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第8章 ペリーの日本遠征に音吉の影

(1)タイムアップ間近の開国20年タイマー

① ペリー艦隊と渡り合う音吉

1853年5月17日、上海は、いつになく晴れ渡っていました。その快晴のもと上海港から、一隻の蒸気船の出航を、固唾を呑んで見送る日本人の一団がありました。
その蒸気船とは、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・カルブレイス・ペリー(1794-1858年)の座乗する旗艦サスケハナ号(2,450総トン)です。彼は、アメリカ大統領の国書を携え『日米和親条約』締結の任務が全権委任の形で託されています。アメリカが国の威信にかけて日本へ送り出した最後の切札ともいうべき人物です。
そして、その旗艦サスケハナ号を見送る一団とは、その艦隊の支配下にあった永力丸漂流民の12人です。彼らは、そのサスケハナ号で日本に送り返されるためサンフランシスコから連れて来られた面々です。彼らは、軍艦で日本に帰されることに不安を感じていました。そんな彼らに手を差し伸べたのが、上海ですでに基盤を築いていた音吉です。
音吉は、悲愴な経験から、軍艦で漂流民を送り返すことの危険を察知し、彼らを自らのもとに保護します。
この経緯については、第7章で紹介した永力丸漂流民利七による前出の『長瀬村人漂流談』の記述によって知ることが出来ます。利七によれば、我らの代弁者として、音吉がサスケハナ号艦長で参謀でもあるブキャナンに掛け合った時の様子を次のように語っています。

彼(音吉)はアメリカ軍艦で帰国しても、日本の国法で漂流民は受け入れられないことを「種々陳説し、或いはすかし、或いは慰めければ」、ようやく艦長も納得し、ついに仙太郎というものひとりだけを残して、他の12人の退艦を許した。一同は仙太郎を不憫と思ったものの、「籠鳥の穂ぬけしたる心地」で、サスケハナ号を離れ音吉の許に身を寄せることとなった。

『日本庶民生活史料集成第5巻「長瀬村人漂流談」』より

音吉が上海で彼らを、ペリー艦隊のもとから保護したのは4月8日のことです。
ペリーが鋭意、ミシシッピ―号で香港に到着するのが4月7日、そして意中の人S・W・ウィリアムズに主席通訳の就任を取り付け、上海に到着するのは1ヶ月後の5月4日、結構きわどいタイミングでした。
ペリーは、日本人漂流民のいないことを知り激怒します。
実は、彼が香港に到着したときも、旗艦となるサスケハナ号が指揮官である自分の指示もなく、勝手に上海へ移動されたことに憤激していました。
彼は、度重なる規律違反に、直ちに連れ戻すよう厳命します。ペリーにとって、日本人漂流民の送還は、日本攻略の一つの手段であったのです。
この時音吉は、ペリー艦隊の交渉に立った参謀ブキャナンに「十数人もの人間を縛り付けて置けるはずもなく」と言って、永力丸一行の返還など不可能なことと告げます。これに対して、ブキャナンは、それならば音吉を「代わりに連れていく」と凄みます。音吉は平然と「イギリス国旗の下にある自分がそのようなこと出来るはずもない」と、この時ばかりはイギリスの国旗の威厳を持ち出して突き返しています。
結局ペリーは、大事の前の小事と悟ったのか、決意を新たに、日本に向けて出港していきます。
ペリーの出港の当日、音吉は「一同を分散させ、一日中隠れているように手配し、自分たち夫婦も、アメリカ艦からの使者を適当にあしらったうえで外出してしまった。朝から酒楼や娼家に分散して身をひそめていた永力丸一行は、ただただアメリカ艦隊の蒸気の煙ばかり眺めていた。」(春名徹著『にっぽん音吉漂流記』より)
ただこの時、利七の証言もあるように何故か、一人仙太郎(仙八とも呼ばれ、後のサム・パッチ)がサスケハンナ号に留まり、ペリー艦隊に同行していたことは記しておかねばなりません。

この事件は、ペリーが意気揚々と乗り込んだ上海で、音吉により出鼻をくじかれた形となり、対日戦略で行動計画の変更を余儀なくされることとなりました。
またこれは、音吉がペリーに直接影響を与えた顕著な例ですが、よくよく調べてみると彼は、この他にもいろんな面でペリーに影響を与えていることが分かります。
最も、音吉個人がかかわったのは、この永力丸漂流民をペリー艦隊から切り離したことぐらいで、あとは岩吉・久吉を含めた三吉とのかかわりのことです。
例えば、第4・5章「開国プロローグ」で述べたことですが、日米交渉において双方の通事通訳、森山栄之助とS・W・ウィリアムズはともに三吉の存在なくして語れない人物です。
さらに、そのペリーのいわゆる「黒船来航」を調べていくと、これらのことよりも、もっと根本的なところで音吉たちは、ペリーに影響を与えていることが見えてきます。
「開国プロローグ」では、1834年、マクラフリンによって、日本開国20年タイマーがオンされたとも述べました。ペリーの上海出航は、いよいよそのタイマーが最終局面を迎えたようです。
音吉を追う目で,ペリーの日本遠征の謎を掘り下げていくと、意外にも全く新しい歴史観がそこにあるようです。

② アメリカ大統領国書

それは、14年前に、日本へ通商を求めて企画し、やって来たキングが著した『モリソン号航海記』に見ることが出来ます。
ペリーが日本遠征でとった戦略は、随所にこの『モリソン号航海記』の反省や提言を採り入れていることから窺えます。言ってみればペリーは、その書物を教科書か、もっと言えばバイブルのようにして扱っているような感さえします。
「キングがペリーに与えた影響」に入る前に、実際、アメリカ大統領からペリーに与えられた課題はどのようなものであったか、それを把握しておく必要があります。そこで、まず、ペリーが授かったアメリカ大統領フィルモアの国書を見てみたいと思います。
ペリーが携えたその国書とは、国土を太平洋側にまで広げたアメリカが、海を隔てて隣国となった日本に、西洋諸国に先駆けて友好関係を結びたいとするものです。フィルモアは、西洋諸国とアメリカの違いなど列挙したうえで自らの所見を記しています。

  1. 日本との友好関係を築き、相互の交易を図りたいこと。

  2. アメリカの法律は、他の国に対して内政不干渉を定めていること。

  3. アメリカの国土は太平洋にまで達し、蒸気船ならば18日で到着できること。

  4. 日米両国はともに裕福で、技巧に長けていて、互いの交流は双方にとって望ましいこと。

  5. 日本の祖法「鎖国」が出来た頃とは時代が変わり、法も変えることは賢明なこと。

  6. 悪天候などによる捕鯨船の遭難者に、親切な待遇とその保護を願いたいこと。

  7. 我が蒸気船は、大量に石炭を消費し、よって日本の南部に補給基地となる港を開いて頂きたいこと。

以上、両国の友好、交易、燃料、必需品の供給、それに遭難者の保護のみが江戸に向けて、強力な艦隊と共にペリー提督を派遣するものである。
ペリー提督には、貴国に贈呈するいくつかの品を言い付けています。それ自体大したものではないがアメリカの産物を伝え、われわれの敬意を込めた友情のしるしとするものです。
「神のご加護を!」
1852年11月13日、アメリカ合衆国国璽をもって大統領として署名し、ここに以上の親書を発する。
貴公の善き友、ミラード、フィルモア
       エドワード、エベレット国務長官

