を開き「こんな危険な都市には住めない」と、横浜に避難します。
当然、当事者であり、被害者でもあるハリスもその呼びかけに応えるものと思って、イギリスの初代駐日公使オールコックは、ハリスにも歩調を合わせるよう書簡で求めます。
これに対して、ハリスは、意外にも、毅然たる文章で、拒否の返書を送ります。
このハリスからオールコックへの2月12日付の返書は、他国の対応と違い、極めて日本側よりの予想外のものでした。彼の心情が語られた部分を抜粋してみますと、

200年以上もの間、この国は外国人に対して完全に国を閉ざしていました。このかたく保たれた障壁が突然取り除かれ、国を開いて外国と交渉するようになったのです。
高位にある大部分の人が、条約によって導入された新秩序に反対の立場をとり、江戸に、その反抗の気勢が集中し、もっとも激甚となったことはよく知られていることです。その悪意の表明は原則として大名の藩士に限られ、その藩主の意見を反映するものです。一般消費物資の価格が、外国貿易を許した結果、暴騰をきたしたことも、彼らの反抗の気持ちを強めたことは疑いようのないことです。
政府はなるほど条約を締結し、その規定を遵守するかもしれませんが、世論を抑制することは、どんな政府にもできないことです。私には何だか、上記の協議会の論議は、日本政府が、西欧世界と同等の文明を代表するものであるとの仮説の上に立っているように思われます。これは重大な誤りです。日本人は文明国民ではなく、半文明の民であり、この国の諸般の状態は、ヨーロッパ(西欧世界)の中世に酷似するものがあります。
このゆえに、日本政府に文明地域におけると同一の法の尊重とすみやかな実行を要求することは、無い物ねだりで、各個人の個別の行為にまで、その政府に責任ありというのは、国際法でも認められていないものと私は思います。
・・・・・・・・中略・・・・・・・ 
私はかねてより、未来の歴史の一ページが「東方世界の一地点においてキリスト教文明が出現したが、このたびはいつもの影のようについて来る強奪と流血という従者を連れてこなかった」と記されるのを願っていました。このあまい希望も失望に終わるのではないかと思います。
私は戦争の恐怖がこの平和な国民、美しい国土を見舞うのをまのあたりに見るよりは、この国との条約という条約がことごとく廃棄され、日本が昔の孤立の状態に逆もどりするのを見る方がまだましです。

中川務・山口修訳『アメリカ彦蔵自伝1』より

この引用文は、浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)が、自叙伝に掲載しているところからの抜粋です。
ハリスは、ここで日本の現状を冷静に分析し、その苦境を認識しています。
彼は、この返書では、200年にも及ぶ鎖国から開国した日本政府ではあるがそれに異議を唱える大名がたくさんいる。まして彼らの部下はなおさらのこと。世情が混乱する中で「世論を抑制することは、どんな政府にもできないこと」と日本側(江戸幕府の窮地)の弁護をしているような筆致です。
そのうえで日本国民を「半文明の民」として、その民に対して、条約を結んだからと言って、あからさまに自国の権益や主義主張を通すべきではないと戒めています。
さらに結びの部分では、思いもよらない言葉で締めくくっています。
その言葉とは、「いつもの影のようについて来る強奪と流血という従者を連れてこなかった」という従者とは誰の事でしょう。軍隊のことか、植民地に群がる資本家の事でしょうか。
はたまた「キリスト教国の出現」を願っていることから、かつて日本に動乱を招いたとするポルトガルやスペインからやって来たイエズス会の宣教師の事でしょうか。
それにしても、ハリス独特のパフォーマンスであるにしても、彼は「日本が昔の孤立の状態に逆もどりするのを見る方がまだましです。」とまで記しています。彼が「平和な国民、美しい国土」としているのは、鎖国状態の日本のことを言っているのです。
この返書をよく読むと、ハリスは、急激な変革に伴う憂国や、主君への忠誠心において凶行に及んだローニンにも、一定の理解を示している様に思えなくもないのです。
このハリスの意外な返書に、彼が来日早々領事旗を掲揚したときの「敢えて問う―日本の真の幸福になるだろうか?」の自問の言葉を読み解くことが出来るのです。
ここに、ハリスのなみなみならぬ決意を見るのです。彼は、世界の趨勢を無視して鎖国政策をとり続ける日本の現状を憂いて、現実の世界にいざなうことを目指してやって来たのだと。
いったい、ハリスはどのような過程を経て、かくも日本に肩入れするまでになったのでしょう。
ハリスの生涯からうかがえるのは、1850年を過ぎたごろから、不可解に日本指向を急速に高めています。彼が卒然と東洋貿易に進出してから5年ぐらい経ったころのことです。
以来ハリスは、熱病にでも侵されたのではないかと思うくらいに日本一点に絞り目指していきます。ハリスにこのころ、何かが起きたのでしょう。
このハリスの急旋回には、運命の出会いともいうべき人物の遭遇があったに違いありません。
その人物こそわれらが音吉に他ならないと思うのです。いささか唐突感はぬぐえませんが、ハリスの前後の関係を調べてみるに、このような仮説が成り立つのです。

