「旅路」 ショート×ショート(2219文字)

香港での出張を終えたシンジは、雲を眺めていた。きっと、ただの雲ではなく、うんと、空に近い、生い茂るように広がる雲の海だった。地球の向こうから、滲むように揺らいだ夕焼けが、雲海の凹凸に漂っている。

―シンジ。今がいちばんしあわせでしょう。あなたなら、きっと大丈夫さ。

先月、結婚式を挙げたばかりのシンジは、現地の人間に言われたばかりの言葉を思い返していた。その台詞は、「ハピネス」と確かに英語で言われたはずなのに、頭に繰り返される言葉は、不思議とはっきりとした調子で、残り続けている。

現地で、何度も顔を合わせているアメリカ系の血が混じった香港人のエディーは、気さくな好青年だ。長期に渡って進めていた契約を決めた後、それはまるで悪意のない談笑のひとつでしかなかった。シンジにとって、良好な関係のビジネスパートナーであるはずの人間に、漠然とした不安を抱く理由が、どうしても分からなかった。

―シンジ。しあわせでしょう?

なぜ、上手く笑うことができなかったのだろう。

日本への便に乗り込み、香港に激しい雨を降らしていた黒い雲を突き抜けると、途端に、眩い光が、シンジを包み込んだ。ようやく、帰路についたシンジは、再生され続ける言葉の中で、しばらく、その場所を眺めていた。目の前に広がっていた真っ新な光の海は、仕事をしていた異国の地とも、目的地である母国とも、隔たれた世界に見えた。

…頬を伝っていた涙が、手の甲に落ちた時、シンジはようやく意識を取り戻した。なぜ自分が涙を流しているのか。シンジは、自身から零れ落ちた涙を拭い、空に近い場所を眺めた。なぜ涙を流していたのか。シンジは、ようやく、その意味を理解し始めた。そこは、どこでもない、帰路の途中だった。

ももこが死んだのは去年の冬だった。

ももこは、シンジが高校生の時に共に暮らし始めたダックスフンドだ。シンジは幼い頃から、犬がとても大好きだった。きっと、生き物が好きな父親の影響だった。高校生の時に、友人の飼っていた犬が子犬を産んだ。ももこはその六匹の中の、いのちだった。頼りない足取りをいのちの喜びに身を任せて動き回る子犬の中から、シンジは、一番穏やかな表情をした、いのちを選んだ。ももこは、たった一匹の女の子だった。

産まれて三か月のいのちは、親元を離れるのを寂しがった。シンジの家族の車に乗せられた時、ももこは、何度も、何度もか細い声で鳴いていた。生き物を好きな人間だったからこそ、シンジの父親は最後まで、犬を飼うことに反対だった。それでも、半ば強引にシンジが貰ってきた新しいいのちを、見た瞬間からきっと、愛し始めた。寂しい想いをさせないように、母親も、そして兄弟達も、家族として心の底から愛し始めた。ももこは、大きくなるにつれて、シンジの家族を、家族だと思い始めた。

シンジは、やがて大人になると、実家を出た。シンジはきっと、「しあわせ」になりたかったからだ。その為には、人間として、生きていくことが必要だった。シンジは、不器用に、懸命に生きていた。挫折も人並みに味わった。他のほとんどの人間と、同じように。シンジは、仕事に夢中になり、やがて、愛する人と一緒になった。

…気が付けば、シンジは、二十八歳になっていた。ももこは、十二歳になっていて、肝臓を悪くして、あっけなく死んでしまった。ももこの最期をシンジは異国の地で知った。両親や、他の兄弟に囲まれて、ももこは息を引き取った。シンジは、田舎に帰ると、眠るようにいのちを終えた、ももこの隣で一晩を共にした。

シンジと家族は、ももこを。

彼女のいのちを、最期まで愛していたのだ。

―しあわせでしょう?

波を立てる雲の合間に、光が駆けた。

この場所で、シンジははっきりと、思い出した。喋りかけると、首を傾げて、必死に家族が伝えようとしていることを聞き取ろうとする、あの子の姿を。

ーしあわせでしょう?

繰り返される台詞は、心とぶつかり、言葉になった。

「…しあわせだった?」

…ずっと聞きたかったことだった。シンジはたまらなく怖かった。あの子は。ももこは、しあわせだったのだろうか。遠く離れた場所にいってしまった、彼女に聞きたいことだった。シンジは何度も、祈り、同じ言葉を呟いた。揺らぐ世界に、光が降り注ぐ、この場所で。彼方に見える光に向かって、何度も届かせようと、呟いた。

愛するいのちが失われた世界で生きていることが、たまらなく怖かった。

雲の下には、まだシンジの生きている世界が広がっている。愛していたいのちを、失ってもなお、残されたいのちは、懸命に動き続けている。シンジは、まだ旅の途中だった。いずれ迎える終着を待つ、ひとつのいのちに過ぎなかった。

雲海は遠く、果てまで、光の波を打ち続けている。

「愛しています」

シンジは、伝えたかった。

シンジが、ももこという、いのちと巡り合い、しあわせだったことを。

家族が、ももこを心の底から愛していたことを。シンジは、空に近い、この場所で、何度も、何度も、祈りを捧げ続けた。

空港の到着口には、手を挙げて、とある男を笑顔で呼び止めた女性がいた。

その女性は、男が持っていた荷物を、自然に、手助けをするように抱えた。二人は一緒に並んで、歩きはじめ、出口へと向かっていく。

しかし、少し歩くと、男は突然、立ち止り、彼女を呼び止めた。真剣な眼差しを彼女に向けて、男は口を開いた。

「ありがとう」

こうして、旅は、まだ、紡がれていく。

残された者の旅は、繋がっているのだ。

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