フィルモア大統領は、ペリーにこのような友好条約の締結の国書を託しました。
その上で、ペリーは、アメリカの威信と期待をにない、日本へやって来たのです。
従って、頑なに鎖国を堅持する日本に対して、ペリーの最初で最大の課題は「大統領国書を如何に平和裏に日本側に受領させるか」でした。
ゆめゆめモリソン号が被ったような出合い頭の衝突は、絶対に避けなければなりません。ペリーが最も苦心したところです。
そのあたりを見ていくと、彼が日本でとった言動は、まさにキングの導きたる提言に沿ってたものとなっていることがよく分かります。

③ キングの提言と符合するペリーの行動

例を挙げるならば、ペリーは日本へ来る前、沖縄に帰港しています。
このペリーの行動は、キングの提言が起因しているものと思われます。
キングは、提言の中で、沖縄の重要性を説いています。このキングの沖縄の戦略価値を説いた提言を読むと、彼の平和主義・人道主義としての人柄を色濃く表した深遠な提言であることが分かります。
キングは、日本開国を迫る上で「然し飽くまで(日本が交渉を)拒絶する場合は、名誉ある後退をする外あるまい」として「武力衝突の恐れがあるのなら一旦は引け」と諫めています。
それでも、彼は「我々にとってさらに二つの強圧的手段が残されている」とし、単なる撤退ではないと次のように述べています。
キングは、まず、第一に江戸湾の封鎖を挙げています。
ここで彼は、江戸湾の封鎖を提案しているものの「自分にとって耐えがたい難点がある」としています。彼は「アメリカ国民としては日本の首都の罪のない友好的な百万の市民に少しでも苦痛を与えることを喜ばない以上、第一の方法よりも難点の少ない手段を選ばなければならない。」と述べ、と第二の手段を提案しています。
彼は、第二の手段として、沖縄の琉球政府と友好関係を結び、薩摩藩と琉球との関係を断つことを挙げています。
彼は、アメリカが琉球政府と友好関係を結ぶことにより、日本政府を孤立化させ疲弊させるのに効果的としています。その戦略は、すぐには期待できないが、強硬手段によるそれよりも摩擦や軋轢を生まず有効であると指摘しています。
ペリーは、キングの第二の提案を「もっともなこと」と賛同し、採用したのでしょう。そのために彼は、はやる心を押し殺しつつも日本遠征の前に、沖縄に帰港し、挨拶を交わしています。そしてさらに、ペリーは、沖縄寄港中に小笠原にも回航しています。
ペリーに日本遠征での最初の課題は、キングの提言に沿った「もしものこと」すなわち日米交渉が不調に終わった場合を想定して、担保を取った行動ということが出来ると思います。
また、この他にも、ペリーは、日本との交渉にあたって通商の優先順位の問題、言語の障壁の対策、贈呈品の持参、漂流民を介在させていること等々は、キングが企画したモリソン号と相通じています。
中で最も象徴的なのが、日本へ着くなり白旗と、その使用法を記した書簡を送り付けたことです。これなどは後程じっくり検証したいと思っています。
キングとペリーで際立った違いは、オランダとの向き合い方です。
キングは、オランダにはずいぶん警戒し避けていたのに対して、ペリーの日本遠征ミッションはオランダに、積極的に調査資料の協力や助言を求め交流を図っています。
これこそ、ペリーによる日本遠征ミッションの苦心の跡といえるものです。
ペリーの日本遠征の目的は、日本を開国させ友好関係を築くこと、すなわち「日米和親条約」の締結です。しかし、この条約を結ぶにしても、ペリーには力ずくでの交渉、すなわち、武器の使用を「してはならない」という絶対条件が課せられていました。
それは、大統領に宣戦布告の権限がなかったことによるものと思われますが、やはりキングの主張が大きな戒めの言葉が重しとして効いていると捉えた方がいいようです。
ペリーは、この条件を満たすためにオランダをも巻き込んでいるのです。
キングは、モリソン号を仕立てた当初から、理不尽に打ち払われた後に於いても、一貫して「武器は使用してはならない」と戒めています。彼は、そうなった場合は「一旦は引け」とも言っているのです。
ペリーが日本でとった言動も、一見すると強圧的な態度で日本を屈服させた『砲艦外交』と揶揄されていますが、実際彼は、一貫して武器の使用を否定した平和外交に徹していることが分かります。
このようにキングの『モリソン号航海記』を見ながら、ペリーの言動を追っていくと多くの点でキングの主張の影響を受けていることが見えてきます。
それは、あたかも、現代の企業が改善活動で用いる手法でもある、P(計画)・D(実行)・C(評価)・A(提言)のサイクルが、キングからペリーへと回された感さえするのです。
そのキングの『モリソン号航海記』を改めてみてみたいと思います。

(2)日本使節団派遣のプロジュクトチームの誕生

① キングの『モリソン号航海記』

そもそもキングの『モリソン号航海記』とは、彼が著した『日本とマレーシア福音船の航海記 モリソン号とヒマレー号の記録』のうちの第一巻にあたり、次のような項目から構成されています。
それは、目次の前に序文があり、次に目次を配した後、序章があり、そして本文というべき航海の記録、第一章 沖縄、第二章 江戸、第三章 鹿児島、そして第四章 反省と提言という実質的には四構成となっています。
最初の序文では、モリソン号を企画した動機や方針が語られ、序章では、諸外国が、それまでに日本へ航海を試みた歴史を調べ、モリソン号は如何にあるべきかを語り、第一~三章は、モリソン号が体験した航海の記録を、そして第四章は、航海の総括、反省と提言となっていています。(これを日本では相原良一氏が『米船モリソン號渡来の研究』として丁寧かつ詳細に著されていて知る事が出来ます。この第9章では、大いに参考とした文献です。)

キングは、それまでの多くの国々が日本へアプローチした航海記を網羅していて国際視野に立って筆を進めていきます。特にゴロブニンの『日本幽囚記』やクルーゼンシュテルンの『世界周航記』は影響が大きく頻繁に引用や対比の記述がみられます。
このキングの『モリソン号航海記』で最も注目すべきは、序文のしかも冒頭、すなわち書出し文です。
それは、キングがモリソン号による日本への航海記を認めるにあたって、ハドソン湾会社の支配人との出会いを紹介したうえで、アメリカ西海岸に漂着した日本人(三吉)の救出劇から記していることです。ここには、キングの並々ならぬメッセージが込められていることが伝わってきます。彼はその後に「1836年の春、英国から合衆国へ帰る船中で、予は同船していた北亜米利加ハドソン湾会社の支配人G・S氏(注―1)と知合いになった。」と、以下のように続けています。

或る時同氏(G・S氏)は一隻の日本のジャンクが2年前にオレゴン河口の北部にある島々の一つに漂着したと話してくれた。G・S氏はその当時オレゴン川のハドソン湾会社の建物のあったフォート・ヴァンクーヴァーに居たので、同地に数名の漂流者がインディアンの手中にあることを知って、人を派してそれらの漂民を償い救出した。これらの漂民の語るところによると、彼等は18ヶ月前(14ヶ月の誤り)に日本の港を出帆した船の多数の乗組員のうちの唯3人の生存者である。