(3)ハリスの日本指向を育むニューヨーク

① 生い立ち

改めて、ハリスがそこに至るまでの生い立ちを追ってみたいと思います。
彼は、1804年、ニューヨーク州サンデーヒルの貧しい帽子職人の家庭の5男、末っ子として生まれたといわれています。
13才の時、父親に連れられてニューヨークに行き、呉服店に勤めます。その後、家族が始めた陶磁器店に加わります。
ハリスは、このような家庭の事情で正規の教育としては村の中学校までの学歴しかなく、後は図書館に通い、独学で数ヶ国の外国語や、かなり高度な教養を身に着けます。
思春期を迎えたころには、東洋のしかも日本の神秘な国の印象をつかみ、淡い憧れを抱くようになっていました。
彼は、母親や祖母からの影響を受け、向学心に燃え、宗教心を培っていきます。
坂田精一著『ハリス』によれば「母親は、ハリスに言わせると、とても知性と愛情に富んだ人で、彼のもっともよい忠告者であり激励者でもあった。いろいろの意味で、正規の学業の不足を補ってくれたのが母親であった。この母親も大の読書好きで、居間や食事部屋に本を備えることを絶えず心がけていたという。」と母親の影響が記述されています。
ここには母親の薦める本がそれぞれに置かれ、それらの本を読むたび、その評価や感想を述べあう姿が浮かんできます。
特に、ハリスは、東洋に対して興味を抱いていたようで、もし「将来、母から離れるようなことが起こったら、世界の目から取り残されている極東へ行ってみたい」と思いが記されています。このハリスが言う極東とは“日本”を想定していたのでしょう。
おそらく彼の居間の書棚には、パーカーの「モリソン号事件」を知らせるアメリカン・ボードの機関紙『ミッショナリー・ヘラルド』1838年6月号もあったことでしょう。
その『ミッショナリー・ヘラルド』について塩屋和夫氏は、日本に関する記事を『禁教国日本の報道』という一冊の書籍にまとめられています。その中を覗いてみますと、パーカーの『モリソン号航海記』に至るまでに、五つの日本関連記事があったとそれぞれ掲載されています。
特に、同誌が最初に採りあげた1825年4月号「カトリック教会の日本宣教」の長論文は、多感な青年ハリスが熟読していた証とも言えるものです。その意味で極めて重要な記事なのでここに要約を記したいと思います。

② 影響を与える『ミッショナリー・ヘラルド』

それは、ホウ氏というイギリス東インド会社付きのチャプレン(牧師)の著書『デユボア師(カトリック宣教師)の書簡の返答』という文書を引用した形で報道されたものです。それによれば、16世紀における、ローマ・カトリック教会によるイエズス会フランシスコ・ザビエルの日本布教の成功と、その挫折を記したものです。

ホウ氏は、その中で「16世紀、日本でローマ・カトリック教会が日本で布教に成功した理由を、ザビエル一人だけの功績や、インドでヒンズー教の影響を持ち込んだからだけでなく」と前置きして、彼らの成功は、第一に、商業取引や大名など上層階級とのつながりを重視したことで、布教の下地を作っていったことにあるとしています。そして、第二には「この国の既成宗教はローマ・カトリック教会の制度や形式とあまりに似ていましたので」受け入れられるのが容易であったとし、さらに彼は「従来から日本ではあらゆる宗教が容認されていました。」とも述べ、寛容な国民性により、瞬く間に伝播していったとしています。
それは、やがて、ポルトガルが莫大な富を得、しかも司教たちの高慢さ偏狭さが目立つようになるに及んで、日本政府の警戒されるところとなったと記しています。
そして、それが、「彼らが書いた二通の手紙が奪われたことで、彼らの反逆的な計画が発覚しました。」として、ついにキリスト教の追放迫害が始まったと、その原因を述べています。
すなわち、この手紙には、日本の新たな信者を手先に革命(反乱=一揆)を起こそうと呼びかけた内容のものだったとしています。
それ以後、現在に至るまで日本は、「踏み絵」を例にキリスト教禁制を続けているとしてゴロブニンの言葉で次のように引用しています。
「日本の人びとは、ゴロブニン船長に、日本によるこれほどまでに厳格なキリスト教禁止は、キリスト教が伝えられた後に起こった有害な内戦(島原の乱)だけが原因であると知らせている。」としてそれ以来、日本は「プロテスタントをカトリックの信仰と同一のものと見なし、彼らの厳禁措置が、われわれにも同様に向けられている」としています。
従って、「厳格なキリスト教禁止」は、イエズス会による布教が原因と結論付けています。
ホウ氏は、この書簡で、ゴロブニンの主張に加えて「ローマ・カトリック教会は、この島に福音を伝えることにすべての道を閉ざしたことに責任を負うべきだ。」と述べ、これは中国でも同じことが言えると結んでいます。

このホウ氏の主張は、その成否や見解はともかくとして、記事を読んだプロテスタントの人々の反応は想像に難くありません。
そこで思い当たるのが、先に紹介したヒュースケン事件で、ハリスがオールコックへ宛てた返書の中の「東方世界の一地点においてキリスト教文明が出現したが、このたびはいつもの影のようについて来る強奪と流血という従者を連れてこなかった」という記述です。
ここでハリスが言う「東方世界の一地点」、すなわち日本の布教の在り方を記した記述は、ホウ氏の『デユボア師(カトリック宣教師)の書簡の返答』の記事に強い影響を受けた証ではないかと思われます。
この記事は、青年ハリスに強いインパクトを与え、以後、このホウ氏の記事が終生、脳裏に焼き付いて離れなかったのではないかと思うのです。
後に、ハリスやウィリアムズが主張する「国交を開いてからの宣教」のこだわりは、ここに見ることが出来ます。