相原良一著『米船モリソン號渡来の研究』12頁より ()内筆者加筆

キングは『モリソン号航海記』を、このような書き出しから始めています。
この記述から、G・S氏、すなわちジョージ・シンプソンは三吉がアラバ岬に漂着したとき、オレゴンのフォート・バンクーバーに居たということになり、彼等の救出活動はマクラフリンとの共同作戦だったことが分かります。
この時キングは、シンプソンの話を、大西洋の船上、興味を示しつつも漠然と聞いていたことでしょう。おそらく三吉を日本へ送り返す口実に、イギリスと日本との交易を開くマクラフリンの提案も。

② キングが見た神の摂理

ところが、彼は、自ら共同経営するオリファント商会マカオ支店に、その年の11月、着任して瞠目します。なんとシンプソンから聞いた、数奇な運命をたどったその三吉が目の前にいたのです。
キングは、しみじみとこの奇しき出会いに感じ入るものがあったに違いありません。キングは改めて一連の出会いをかみしめたものと思います。
すなわち、最初にシンプソンと三吉の出会い、続いてシンプソンとキング自身との出会い、そしてキング自身と三吉の出会いです。
彼は「アメリカ海岸へ漂到した3人の日本人が我々の手にあることは、神の摂理が我々をして民間の手で日本との交渉を行うべきものと考える。」と感慨を込めて記しています。
彼はこの時、マクラフリンが抱いた「3人を送還する口実に日本との交易が開けないか」の発想が「自分に引き継がれたのではないか」と思い至ったに違いありません。
すなわち、キングは、この3つの出会いに、神の啓示を見たのです。
これこそがキングをして、日本に向けてモリソン号を仕立てる動機なのです。
それが一転して、キングの言葉を借りれば「一歩も上陸し得ずして呆気なく日本の港から撃退されてしまったために、問題が新しいという点と日本への訪問を行ったという“名誉”を除いては、内容の少ないのを遺憾とするものである」とやや自嘲気味ながら記述しています。
彼は、この企画を自らの“明らかな失敗”と位置付け、日本がとった暴挙を冷静に分析しながらも以下のように記しています。

モリソン号に対する日本側の措置の中で、特にアメリカ国旗に対して侮辱を加えたのは、民間の手で実現し得なかった事柄を国家の手で行うための絶好の機会を得たものであり、この貴重な機会は絶対に失ってはならない。

前掲143頁

キングは、今後のアメリカ合衆国の採るべき対日本政策に役立つよう、このような論理で『モリソン号航海記』を著したのです。
そして、それが発行されてから、14年経った1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、アメリカ待望の『日米和親条約』がペリーの手により、横浜で結ばれるに至ります。ここにキングの描いた日本を開国させ文明国の一員に誘うという夢が実現したのです。
日本に1635年頃、鎖国というものが成立してから、実に220年目のことです。
ペリーは、ここに日米の歴史に名を刻むこととなりました。
さて、その彼がアメリカ政府から、どのようにして全権大使に選ばれたのでしょう。次に見ていきたいと思います。

③ アーロン・パーマーの対日戦略

1855年1月18日、アメリカ上院の第33回議会のことです。クレイトン議員は、ペリーによる日本遠征で最も貢献した人物に、報奨金を支払うべきと提案します。
クレイトン議員は「その人物は国務省や米国議会に対してこの遠征の目的を明確に示し、多くの情報を提供してくれた」(渡辺惣樹著『日本開国』207Pより)と提案理由を述べ、ペリーにはブレーンがいたことを忘れてはならないとしています。
ペリーが日本遠征を終えニューヨークへ凱旋するのは、1月12日のことですから6日後のことになります。クレイトン議員は、沸き立つペリーの歓迎ぶりに、その人物に思いを馳せたものでしょうか。
その人物とは、アーロン・ヘイト・パーマー(1778-1863年)といいます。彼は、有力な弁護士であり、ロビイストでかなり名の知れた政策の立案者でもありました。
そして、クレイトン議員とは、6年前の1849年3月4日より50年7月9日まで第12代大統領ザカリー・テイラーのもとで国務長官を務めた人物です。
このクレイトン議員の提案は、やがて、承認され、国庫からパーマーに3千ドルの支給が認められています。

パーマーは、クレイトン議員が国務長官であったころから、東方の未交易国への使節団派遣の建議書を提出していました。その内容は、日本と国交を開くための記述が多く占められていて『日本開国建議書』ともいえるものでした。パーマーは、この建議書を1849年4月14日に、さらに5ヶ月後の9月17日、追い打ちをかけるように、その改訂版をクレイトン国務長官に送付しています。

● パーマー、戦争も辞さずの初回の建議書
その前掲『開国日本』によれば、パーマーの初回の建議書は「大統領の親書を持たせた使節団を日本へ派遣し、開国をさせるべき」として、その理由を次のような5項目挙げています。

  1. 虐待された漂流民への十分な補償

  2. 米国船が悪天候の場合避難港の提供すること、及び、難破した船の積み荷の返還

  3. 交易のための開港と、外交関係を結び領事の派遣

  4. サンフランシスコ――上海間を結ぶ蒸気船の石炭補給基地の提供

  5. 両国との条約は清との間に結ばれた望厦条約をベースにすること

パーマーは、さらに日本がこうした要求に応じない場合に備え「特使には江戸湾封鎖の権限を与えること」を提案して、戦争も辞さずの構えでアメリカ政府に書き送っているのです。
このパーマーの建議書には、この過激な内容からして、第4章でも触れたあの捕鯨船ローレンス号の日本側の扱いが色濃く反映されていることが分かります。彼にとって、この事件は極めて関心の高いものだったようです。
パーマーは、かねがね鎖国を続ける日本という国が気になっていました。それは、太平洋での捕鯨船の活動や、東洋との交易において、阻害となっていたからです。
パーマーは、ヨーロッパに豊富な人脈を持っていました。その中に、1845年11月より5年間、長崎の出島のオランダ商館長を務めた、ヨセフ・ヘンリー・レフィスゾーン(1845-50年長崎出島在籍)がいました。
彼が商館長在任中の1846年(弘化3年4月11日)、択捉島に漂着したローレンス号の7人の遭難民が松前から長崎に送られて来ます。そして、翌年(同4年10月5日)、レフィスゾーンの手配でローレンス号の遭難者はオランダ船で帰国の途につきます。この時、一人が獄死していて6人となっていました。
この事件の詳細は、アメリカの友人パーマーのもとにもたらされます。彼は建議書に、次のように報告します。
「遭難したローレンス号の乗組員は千島列島の一つに上陸した。17ヶ月の拘束と非人間的な取り扱いを受け、うち一人は脱走を試みたがガードに捕らえられ残虐に殺された。」と穏やかならぬものでした。(前掲の『開国日本』170P)
弁護士でもあり、ロビイストでもあるパーマーは、このレフィスゾーンの報告により「戦争も辞さず」の建議書を認め、クレイトン国務長官に提出したのです。