“潮騒令和塾”第10回配信資料より

“なお、ここに登場するゴロブニン船長とは、第3章で紹介しました『日本幽囚記』を著したゴロブニンのことで、この著書は、初版が1815年ロシアから発刊されていますが、2年後にはすでに英語、ドイツ語版、さらに3年後には、フランス語、オランダ語の翻訳版が刊行されています。
ホウ氏の記事を載せた『ミショナリー・ヘラルド』は、先に発行されたこの『日本幽囚記』の英訳版を紹介するガイド書ともなったようで、大きな反響を呼びました。
その読者の中に、ハリスに加えてモリソン号を企画したキングもいたのでしょう。それぞれの年齢は、ハリスが21歳、キングは16歳の時です。
キングは、それから12年後、モリソン号で日本にやってくることになるのです。
ハリスは、その時はまだ、ニューヨークにいて、やがてキングの企画した「モリソン号事件」を『ミショナリー・ヘラルド』1838年6月号の「パーカー氏の日本航海日誌」でを知ることになるのでしょう。

③ 転機と出会い

やがてハリスは、ニューヨーク市の教育局委員に選ばれ、1846年には、その局長に任命されます。42歳のことです。ここでの業績は、無料で教育が受けられるフリー・アカデミーの創立です。ここには、自身、修学を渇望しながら家庭の事情で受けられなかった思いが込められています。現在のニューヨーク市立大学の前身です。
そして、その翌年の11月、ハリスに大きな転機が訪れます。それは83歳の高齢であった母親の死です。彼は年の明けた1月26日、教育委員長の座を辞し、さらにその翌年には、住み慣れたニューヨークを後にし、東洋遍歴の旅に出ます。

このハリスの東洋遍歴は、当然、かねてからの極東=日本を意識したものであったことでしょう。
それが期待して訪れた地域に見出したものは「東洋と日本は違う」ということでした。すなわち、ハリスが描いた東洋には“日本的なもの”がなかったのです。
アメリカから見た日本には、インドや中国などから移入した東洋の息づいた文化がありました。
しかし、実際、東洋に赴いて日本を求めてみると、それがどこにもないことに気付いたのです。
このハリスの東洋貿易に乗り出してから、彼はどこか満たされないもどかしさを感じていたはずです。それは、ハリスが東洋貿易に5年ほど費やしたころでしょうか。
そんな頃、ハリスに決定的な、ある出会いがあったのではないかと想定出来るのです。
その根拠となるものは、ハリスがそのころ,日本に対するこだわりが一気に芽吹き、唐突に日本への指向を強めていくことにあります。
この急激なハリスの進路においての舵の切り方や、日本で見せる意志の強さとその使命感、それに挑戦するテーマの大きさを思うとき、このような想定が成り立つのです。
貿易商に身を転じたハリスの活動スペースは、まさしくわれらが音吉のそれと重なります。従って東洋のどこかで出会っていたとしても不思議なことではありません。
当時音吉は、イギリスに帰化した日本人として、かなり異彩を放ち、目立った存在であったはずです。
おそらくこの時、ハリスは、同じく東洋で活躍する知人友人から紹介されていたのではないかと。
そんなハリスも、およそ10年前、ニューヨークで聞いた(あるいは見た)音吉に心当たりがあったのでしょう。彼は、過去の記憶を蘇らせていたに違いありません。

(4)ハリス、いざ日本へ

① ハリスとパーカー

このように日本を想定してアジアに進出したハリスは、節操を欠いたふんぷんたる雑踏の社会にいささか幻滅を感じ始めたころ、音吉と遭遇したのではないかと考えられます。
音吉がハリスと出会っていたならば、彼がいつも自己紹介するときのパターン、すなわち日本から漂流し、アメリカに漂着し、助けられたのちロンドンを経由してマカオに着き、その後日本にも行ったが打ち払われて、現在デント商会にいることを述べたうえで、今、一番心配していることは、日本がイギリスをはじめとする西洋列強に侵略されようとしていることを、ハリスに話していたことでしょう。
一方、ハリスもかねがね、神秘の国日本がヨーロッパ諸国、特にイギリスの征服欲に飲み込まれてしまうのではないかと危惧を抱いていました。
音吉と遭遇したハリスは、その憂いを一層強く持ったに違いありません。彼は、音吉の誠実でけなげな姿に、それこそ長年抱いていた日本のイメージに符号するのを見たに違いありません。
この仮説に、手掛かりとまでは言い得ないかもしれませんが、カール・クロウ著・田坂長次郎訳『ハリス伝』に,、ちょっと看過できない記述があります。
それは、1856年6月、ハリスが日本に向かう途中、香港で最後の準備をしている時のことです。その第7章「日本への長旅」の中で、クロウは、ハリスが「シナでアメリカの商務長官として活躍していた宣教師兼医師のピーター・パーカーとの訪問も受けた」と前置きして、次のような文章を載せていることです。

いの一番にハリスを訪問してきたピーター・パーカー医師は、シナ沿岸在住のアメリカ人たちには、きわめて受けがわるかった。彼は小うるさい、騒動おこしの老人と思われていた。……(中略)……彼は日本に関するわずかばかりの知識を鼻にかけ、ひけらかしていたので、ハリスの今後の行動については大いに示唆に富んだ人物であった。