● 様変わりする二回目の建議書
ところが、彼は、5ヶ月後の9月17日に、二回目の建議書の改訂版を提出しますが、前回のものとはずいぶん様子が変わっています。
パーマーは、このローレンス号事件が直接の動機として建議書を認めましたが、これについて彼は、以前から親密な広東の宣教師であり『チャイニーズ・レポジトリー』の編集者でもあるS・W・ウィリアムズにも意見を求めたものと思われます。
ウィリアムズは、パーマーにゴロブニン著の『日本幽囚記』と、キング著の『モリソン号航海記』に答えがあるとアドバイスを与えたものでしょうか。
さらに、その年の5月、パーマーは、ローレンス号と酷似したラゴダ号遭難民の救出劇の報告をウィリアムズから受け取ります。おそらくウィリアムズの報告は、ラゴダ号乗組員の主張とは一線を画した穏便なもので「日本との国交を早く開く必要性」を説いたものであったに違いありません。
また、パーマーは、日本出島に滞在中のレフィスゾーンからも直接情報をとっています。彼は、すでに日本滞在4年目に入っていて、このラゴダ号事件の時は、以前のような過激な報告はしていません。彼は、就任当初の文化の違う戸惑いから、日本の風習制度に理解を深めていて、次のように自ら出版した『日本誌』に記しています。

自分のオランダ商館長の任期中、1845年7月から1850年11月までの間、日本政府から55人の遭難船員がオランダ商館に送り届けられ、自分が直接彼らの祖国に無事送り返した。彼等は皆日本政府から食料や衣服を与えられ、必要な医療も受けていた。投獄されたものは悪いことをした船員だけだ。普段は寺院で寝起きしていたので、見物人が押し寄せ混乱しないよう、寺院の周りに柵が設けられていたのである。「私は二、三のアメリカ人水夫が日本で捕らえられたと言うことは信じないし、そうした事実もない。鳥かごに入れて国内を引き回したという事実に至ってはなおさらである」と書いた。

(中野昌彦著『ペリーを訪ねて』42Pより)

このように、ラゴダ号事件の頃では、レフィスゾーンは外国人船員に対する日本の役人の処置に理解を示すようになっていたのです。
パーマーの日本観も、彼やウィリアムズの報告を映したかのように変化して、建議書の改訂版では日本人の民族意識を驚くほど好意的に分析しています。
パーマーの過激な対日遠征論は友好条約の締結へと様変わりしています。
それを、要約してみると次のような内容となっています。

  1. エネルギッシュな民族で新しいものに同化する能力は、アジア的というよりもむしろヨーロッパ的ともいえる。

  2. 西洋諸国の芸術や新技術に対する好奇心が極めて高い。

  3. 名誉を重んじる騎士道の精神を持っており、これはアジア諸国と全く異なる。

  4. アジア諸国に見られる意地汚いへつらいの傾向とは一線を画し、彼らの行動規範は男らしい名誉と信義を基本としている。

  5. 盗難や経済犯罪は極めて少ない。

  6. 同質な民族による独立を二千五百年間も維持し、同一の言語と宗教を持っている。

  7. 支那に隷属することもなく、他国に領土を侵略されたり、植民地化されたことがない。

  8. 日本は東洋におけるイギリスとなるであろう。

彼は、この時点で、日本を決して敵とみたり、障害の対象とは見ていないことに注目しなければなりません。
4月に提出した建議書から、パーマーはずいぶん調査研究したことが窺われます。

④ 具体化する日本遠征ミッション

当時アメリカは、メキシコ戦争に勝利し、カルフォルニア州を得、その土地に金鉱が発見され、アメリカ西海岸は活況の渦中にありました。
しかも時は、蒸気船時代に入っていて、日本との国交が開かれれば、中国に至る太平洋航路が完成し、イギリスなどヨーロッパ諸国に影響されることなく独自の航路が開け、さらなる飛躍、発展が望めると、新たなルート新設に期待が高まっていました。
一方で、今や産業を支える捕鯨業から、遭難した捕鯨船員が日本でひどい扱いを受けていると、頻繁に情報が入って来ています。
日本と国交を結ぶことは、アメリカの喫緊の課題となっていたのです。
パーマーは、このころになると、この任務に相応しい人物を思い描くようになります。彼は「このミッションは『例えばペリーのような』海軍の経験を積んだ軍人に任せるべきだ」と、その名を具体的に挙げて推薦しています。(渡辺氏は『開国日本』より)
パーマーの仕事仲間には、ペリーの娘婿ジョン・スライデル上院議員がいました。また、彼はペリーがメキシコ戦争で見せた輝かしい戦果にも注目していました。彼は、こういった事情から、かねてよりペリーをマークしていたのでしょう。
パーマーから秋波(しゅうは)を送られた形となったペリーも、日本に目が向くようになり、プレブル号のグリン艦長や、捕鯨船マンハッタン号船長マーケッター・クーパーとも連絡を取り情報収集に努めてその気になっていったことが窺われます。
特に、やがて姻戚関係を結ぶデラノ船長と書簡を交わして捕鯨業界や商船の太平洋の実態を調査しています。その最初の書簡は1851年1月16日付で、ペリーが東インド艦隊司令長官に内定するほぼ1年前です。(中野昌彦著『ペリーを訪ねて』48P参照)
一方、大統領府もクレイトン国務長官の進言でしょうかテイラー大統領は、オランダ領事にジョージ・フォルサムを任命し、オランダ政府に日本遠征の協力と情報提供を要請します。
後に、ペリーのもとに届けられた資料や情報は彼の尽力によるものに違いありません。
渡辺氏の『日本開国』にはこんな記事も見られます。アメリカは「政府が外交ルートを通じてオランダから三万ドルで入手した日本の地図類や多くの参考資料を携えたペリーは……」となっていてその桁の違いに驚かされます。(注―2)
このように、この頃になると、政財界ともに日本へ関心の高まりを見せ、ばらばらであった日本遠征の主張がまとまり、ひとつの塊の集団、いわば日本使節団派遣のためのプロジェクトチームなるものがパーマーを中心に形成されていったものと思われます。
ところが、パーマーの想定外のことが起こり彼の建議書は振出しに戻ってしまいます。それは、テイラー大統領の突然の死です。1850年7月9日、彼は胃腸炎の悪化で急死したというのです。そのためアメリカ憲法の定めるところにより、副大統領のフィルモアが即刻第13代大統領に就任します。それに伴いクレイトン国務長官も辞任し、ダニエル・ウェブスターが後を継ぐことになります。

(3) アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの登場

① オーリック東インド艦隊司令長官就任と更迭

そんな折も折、1851年3月4日、日本の漂流民17人を乗せた商船オークランド号(ジェニング船長)がサンフランシスコ港に入ってきます。
日本人漂流民とは、再三紹介する、摂津国菟原(うはら)郡大石村(現神戸市東灘区)松屋八三郎所属(1500石積み)の永力丸の乗組員です。
永力丸は、1850年12月2日(嘉永3年10月29日)、江戸からの帰り、紀州大王崎沖で嵐に巻き込まれ遭難します。船頭萬蔵はじめ17人が乗り組んでいました。彼らは、漂流50日後、オークランド号に救助されたというものでした。
この漂流民に目を付けたのが当時、アメリカ東インド艦隊の司令長官に就任したJ・H・オーリックでした。
彼は、国務長官ウェブスターに「この一行を日本に返還させる口実で日本との国交が開けないか」と1851年5月9日付で建議書を提出します。
オーリックの提案は、時宜を得たものとして、直ちに採用されます。彼は6月8日には早くも、旗艦サスケハナ号に座乗し香港へ向かいます。
永力丸漂流民とは、中継地香港で落ち合う手はずです。
この経緯について新渡戸稲造の、すべて英語で記された論文がその模様を伝えています。その書の題名は『日米通商の歴史1891』とでもいうべきもので原題は『THE INTERCOUSE BETWEEN THE UNITED STATES AND JAPAN AN HISTORICAL SKETCH(1891)』となっています。この論文の32~41Pにかけての記述が、当時日本遠征について論じられたもので、その中でも、オーリックの対日戦略案が選ばれた経緯を次のように記述しています。

この頃、日本人漂流民(ここでは浮浪者、野良犬というような表現)がバルク船オークランド号(ジェニングズ船長)によって救い上げられサンフランシスコへ到着したという新聞記事が、オーリック提督の注意を引いた。彼は政府に対し、この出来事を日本(帝国あるいは帝の国という意味か)との通商関係を開くために、あるいは少なくとも我が国の友好的な感情を示すために利用すべきであるとの提案書を具申している。この提案は、1851年5月9日に作成されたものである。ダニエル・ウェブスターは国務長官を務めており、彼とオーリックは旧知の友人だった。
グリン提督とパーマー氏は、日本関係の専門家として意見を求められたのであり、これに対する回答の書簡で、彼等が外交に関して鋭い判断力を有していることを示している。

潮騒令和塾竹内康雄氏訳 ()内は竹内氏補足

ここで言う日本人漂流者は、永力丸漂流民のことです。この記述によれば、たまたまこの新聞記事に出会ったオーリックが日本との交易に利用しては、と閃いたことが語られています。彼とウェブスターとは旧知の仲であり、早々に彼の建議書が採用されたことが窺えます。
また、プレブル号のグリン艦長や日本に対して関心の高いパーマーから了解を取り付けていることも語られています。
しかし、この時、相談を受けたパーマーは、正直唖然として「返す言葉がなかった」ということではないかと、彼の表情さえも浮かぶのです。彼は、延々と練りに練り上げた対日遠征案が手元から離れていくのを、頭が白む思いで聞いたのではないかと。
それから間もなくのこと、オーリックは、寄港先のブラジルで不手際があったとしてあえなく解任されてしまいます。その原因は、サスケハナ艦長のW・インマンとの不和など挙げられていますが、いささか唐突感は拭えません。
解任命令は、グレイアム海軍長官より、日付は1851年11月18日ということで、彼が指令を受けてからわずか5ヶ月後のことです。オーリックは、その頃、香港を目指して洋上にいましたから知る由もありません。
オーリックは、翌年の2月、香港に到着したとき、代理公使を勤めていたP・パーカー(モリソン号の同行者で宣教医であった)から6月10日付の国務長官ウェブスターからの指令書と、5月10日付の大統領権限移譲書を受け取っていました。(『ペリーとヘボン横浜開港』丸山建夫著より)
そして、オーリックが日本へ連れていく永力丸の一行の到着をじりじりと待っていた頃、非情な命令書がアメリカから届いたのです。前出の『ペリーとヘボン横浜開港』によれば「東インド艦隊司令長官解任のほか、後任が来るまでそのまま待機せよという内容だったのである」と記されています。
この突然の交代劇の真相ははなはだはかりかねるところですが、パーマーの危機感を募らせた異議の申し立てがあったことは間違いないことでしょう。
その後の、ペリーの日本遠征を見ていると、その中に答えがあるようです。
例えば、オーリックは通訳も連れていませんし、贈呈品も用意していません。そして決定的なのが最も高い関門の国書の受け渡し方法に万全の備えが見られないことです。
ウェブスターも如何に旧知の仲とは言え、国の大事の前には叶いません。自分の拙速な判断を悔いたことでしょう。

② 永力丸漂流民の去就

一方永力丸漂流民は、1年余り経った1852年3月13日、サンフランシスコを軍艦セントメリー号に移乗し、香港に向けて出港することとなります。
思えば、このセントメリー号の出港は、提案者であるオーリック提督が解任(1851年11月18日)された後のことで、ここには、海軍を巻き込んだ政府内で、相当の混乱があったことを窺わせています。
彼等は、軍船への移乗に一抹の不安を抱えながらも、サンフランシスコを後にします。
この時、セントメリー号には、同船艦長の取り計らいでひとりのアメリカ人青年トーマス・トロイの乗船が認められます。
彼は、永力丸漂流民がサンフランシスコに着いてから、親身になって世話をした人物で、すでにこの時、相当のコミュニケ―ションが取れるまでに日本語を習得していました。
彼は、日本の国が開かれるのであれば、是非ともその国を見てみたいと希望を抱いていましたし、永力丸の漂流民も日本語の通訳として彼の乗船を切に願っていました。(『アメリカ彦蔵自伝』を参照)
従って、漂流民一行は、やがて自分たちが日本へ送り返されることを知っていたわけです。
香港への途上、ハワイに寄港した4月3日、船頭の萬蔵(当時63才)播磨国加古郡宮西村が亡くなり、当地に埋葬されます。萬蔵はこの時代にしては歳のいった異色の船頭といわれますが、人徳や統率力を買われてのことと思われます。
セントメリー号が香港に着いたのは、5月22日、2日後にはマカオに向かいます。そこに待っていたのが、日本遠征隊の旗艦となるサスケハナ号です。サスケハナ号は、それより約3ヶ月前に、香港に到着していました。
この時、サスケハナ号は、提督のオーリックが解任され、異常な状況下にありました。
こんな状況下、永力丸一行は、セントメリー号からサスケハナ号に移乗させられたのです。彼らの待遇は、司令官の交代劇(表向きは提督と艦長のサスケハナ号の船上の人々の抗争)の側杖を食ったかたちになり一変します。
あまりの待遇の悪さや乱暴な扱いに堪り兼ねた彼らの半数が、街で聞き及んだ南京への道を聞き出し、遂に脱走を試みます。しかし、決行したその日の夕方には身ぐるみ剥がされ惨憺たる状態で帰ってきます。
また、そんなころ彼らは、サスケハナ号に、あの力松の訪問を受け驚く場面もあります。彼は永力丸漂流民一行に「このまま、一層のこと香港に留まってはどうか」と持ち掛けられてもいます。帰心矢のごとしの一行は、力松に下心があるのではないかと疑い、それ以後、力松には近づかないよう心がけます。
やがて、トーマス・トロイは、この状態では日本行きもおぼつかないとアメリカに帰ることを決断し、彦蔵(注―3)に打ち明けます。彼は帰国に当たっては、彦蔵に一緒に行かないかと誘うのです。
結局、彦蔵に加えて亀蔵・治作の3人がアメリカに行くこととなり、サスケハナ号に残る漂流民はその時点で13人となります。自らの建言ではるばるサンフランシスコから連れて来た漂流民でしたが、任を解かれたオーリックには彼らの扱いはどうでもいいことだったのでしょう。オーリックはトロイの願いを簡単に許可します。
彦蔵の証言によれば「トロイと彦蔵・亀蔵・治作の4人は、1852年(1853年の誤り)冬の初めにサンフランシスコに着いた」としています。(『彦蔵自伝』より)従って、香港出発は10月の初めごろだったのでしょうか。
オーリックは、3月11日、ペリーの到着を待つことなく健康を害して離任します。彼は、虚しく歴史の舞台から去っていきました。
主を失ったサスケハナ号は、その3月の下旬、新任のマーシャル合衆国遣清使節、代理公使パーカー、駐広東合衆国領事フォーブスを乗せて上海へ移動します。
サスケハナ号が上海に到着すると、情報を聞き付けてやって来たのが音吉です。
音吉は、13人中12人を艦隊から引き離し、日本遠征のため出港するまで保護し、ペリーの日本遠征出航の日、5月17日を迎えたのです。
彼らは、5月29日、長崎との定期港である乍甫に向かいます。音吉の邸宅にいたのは約2ヶ月に及びました。音吉はその後も、日本へ出発まで何くれと面倒を見ます。そして、漸く帰国の日、1854年8月5日(嘉永7年713日)を迎えるのです。
日本への帰国を待つ12人の中で、11人が帰国の途につき、長崎を目前にして京助が、そして長崎での取り調べ中に安太郎が亡くなり、それぞれの故郷に帰還できたのは9名でした。
そして、12人中のただひとり、紀州出身の岩吉(宝順丸の岩吉とは別人物)は、日本へ船便を待つ間の3月20日、乍甫の宿舎から抜け出し、帰国をこの時は断念しています。