カール・クロウ著/田坂長次郎訳『ハリス伝』より

このクロウの記述は、パーカーの評判について「騒動おこしの老人」と辛辣なことを言っていますが、パーカーとハリスとは、ともに1804年生まれの同い年です。それはともかくとも、ここで看過できないことは、パーカーが「ハリスが日本の領事に就任」に赴くのを知って、「日本に関するわずかばかりの知識」を持って訪れた、その事実にあります。
このころのパーカーは『にっぽん音吉漂流記』(第7章)でも、「五十年配の扱いにくい大男に変貌していった。彼はついに、アメリカもイギリスの植民地政策にならって台湾を占領すべきだと具申するに至り、本国に召還」と、クロウのパーカーに対する評価と同じ論調です。
しかし、この台湾占領の建策は、実はハリスの提案のようです。坂田氏の『ハリス』(P16)によれば、ハリスは「1854年3月にマカオから、台湾の事情を詳しく調査した『台湾事情申言書』なるものを国務長官宛に送って、台湾の買収を建策したが、これは政府の受け入れられるところとはならなかった。」とあり、パーカーとハリスは、すでに台湾政策で意見を共有し、昵懇であったことをを覗わせています。
そして思い起こすのは、モリソン号事件で三氏、すなわち、ウィリアムズ、キング、パーカー氏がそれぞれ航海記を著わしていますが、岡本良知氏はパーカー氏のそれが人情風情を伝える点ではるかに秀でていると評価されていることです、
すなわち、このパーカーの『モリソン号航海記』で伝える人情風情と、ハリスがオールコックへ送った返書の「平和な国民、美しい国土」の記述には、明らかな共通点があり、二人が肝胆相照し気脈を通じたものを感じとる事が出来ます、
そのハリスがパーカーを知ったのは、この『ミショナリー・ヘラルド』のパーカーによる記事からでしょう。
また、ハリスは、そのパーカーの存在を知った頃、彼の耳目には、キングの『モリソン号航海記』や、乗船した日本人、すなわち音吉のアメリカ入国の情報が立て続けに入ってもいたはずです。
それに加えて、パーカー本人も1840年から2年にかけて、アヘン戦争を避けて一時帰米しています。この時、パーカーは、ニューイングランドの各地で講演活動もしています。
パーカーは講演で、モリソン号で日本に行った時、交渉が首尾よく行った場合、自分が英語伝授のため日本に残るはずであったと、キングから依頼されていたことを話していたに違いありません。さらに医学の効用についても日本では目覚ましい貢献ができるはずであると、自分を指名したその理由を話していたことも十分考えられます。
これは、後に、ハリスとウィリアムズが口をそろえて、日本のキリスト教伝道の条件に、語学の重要性を説き、医師が望ましいことを挙げていますが、これに合致するものです。
一方のパーカーが、ハリスを知ったのはいつ頃かについてです。
パーカーは、名門エール大学の神学と医学の両方を修め、憧れのアジアの宣教師に選ばれた経歴を持っています。中学卒の資格しかないハリスにとって、パーカーは眩しいくらいの存在であったはずです。
ハリスは、東洋貿易に乗り出してから、当時中国でアメリカの公使を務めるパーカーを表敬訪問したのでしょうか。ハリスは、「以前からあなたのことは知っていて一度お会いして、日本のことなどじっくりとお話を伺いたかった。」と自己紹介でもしたものでしょうか。
いずれにしても、パーカーは、カール・クロウ著の『ハリス伝』の記事のごとく「ハリスの今後の行動については大いに示唆に富んだ人物」であったと言う訳です。これは、ハリスが音吉との関係を補強する状況証拠と言えるもので、貴重な証言ということが出来ます。

② 日本上陸

ハリスは、それより以前の1853年5月4日、上海に停泊しているペリーに面会を求め日本遠征に参加の希望を伝えています。それをペリーから「民間人は乗せない」という理由で断られています。(前掲『ハリス伝』第3章より)
この5月4日といえば、ペリーが上海に到着した日で、しかも、連れていくはずの日本人漂流民がいないことに激怒した日でもあります。
ペリーの到着を待ち構えていたようなハリスにとって、如何にもタイミングが悪かったようです。それでもハリスは、ペリーの日本遠征を注意深く見守ります。
ハリスは、そのペリーが日本と結んだ『日米和親条約』第11条に目が留まります。彼にとっては時節到来です。
それは「この条約の調印の日から18ヶ月の後に、合衆国政府は下田に居住する領事または代理官を任命することができる」と定めた条項です。
ハリスは、すでに寧波の領事に任命されていたにもかかわらず、そちらには見向きもせず、さっそく本国政府に自分がその領事に指名されるよう直接訴えるために、アメリカ本土に帰り、活発なロビー活動を展開します。
その活動が実り、晴れてアメリカ駐日総領事として任務が、1856年6月30日、正式に発令されます。ハリス、52歳の時です。
香港で準備を終えたハリス一行は、8月12日、サン・ジャシントン号で、いよいよ日本に向けて出港します。かれが最初に、日本の領土である島を認めたその日の日記には、「万感交々」と前置きして、次のように記しています。

ほとんど世界に未知の住民が、今から調査の俎上に上り、社会、道徳、政治の状態が報告されるのだ。・・・・・新しい困難な言語も、習得の必要がある。シナ、朝鮮に光明を投げかけるこの国の歴史も、検討してみなければならぬ。最後に日本のもろもろの宗教的信条も、一瞥してみよう。・・・・

前掲『ハリス伝』より

このなかの、特に「日本のもろもろの宗教的信条も、一瞥してみよう。」のくだりで、宗教においては択一の西洋人ハリスが敢えて他宗教も調べてみようとしているところが注目されます。
これは、音吉がかつて『ロンドン・ニュース』の通信員の質問に答えて言った神道・仏教・儒教が共存する“三教鼎立説”のことを連想させるものがあるからです。
そして、さらに翌日のハリスの日記は「わたしは日本に駐在のため、文明国から送られた最初の公認領事となるだろう。これは自分の生活に一時代を画するとともに、日本にとっても、新体制の夜明けとなろう。日本とその将来の運命が記される歴史のうえに、願わくは、栄光の名を残すよう、我が身を処したいものである。」と記し、いよいよ日本に第一歩を印すにあたって、改めて自分に課した使命を反芻するのです。
そして、この記述は、9月4日(旧暦8月5日)の玉泉寺に領事館を設置し、星条旗を揚げた時の、あの「あえて問う、日本人の真の幸福となるだろうか。」の自問へと続くのです。
日本は、このままの鎖国政策が世界で通用するわけがないのです。その日本は、今まさに西洋の食指が伸びていることに気付いていないのです。
もちろん、アメリカの領土が西海岸に到達し、日本と向き合うことになり、太平洋での権益や将来性の認識があることは言うまでもないことです。
そのためにハリスが最もこだわったのは、西洋各国に先駆けて、アメリカ主導による修好通商条約の締結です。
ハリスの主張には、ヨーロッパ諸国が未開地の文明化を口実に植民地政策を採るのとは一線を画し、「栄光の名を残すよう、我が身を処したいものである」という言葉で表しています。この決意を胸に抱いたハリスは、結果的に幕府の強力なコンサルタントとしてあり続けました。

(5)「日米修好通商条約」の締結と離日

① 外交官、オールコックとハリス

1858年7月29日(安政5年6月19日)、神奈川沖のポーハタン号上において『日米修好通商条約』の締結をみました。
結果的に、この条約はその後、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと次々に結ばれる手本ともなりました。これがいわゆる『安政の五ヶ国条約』と呼ばれていることは周知のとおりです。アメリカが最初の条約国になる、というハリスのこだわりは、ここに実現することとなりました。
ところが、この『日米修好通商条約』は、その後、不平等条約の汚名を着せられています。
その原因とされるのが、通貨比率・領事裁判権・関税自主権において不平等であるとして挙げられていることです。
この評価は、およそ恣意的でありかつ後付的なもの、すなわち後の世の政権運営の具となった要素が多分に含まれていて公正ではないと言わざるを得ません。
そもそも、根本的に違う国と国が条約を結ぶ場合、当然軋轢を生ずることは避けられないことです。特に通貨比率の問題などは、貨幣である金と銀との交換比率が異なる訳で、金貨か銀貨の両方が通貨として認められる以上、日米双方平等に取り持つなどあり得ないことなのです。結果的にそれをうまく利用した商人がどちらに多くいたか、の違いでしょう。実際日本でも少数派ではありますが生糸商人などはぼろ儲けしているわけですから。
また領事裁判権においても、水と油のごとく違う価値観や道徳を持つ国が裁き切れないのは当たり前のことと思います。
そのことを考えれば、この条約は、その軋轢を最小限に止めたことで評価できると思います
また、関税自主権においては、明確な濡れ衣、事実の歪曲といわねばなりません。
ハリスは、交易には関税をかけることの意義を縷々説明し、交易品に関税の賦課を提案しています。
それを反映して、条約の第4条第1項では「総べて国地に輸入輸出の品々、別冊の通り、日本役所へ、運上(税金)収べし」と、関税の自主権を明記しています。そして、別冊では、その運上は原則20%ともしています。
日本がその関税自主権を失ったのは、長州が起こした「下関砲撃事件」の代償で、これこそ明治新政府が旧幕府に責任を擦り付けたプロパガンダなのです。
1863年、下関海峡を通過した西洋の商船が相次いで砲撃されたことに対して、翌年、米・仏・蘭・英の連合軍が長州に報復し、さらに、幕府に多額の賠償金と関税の自主権の撤廃を要求したのです。この時、連合国を代表して幕府と交渉に当たったのがイギリス公使オールコックでした。彼は、まんまと幕府の弱みに付け込み、関税の自主権を奪い、一律5%を飲ませてしまったのです。
オールコックは、多くの文献で親日家の論調で語られていますが、所詮、いわば転勤族なわけで、本国に忖度が働いたのでしょう。
彼はハリスのような、強烈な使命感に燃えて日本にやって来たわけではないのです。結局彼は、イギリスがアジアで見せるような自国利益優先の外交官だったのです。
前章で紹介した岩吉(ダン・ケッチ)に対する冷めた見方も、このようなところから来ているのでしょう。もし、岩吉の上司がハリスであったならば「研鑽を積んで時を待て」と、自重するように戒めていたであろう、その情景が浮かんでくるのです。
この一件で、各国と結んだ『修好通商条約』の条項の一角は崩れることになりますが、そのためにかえって、ハリスが西洋諸国の防波堤となって、日本を導いたことがよく分かります。
彼が、その防波堤となった顕著な条項について、さらに見ていきたいと思います。

② アヘンに関する条項

この『日米修好通商条約』の中で特に注目する条項は、同じく第4条「輸出入品目の規定」の中に明記された第3項目、アヘンの取り扱いについての規定です。
それによれば「アヘンは輸入厳禁たり。もし亜米利加商船3斤以上持渡らば、その過量の品は、日本役人是を取上ぐべし」というものです。
このアヘンに関する条項が明記されたことは、当時の中国の事情を見てみれば、画期的なことと言わねばなりません。
1842年、アヘン戦争はイギリスの勝利に終わりました。この時、ギュツラフがイギリス側の通訳として活躍したことや、ハリー・パークスが14歳で外交にデビューしたことはすでに記したことです。また、この時に多額の賠償や、香港島の租借が取り決められたことも。
ここで重要なのは、アヘンがもとで戦争になったのに、この条約にはアヘンに関する取り決めがなかったことです。取り決めがないということは、それが禁制品でないという解釈も成り立つわけです。従って、イギリスの主な商社は、それ以来、公然とアヘンを中国に持ち込むようになります。
その上最近になって再びイギリスは、清国に対して、さらに権益を求めて、アロー戦争を仕掛けます。
1856年、広州にイギリス国旗を掲げて停泊していた小帆船アロー号が中国官憲から侮辱を受けたということから戦端が開かれた、いわゆる第二次アヘン戦争です。
フランスと組んだイギリスは、1858年6月28日、勝利宣言ともいうべき講和条約「天津条約」を結びます。
その中で、アヘンはなんとここで合法化され、取り扱い上の名称が「阿片」から「洋薬」と改称されて、堂々と貿易品目に加えられるに至ります。これは『日米修好通商条約』が結ばれる1ヶ月前のことです。
この「阿片=洋薬」を扱うイギリスを中心とする商社は、莫大な利益を中国から獲得していきます。それらの商社の悩みは、それから得た収益金の本国への送金にあったといいます。
1865年3月に設立された香港上海銀行の最大の業務は、「アヘン貿易で儲けた資金を安全かつ迅速にイギリス本国に送金することであった。」と、譚璐美著の『阿片の中国史』(P88)の語るところです。
『日米修好通商条約』に、ハリスの肝いりで「アヘンは輸入厳禁たり」の条項が織り込まれたのは、その当時の中国の状況を見た時、特筆すべきことです。
日本は、その後立て続けに、オランダ・ロシア・イギリス・フランスと、アメリカにならった、すなわち「アヘンは輸入厳禁たり。」の条項を織り込んだ『修好通商条約』を結んでいきます。ハリスは、ここに、西洋の節操を欠いたアヘンの日本への流入を水際で食い止め、その害毒から守ることとなったのです。