③ 特異な岩吉(ダン・ケッチ)の行動

岩吉がその後、史実に現れるのは、なんとペリー艦隊が日本での任務を終え、アメリカに帰る1854年7月のポウハタン号の中です。その時の名は、ダン・ケッチと呼ばれていました。岩吉のもとの名、伝吉がなまったものでしょうか。
ペリーの『日本遠征記』第24章には「ダンは提督の保護を受けつつ非常な才知と熱心な知識欲を発揮している。今彼が目指している通りに、もし我が国についてもっと色々と知った後に日本へ帰るならば、疑いもなく彼は我が国に関する少なからざる知識を彼の祖国にもたらすことになるだろう。」と意外なことが記録されています。この岩吉のことと思われる記述は、第25章にもあります。そこには「彼は怜悧で几帳面、そして知識欲も盛んで祖国に帰りそれを生かすことを願っている。」とも記されています。

岩吉は、その4年後、イギリスの初代駐日領事(後公使に昇格)ラザフォード・オールコックの日本赴任(1859年6月)に伴い通訳官として採用され帰国を果たしています。
しかし、彼は、1860年1月29日(安政7年1月9日)、攘夷を叫ぶ浪人の凶刃に斃れ、非業の死を遂げています。
そのオールコックが著した『大君の都』で彼は、はなはだ芳しい評価は受けてはいません。むしろオールコックは「彼は、短気で、高慢で、荒々しかった。彼は、帰国するさいに、このような性格を身につけてかえった。――アメリカと中国で長い間罰せられろことのない生活をおくったおかげで、いっそう悪くなったのである。」と記し、岩吉が日本の役人とやり取りする時、ハラハラしながら見ていたとしています。
オールコックは、自著『大君の都』で、ことごとく日本の役人と対立する岩吉の態度を、アメリカや中国で培った虚勢としか見ていません。彼は、ここで、岩吉を雇った経緯や、生い立ちには触れていないのが残念ですが、このミスマッチとも思える関係はどうして生まれたのでしょう。
筆者は、岩吉を、決してオールコックが断罪を下したような人物ではないと考えています。
彼は、未だ仮説の域を出ませんが、アメリカで重要な出会いを果たし、ある役割を担って香港に帰って来たと思っています。
それは、ベッテルハイムとの邂逅です。ベッテルハイムは、第一章で紹介しましたが、1846年、イギリス海軍琉球伝道協会より派遣され、以後、8年間、沖縄で活動した宣教師です。ベッテルハイム一家は、1854年、沖縄での宣教をあきらめ翌年、アメリカに移り住んでいました。
岩吉は、ペリー艦隊のポウハタン号でアメリカに渡ったのち、彼と出会ったと思われます。おそらくペリーの仲立ちがあったのでしょう。
ベッテルハイムは、1858年、聖書「ロカ伝」を和漢対訳『路可傳福音書』として香港から発刊していますが、これは岩吉が中国に帰る時、その原稿を香港にもたらしたものではないかと睨んでいます。
これらは、かなり高い確率で立証できると考えていて、詳細はいずれまとめて論文化したいと思っています。
ここでは、彼はベッテルハイムとの出会いにより、アメリカでかなり高度な知識と語学を身に付けて来たであろうことだけは記しておきたいと思います。
その岩吉は、一説によれば、その生い立ちからか武士・役人には異様な敵愾心を抱いていたとも言われています。
このような事情を加味すれば、一方的に岩吉が悪いとするオールコックの記述は、片手落ちの評価といわねばなりません。

ここで問題なのは、岩吉が何故乍甫で仲間から離脱したのか、どのようにペリー艦隊に入ったのか、どうしてオールコックの通訳官になったのか、この一連の不可解な動きにあり、その解明こそが重要と思います。
この一連の彼の動きには、その状況からして、いずれもに音吉が深くかかわっていたということは疑いのない所で、まずは彼がキーパーソンでしょうか。
時は過ぎて1862年、オールコックは、森山多吉郎、淵辺徳蔵と共に、日本初の遣欧使節団を追ってヨーロッパに向かいます。彼らは途中、シンガポールを経由します。この時、噂を聞き付けた音吉は、旧知のオールコックを訪ねています。
はたして、オールコックの口から、岩吉の最期(さいご)が音吉に語られもしたのでしょうか。

④ ペリーの登場

“潮騒令和塾”資料より

ペリーが東インド艦隊の司令長官に内定したのはオーリック解任後2ヶ月経った1852年1月、正式に任命されたのは、3月24日のことです。
しかし、ペリーは、オーリックが解任された1851年11月18日の、その日のうちにグレイアム海軍長官から出頭を要請されています。ここにオーリックの更迭は、後任にペリーを充てるシナリオが出来ていたことを窺わせています。
このような経緯で選ばれたペリーは、大いにこのポストに不満を抱きます。
サミュエル・エリオット・モリソン著・座本勝之訳による『伝記ペリー提督の日本開国』は、当時ペリーは「地中海艦隊の勤務を希望していた」とし、さらに「しかもメキシコ戦争では私の部下であったオーリック大佐の単なる交代としてでは」と役不足の不満を述べています。
それでもペリーは、ことの重要性は認識していて「艦隊司令長官の意向が反映され、東インド艦隊の規模とその行動範囲を小官が望む範囲まで増強していただけるのであれば、私は必ずしもその職務を辞退するのではありません。」としています。
彼は、グレイアム長官から打診のあった1ヶ月後、デラノ船長に1851年12月18日付で書簡を送って、この経緯を打ち明けています。それによれば、