③ 信仰の自由の取り決め

続いて注目されるのが第8条の信仰についての取り決めです。
ハリスは、この条項を日本側が意外とすんなり認めたことを次のように述べています。

この第8条は、それが通るという目当てはほとんど持たずに、私が挿入しておいたものだった。それは、アメリカ人が適当な礼拝堂を立てる権利と、アメリカ人がその宗教を自由に行使し得ること、ならびに、日本人が踏み絵の風習を廃止することを規定するものだった。わたしが驚き、そして喜んだのには、この箇条がそのまま承認されたのである!

坂田精一著『ハリス』より

と、ハリスは予想外の日本側の反応に、感嘆符まで打って喜びを表しています。この条約は、決して日本にキリスト教が解禁されたわけではありませんが、そうかといって宣教師の来日を阻害するものではないのです。
この8条には、ハリスは日本側が相当抵抗を示すものと踏んでいました。それと言うのも、日本はキリスト教に関して、条件反射的にアレルギーを持っていたとの認識からです。
そこでハリスは、それぞれの宗教を尊重し、互いに不可侵の取り決めを提案したのです。それがいとも簡単に受け入れられたことは、ハリスにとって意外だったようです。そしてハリスが喜んだのにはもう一つの理由があります。
それは、中国にあって宣教や出版活動を続けるS・W・ウィリアムズの待望久しい日本での活動の開始を告げるメッセージでもあることです。
ウィリアムズが日本に宣教の情熱を傾けるのは、当然「モリソン号事件」に由来することは前から述べていることです。
すでに何回も紹介していますが、「彼が言う布教のタイミング」をクリアするためには、ハリスのこの8条、宗教に関する条項を日本側に認めさせることがまず前提条件だったのです。
このことについては、もとよりハリスも同感で、彼がある日突然、本業を放り出してまで、性急に自分を駐日初代領事に任命するようロビー活動を行った理由は、ここに見る事が出来るのです。
この『日米修好通商条約』の締結をもって、ウィリアムズの課した「国交が開かれたのち領事館を設置し、友好関係を結び」の条件が満たされることとなったのです
ハリスとウィリアムズは、条約締結をもって、アメリカン・ボードを始めとするプロテスタントの教会に日本への宣教活動の下地を作るようを促しています。そしてその条件として、できれば語学に造詣が深く医師であることがふさわしいと。
アメリカの各教会も早速反応し、宣教師の人選を進めます。この時に選ばれた宣教師は、アメリカ長老派教会からジェームス・カーチス・ヘッブバーンことヘボン(1815-1911年)、オランダ改革派教会からサミュエル・ロビンス・ブラウン(1810-1880年)、ドーネ・シモンズ(1834-1889年)、それにグイド・H・F・フルベッキが、パプテスト派教会からはジョナサン・ゴーブル(1827-1898年)が選ばれています。
 このうちヘボンとシモンズは医師であり、ブラウンは以前モリソン記念学校の校長を勤めた経歴を持っています。 
またフルベッキは、故国オランダでギュツラフの講演を聴き、宣教師を目指してアメリカに渡った人物です。
そして、ゴーブルは前科の経歴を持つ異色の人物で、刑務所で回心して信教生活に入り、後にペリー艦隊に水兵として加わり、沖縄で一人宣教活動をしていたベッテルハイムに感化され、日本での宣教を目指していて、この度念願が叶ったものです。この時、ゴーブルは、あの上海でサスケハナ号に一人だけ留まった永力丸漂流民仙太郎ことサム・パッチを伴っていました。
彼らは、1859年10月から翌年の4月にかけて来日を果たしています。アメリカの宣教会の反応は『日米修好通商条約』の締結が58年7月29日ですから、極めて早いもので、いかに日本の開国を待ちわびていたかが窺われます。
彼らは来日以来、常に攘夷の危険の中、キリスト教の布教はしばらく封印しつつも、その下準備とも言うべき教育や医療の分野で献身的に取り組んでいきます。

④ 遣米使節団の派遣

ハリスの日本での功績の中で見逃してはならないのが、この『日米修好通商条約』の批准書の交換をワシントンで行うことを決めたことです。
それは、『日米修好通商条約』の終わりに、条項第14条を設けて、日本政府に確実な履行と後戻りが出来ないよう歯止めをかけたことです。