われわれがいろいろと意見を交換した件に関し、貴方のご指摘通り、私は喜んで任務を遂行する心構えができております。
しかしそれを引き受けるには、私が当局からすべてを任され、十分に成功の可能性を望めることが前提となります。すなわち、それらの権限と必要な軍事力が整わなければ、私はその遠征に踏み出すつもりはありません。
私的な屈辱は別にしても、究極の目的である「日本及び周辺の列島と友好関係を結び、貴方が心配されているところの、残酷な仕打ちを受けている不運な船員たちを解放する」ためにも失敗は決して許されないからです。

(S・E・モリソン著『伝記ペリー提督の日本開国』270Pより)

当時のグレイアム海軍長官は、海軍の逸材、ペリーの意向を尊重し、全権委任という格を上げたかたちで、彼を東インド艦隊司令長官に任命します。ペリー、58才の時です。
このデラノ船長に送った書簡には、「私的な屈辱は別にしても、」と自身の本心を押し殺しつつも、輝かしき戦歴を誇るプライド高いペリーの姿を覗かせています。
そして、ペリーの「十分に成功の可能性を望めることが前提」と後顧の無いよう、軍人としての条件を述べています。
また、この書簡の冒頭「われわれがいろいろと意見を交換した件に関し・・・」の記述には、ペリーやデラノ船長にとどまらず、パーマーや政府関係者を含めたプロジュクトチームの存在をも窺わせています。
おそらく、このプロジェクトチームにより綿密に練り上げられた行動計画があったのでしょう。遠征ミッションの主役に選ばれたペリーのこの書簡からも、その存在を浮かび上がらせています。
ここに再び、パーマーが描いたミッションが稼働することとなりました。
かくして、ペリーが日本へ向けてバージニア州の軍港ノーフォークを出港するのが11月24日でした。

(4) 日本遠征事前準備

① 事前予告のオランダ『別段風説書』

キングとペリーの日本遠征で際立った違いは、オランダとの向き合い方とはすでに述べたことです。
ペリーの日本遠征ミッションは、オランダに情報の提供のほか、事前予告の依頼までしています。
アメリカ政府が外交ルートを通じて、オランダから購入した日本の地図類や多くの参考資料は3万ドルを費やしたことも述べました。現在の金額にすれば7,500万円相当ともいわれる破格なものです。
このペリーによる日本遠征ミッションでの、オランダに対しての向き合い方は、そのときに述べたように、本来アメリカ人とオランダ人は非常に緊密な関係にあったとしましたが、それにも増して見逃してはならないのが、キングの主張から来ているのではないかということです。
それは、彼がモリソン号を仕立てた当初から、理不尽に打ち払われた後に於いても、一貫して「武器は使用してはならない」と戒めています。彼は、そうなった場合は「一旦は引け」とも言っているのです。
これに対して、ペリーの日本遠征ミッションの「一旦は引け」の選択は、絶対に避けたいところです。
そうなると心配なのが出合い頭の衝突です。モリソン号がどのような目的で来たのか確かめもせずいきなり受けた、あの砲撃です。
そこで、それを避けるために、最も現実的な案として、オランダへ協力要請ということになったと思われます。
従って、ペリーのオランダへの向き合い方は、意外にもキングの戒めの言葉から来ているということができると思います。

日本で唯一の窓口、出島のオランダ商館長に、1852年7月、新たにドンケル・クルチウス(1813-1879年)が着任します。
彼は、早速、着任挨拶ともいうべき、最近の西洋の動向を記した『別段風説書』を提出します。
それによれば、ヨーロッパ最新情勢を縷々述べた後、最後の項目に「近頃風評仕候には、北亜墨利加合衆国より船を仕出し日本と交易を取結ばんため、御当国江参り申すべき由に御座候」(オランダ語を司天台の訳)と題して、ペリーが船団を組み大挙してやって来る日本遠征を伝える報告書となっています。それは具体的な内容に触れていて要約すれば次のようなものでした。

  1. アメリカは、日本の皇帝に使節を送ってアメリカ大統領の親書を提出すること。

  2. この使節は、日本の漂流民を連れて来るとのこと。

  3. 日本との民間貿易のため、1-2の港の使用許可と、蒸気船の石炭貯蔵の港の設置を求めているらしいこと。

  4. 最近、艦隊司令官がオーリックからペリーに交代したこと。

  5. ある情報では、陸軍及び攻城の武器も積んでいるようであること。

  6. 1852年4月よりはもっと先になること。

  7. その他に、現在中国周辺で展開している軍船とその規模を紹介し、これらが日本に差し向けられるようだと記し、さらに今後、増強される複数の軍船の名前を挙げています。

この『別段風説書』は、アメリカからの情報に、オランダの推測を交えて記されています。この中で、注目点は3点ほどあります。
第一点目に、ほぼ正確にアメリカの意思を知らせていること。
第二点目が、指揮官の交代に言及していて、この依頼の時期が知れること。
第三点目が、その使節団は、漂流民も伴って来ること。

それにしても第一点目は、アメリカは、ほとんど手の内をオランダに見せているといってもよく驚きに値します。これはアメリカが如何にオランダに頼っていたかを物語っています。
第二点では、その時期が知れることもさることながら、前項の続きで、アメリカの内情で公言をはばかるようなトップの交代劇まで知らせていることです。
そして、第三点目の漂流民の送還を知らせていることです。これは、冒頭にも紹介しましたが、上海で音吉なるものに漂流民を奪われてしまい、アメリカがオランダに伝えた、ペリーによる日本遠征の情報が異なることになってしまったのです。ペリーは、永力丸漂流民をどのようなカードとして使おうとしていたのかはかりかねるものの、オランダに流した情報が異なってしまったのです。このために、気位高きペリーが面子にかけて、彼らを取り戻しに躍起となった訳がここで分かります。
クルチウスによる、この『別段風説書』の事前予告は、アメリカ日本遠征ミッションが改めてキングの不戦の言葉の重みを感じ、その結果、プロジェクトチームとオランダの間に、太い人脈と信頼関係が築かれたことを物語るものでした。
ペリーは、浦賀に到着後、日本側が「長崎に廻れ」と要求するのに対して「すでにオランダを介して知らせているはず」と、この事前予告を盾に居座ります。

② オランダ語通訳ポートマンの採用

ペリーの日本遠征で特徴的なのが言葉の障壁の対策が挙げられます。その中でもオランダ語通訳に採用されたアントン・ポートマンの活躍は見逃せません。
彼は、ペリー以後も、再三日本に来て、アメリカ駐日公使ハリスの通訳や、アメリカ公使代理を勤めたりしています。彼は、日米関係の黎明期において、最も貢献度の高い働きをした人物の一人といえます。
にもかかわらず、人名辞典を引いても彼の生年も没年も不明のままというのは気にかかるところです。
ペリーは、日本ではオランダ語しか通じないということで、そのポートマンを採用します。
その経緯について、丸山建夫氏の著書に見る事が出来ます。丸山氏は「アメリカ合衆国連邦議会下院の委員会報告書によれば・・・・」と引用しながら以下のように記しています。