右条約の趣は、来る未年6月5日(即ち1859年7月4日)より執り行ふべし。この日限、或いは其以前にても、都合次第に、日本政府より使節を以て亜墨利加華盛頓府(アメリカワシントン)に於て、本書を取替すべし。若し余儀なき仔細ありて、この期限中本書取替し済まずとも、条約の趣は、この期限より執り行ふべし。

『日米修好通商条約』第14条項

このように条約の執行日を優先しつつも、ワシントンで条約の批准書の交換を義務付けたのです。
このために江戸幕府は、アメリカに使節団を送ることになります。
紆余曲折の後、選ばれたのは正使に新見豊前守正興、副使に村垣淡路守範正、監察に小栗豊後守忠順の三役はじめ、総勢77人の大使節団です。
その外にこの時、使節団の護衛の名目で、提督に軍艦奉行の木村摂津守喜毅、艦長に勝麟太郎の乗り込む咸臨丸のサンフランシスコ同行も決まります。
日本の使節団は、首都ワシントンを始め、ニューヨークやフィラデルフィアなど、どこへ行っても大歓迎で迎えられ、用意周到なる接待を受けます。
例えば、日本使節団を迎えるため、パナマの大西洋側のアスピンウォール港に、10ヶ月も前からロアノーク号(3400トン)を待機させています。このロアノーク号は、ポーハタン号(2415トン)を大きさで凌ぐばかりでなく、推進にスクリューを用いたアメリカの誇る最新鋭艦(1855年就航)でした。
また、使節団一行にアメリカの先端技術や教育現場を見せるため、行く先々で見学会が催されてもいます。一説によれば、「アメリカがこの使節団一行に費やした金額の合計は、20万ドルにも及ぶ」ともいわれています。実際、渡航費や滞在費、それに咸臨丸のサンフランシスコにおける修理費も含め、一切合切をアメリカ側が負担したことを考えれば、決して粉飾した金額ではないようです。
後に徳富蘇峰は自著において、このアメリカの接待ぶりに「まことに間然するところがなかった」と感想を述べています。冷静沈着な筆致の蘇峰が、水も漏らさぬ歓迎ぶりに驚いているのです。
この遣米使節団がこのようなもてなしを受けた背景には、ハリスの強いメッセージが込められているようです。
このハリスの意図は、日本の文明化には宣教師や教育者の派遣もさることながら、日本の優秀な若者に文明国アメリカを見せるのが手っ取り早いと考えたのでしょう。ハリスは、遅々として進まない日米交渉をしているうち、そのような思いを抱くに至ったのでしょう。そこで提案されたのがワシントンでの批准書の交換です。
アメリカでの使節団への接待や歓待ぶりには、ハリスの思いが詰まっているようです。おそらくこのような意図で、ハリスはワシントンの本国政府と打ち合わせていたのでしょう。
1860年5月23日、使節団代表の三使は、アメリカ大統領ブキャナンとワシントンホワイトハウスで条約書の交換を無事終えます。
その3日後の5月26日付『フランク・レスリーイラストレイテッド』に、次のような記事が紹介されています。

有史以来初めて最も排他的、神秘的な国民が、最も自由にして、且つ最も開放的なる国民を訪問する。斯く両極端の国民が相ひ会同するは、振古(しんこ)未だかってあらざる所だ。
此の際英仏両国が、対支那交渉に於て示したる事実と対照すれば、殊更較著(こうちょ)なるものがある。上品にして、教養のある日本人は、鳥の巣や、狗肉を喰う堕落したる支那人とは同様でない。温和にして威厳ある北米合衆国の外交は、横暴にして傲慢(ごうまん)なる欧州諸国の外交とは同一ではない。日本人が欧州人に対するよりも、米国人と相得るもの、もとより偶然ではない。

徳富蘇峰著『近世日本国民史 遣米使節と露英対決編』第6章「米国における遣米使節」より

この記事で気づくことは、ハリスがかつて抱いた日本とアジアでの印象に酷似していることです。
ここで『フランク・レスリーイラストレイテッド』は、日本と支那とは同じ東洋であっても本質は同じではなく、アメリカも英仏とは一線を画している。そのアメリカと日本が「最初に国交を開いたのはあながち偶然ではない」としています。そして同誌は続けて、「日本における米国の成功は、エルギン卿(英国の使節)が江戸政府に入るに際し、わが総領事タウンセント・ハリスの紹介に俟ったことを見ても明らかに証拠立てられる」としています。
ここには、いち早く日本総領事のハリスが日本との国交を結んだことの意義と功績を称えています。この『フランク・レスリーイラストレイテッド』の記事から窺がい知るのは、いかにハリスが本国政府と綿密に根回しし、彼の方針が賛同を得たうえで各方面に行き渡っていたことが分かります。

右の写真は、使節団一行の加藤素毛がその時持ち帰ったとされる星条旗。星の配置が放射線状にあり大変珍しいものです。(岐阜県下呂市加藤梳素毛記念館「霊芝庵」所蔵) 左側は、メトロポリタンホテル前の歓迎パレードの風景で、素毛は「端午かと 思うや町の  旗じるし」と読みました。
“潮騒令和塾”第10回配信資料より

そして、役目を終えた使節団一行は6月30日、当時アメリカ最大の軍
艦ナイアガラ号(4580トン)で、ニューヨークから帰国の途に就きます。そのコースは、アメリカ側の配慮により、東に進路をとる地球1周のコースで、11月9日(万延元年9月27日)品川に帰ってきました。
この咸臨丸を含めた一連の遣米使節団の中で、ハリスが思い描いた構想に応えた人物が幾人かいます。彼らは新しい時代を実感し羽ばたいていきます。この中で、特に教育の近代化に目覚めたのが、次なる二人です。それは、咸臨丸で参加した福沢諭吉(1834-1901年)と、遣米使節団に加わった佐野鼎(1829-1877年)です。
この二人はアメリカから帰国後、席の温まる暇もなく、その約1年後の1861年12月8日、遣欧使節団(正使竹内下野守保徳、副使松平石見守康直,目付京極能登守高朗)の一員としてヨーロッパに派遣されます。
この時、福沢諭吉は通訳として、佐野鼎は遣米の時と同じく益頭駿次郎付きの従者ではありますが、賄方として身分を落としてまでの参加です。
この二人にとって、一連の海外渡航は、その後の進路に大きな影響を与えました。
西洋の科学技術の進歩を見た時、はたまた西洋人の海外進出の実態を見た時、日本の行く末を案じたことは当然なことでした。
この渡欧の途中、シンガポールでは音吉(当時44歳)の訪問を受けています。さらにパリ到着の時には、日本びいきの青年レオン・ド・ロニー(当時25才)の出迎えを受けます。これはそれぞれすでに記したところです。
諭吉や鼎が渡航先で、このような予期せぬ訪問を受けたことは、その後の二人の進路に計り知れぬ暗示を与えたともいえます。
福沢諭吉が慶應義塾の創始者であり、伝記物や多くの著述で広く知られるところですが、佐野鼎の場合、有数の進学校である開成高校の創始者ということはあまり知られていないようです。
もともと砲術家(下曽根金三郎門下生)の佐野鼎は、その洋式兵法の習得が主な目的であったはずです。
しかし、二回の海外渡航の体験は強烈で、教育者として目覚めていきます。佐野鼎は、1871年(明治4年)、東京神田淡路町に共立(きょうりゅう)学校を創立し、翌年開校します。これが開成高校の前身です。(柳原三佳著『開成をつくった男、佐野鼎』参照)

⑤ 富士に見合うハリスの功績

そのハリスも、1861年、アメリカ大統領にリンカーンが指名されると辞意を表明します。彼は、根っからの民主党党員で、共和党から選ばれた大統領に辞任許可の親書を送ります。
ハリスが1856年7月、強引に下田に押し入って以来、5年9ヶ月の歳月が経っていました。
就任当初、江戸幕府を手こずらせたハリスでしたが、離任帰国するときには、様相が一変していて、幕府は当時のリンカーン大統領に対して離任延期の嘆願書まで出したと言われています。
当時の老中安藤対馬守信正は、ハリスの離任帰国に当たって次のような賛辞を述べ、別れを惜しんでいます。
「貴下の偉大な功績に対しては、何をもって報いるべきか? これに足るものは、ただ富士あるのみ」(『開国史蹟玉泉寺』村上文樹著)
信正の胸中には、この幾多の難関を乗り越えて『日米修好通商条約』の成立を見、信頼関係を築き上げたことに万感迫るものがあったのでしょう。彼は、ハリスへの感謝の気持ちに、日本を象徴する富士山に例えました。
この二人が歴史の表舞台から姿を消すのは、共に1862年の春、何か因縁めいているようでもあります。

日本はその後、諸外国から侵略を受けることなく、自らの手で大政奉還を果たし、封建制度から近代化を成し遂げます。その原動力は「尊王攘夷」の旗印の下に集った勤王の志士と呼ばれる人たちでした。
しかし、この維新回天を果たした彼らが実際目にしたのは、思いとは裏腹な「尊王開国」でした。彼らにとってみれば「話が違うではないか」なのです。所詮“攘夷”が無理なことは明々白々でした。
そこで新政府の採った政策が復古神道の奨励でした。
この時点で新政府は、攘夷の対象を“外来の宗教”として仏教にすり替えたのです。
新政府は、神仏分離の政令を矢継ぎ早に発し、仏教を弾圧していきます。
その結果、各地で廃仏毀釈運動のあらしが吹き荒れていきます。
このことは、日本の歴史に消し難い禍根を残すことになります。
新政府が打ち出した神仏分離令は、今まで互いに補完し民心に定着していた、言わば三教鼎立の足を一本取り払うようなもので、社会を不安定化させる以外なにものでもありませんでした。
もし、明治政府が、爪の垢ほどでもハリスの腐心や功績――「平和な国民、美しい国土」を守る——―を理解するものであったならば、このような蛮行は行われなかったことでしょう。
巻頭に挙げた「四つ割の南無阿弥陀仏碑」は、この禍根の歴史を刻み、それ故に重きを増して屹立しているのです。

(6) ニューイングランドに育む日本ブーム

遣米使節団が訪れたニューイングランドの歓迎ぶりは、いくらハリスの根回しとはいえ、驚嘆に値します。
以前には、神の教えに逆らい頑なに国を閉じ、遭難した捕鯨船の乗組員が囚人扱いされたと激しく非難した、その国からの使節団がかくも歓迎接待を受けるとは、いささか信じがたい光景でした。
やはりそこには、冒頭、記したように、キング、パーカー、それにウィリアムズによる『モリソン号航海記』から、親日ムードが醸成されていたとみるべきでしょう。
先に紹介しました『フランク・レスリーイラストレイテッド』の記事にある「神秘的な国民」とか「教養のある日本人は」の表現は、それを物語っているようです。
ニューイングランドには、ハリスほど明確ではありませんが、確かに「モリソン号事件」に影響を受けた人物が大勢いるようです。その中で、この章の冒頭にも紹介しました、ハワイの宣教師サミュエル・Ⅽ・デーモン(1814-1885)と、若き新島襄の後ろ盾となった大富豪アルファース・ハーディー(1815-1887年)の二人を挙げることができるのではないかと思います。

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