ペリーは事前準備から、アントン・ポートマンという若者を雇っていた。かれは、1852年4月17日から、ミシシッピ―号で帰国する1855年4月まで提督の書記として働いた。つまりペリーが取り寄せた大量のオランダ資料を翻訳したのが、彼だったのである。だから日本についての知識は、ペリー以上だったかもしれない。ポートマンは日本との条約交渉中は、オランダ語の通訳としても活躍する。))

丸山建夫著『ペリーとヘボンと横浜開港』より

このようにポートマンは「事前準備」の段階から活躍していたことが記されています。
この記述から、日本遠征プロジェクトが日本にかけてエキスパート的な人材を求めていて、ポートマンが採用されたことを知る事が出来ます。
ここはおそらく、オランダと太いパイプを持つパーマーが友人レフィスゾーンに働きかけていたものと思われます。
レフィスゾーンは、東アジアを地盤に上海にもいて、日本と向き合っていたポートマンを紹介もしたのでしょうか。ポートマンの日本語に対する造詣の深さや、日本での活躍を見るとき、そんな構図が見えてきます。
前掲のモリソンの『伝記ペリー提督の日本開国』では、ポートマンは「上海で採用された」としていますが、そんなところからの誤認ではないかと思われます。
晴れてポートマンは、ペリーが進める対日遠征のプロジェクトに採用され、アメリカとオランダの間に立って、オランダ商館長による『別段風説書』の依頼や日本参考文献の解読、さらには国書などの公式文書のオランダ語の翻訳に貢献したものと思われます。

➂ 主席通訳ウィリアムズの指名

もう一人の通訳、ウィリアムズがペリーから通訳要請を受けたのは4月9日のことです。彼は、突然の依頼に戸惑います。ウィリアムズは、まさか自分が日本遠征の主席通訳に指名されるとは思ってもいなかったのです。それでもペリーは、誠意をもって説得にあたります。
この時の模様を、ウィリアムズは、彼自身の著書『ペリー日本遠征随行記』(洞富雄訳、以後『随行記』と表記))に、以下のように語っています。

ペリーが広東に着くと、私は直ちに面会したが、彼が、ボストンの事務局では、通訳のような補佐職の人選については手続きをとらず、またその意向を伝えることもしなかったことを知った。彼は、「あなたが遠征隊に参加を望んでおり、中国へ回航するころには出発準備を整えて待っていることだろうと、合衆国で何度か聞いていたので、このことに頭が回らなかったのだ」と語った。面会にはブリッジマン博士もいっしょだった。・・・・・・・(中略)・・・・・・・また彼は「あなたのためにその席を開けておきたかったので、フォン・シーボルトを通訳に雇わなかったのだ」と付け加えた。

この中で「ボストンの事務局」とは、ウィリアムズの派遣元のアメリカン・ボードのことと思われます。おそらくペリーの通訳就任要請に対して、ウィリアムズは、まず「この話は事務局に許可がとってありますか」との質問したのでしょう。これに対してペリーの答えが「このことに頭が回らなかった」と言っているのです。
このことからすれば、先輩宣教師であり、『チャイニーズ・レポジトリー』の共同発行・編集者であるE・C・ブリッジマン博士(1801-1861年)が同席したのは賢明なことであったと言えます。
このくだりで着目点は「あなたが遠征隊に参加を望んでおり」と言っていることから、パーマーからの推薦によるものと考えて間違いないと思います。これはパーマーがウィリアムズと書簡のやり取りをしているうちに掴んだパーマーの感触なのでしょう。
ウィリアムズは、モリソン号の航海に参加して以来、絶えず日本への布教のあるべき姿を思い描きそのタイミングを計っています。
このことは第1章「それぞれの宣教師 サミュエル・ウエルズ・ウィリアムズ」の項でも紹介しましたが、あえて重複しますと、彼が言う布教のタイミングは、国交が開かれたのち領事館を設置し、友好関係を結び、その後、晴れて布教活動を開始するというもので、ゆめゆめこの順序を違えてはならないとしています。
彼は、それをゴロブニンの『日本幽囚記』から学んでいました。
日本がかくもキリスト教に拒絶反応を抱くに至ったのは「かつて、ポルトガルやスペインが日本でとった“キリスト教が開国の先兵”となったことによる代償」と結論付けていることからです。その代償が日本国内の反乱を招き、キリスト教拒絶の歴史をたどったとしていることです。
そう思いが至ったとき、その順序を間違えてはならないとしているのです。
ぺリーが「合衆国で何度か聞いた」とするのは、このウィリアムズの信念がパーマーとの書簡の往来で、言葉の端々に現れていたものと思われます。
当時、シーボルトは、ペリーに対して「日本をよく知る私はきっとあなたの役に立てるはず」と通訳の座を買って出ています。しかし、ペリーは、シーボルトにはきっぱりと断り、ウィリアムズに対して「あなたのためにその席を開けておきたかった」と最初から心に決めた人選だったと明言しています。
ウィアムズは「自分は日本語を通訳出来るレベルではない」と断るものの、過去のそういった思いもあり、一ヶ月の準備期間を条件に、ペリーの要請を承諾します。

④ 主任通訳ウィリアムズの合流

その後、ウィリアムズは順調に支度が整い、彼のために用意されたサラトガ号に乗り、5月12日マカオを出帆します。沖縄には5月26日、ペリー艦隊と同じ日に沖縄は那覇の港に到着しています。
ペリーとしては、一足先に沖縄に入り、琉球政府と接触をはかるつもりでいましたが、上海で音吉に送還する日本人を奪われてしまうアクシデントに見舞われ、出発が遅れてしまい、はからずも同じ日となってしまったようです。
一方ウィリアムズは、順調に準備が整い約束通りマカオを出発します。彼は、旅立ちを前に、次のような一文を記しています。その時には、心の整理も付き、覚悟を決め、闘志を漲らせて壮途に就く心境を以下のように記しています。

翌11日の夕暮れには、16年前の昔モリソン号で出航したその同じ地域をめざして壮途に着くのだ。その当時いっしょだったキング氏、ギュツラフ氏、インガソル船長、それに3人の日本人はすでに他界している。提督は「当時モリソン号が受けた不当な処遇について改善策をはかるのが、今度の訪問の目的の一つになっているので、その船に同乗したあなたは私と同行したい気持ちに駆られたであろう」

『随行記』より

このように、ウィリアムズは、16年前を思い浮かべ感慨を込めて記しています。彼のこの記述から、ギュツラフとインガソルの死は本書で既に述べたところですが、キングまでもが他界していることがここで明らかになっています。また3人の日本人とは、宝順丸の岩吉、肥後組の寿三郎、熊太郎のことです。
ここには、ペリーが「当時モリソン号が受けた不当な処遇について改善策をはかる」ことであるとウィリアムズの通訳採用について説得に当たっていたことが語られています。
ペリーから唐突に日本遠征の通訳に要請されたときは「何故自分が」と躊躇もしましたが、ここには過去の思い出とともに、雪辱を誓う姿がありました。

(5)キングの指摘かペリーの白旗

① 浦賀入港

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