「春の陽気」 ショート×ショート(5769文字)

 


 あの子を、求めている。


 時刻は七時四十二分。駅に向かって、一直線に伸びている大して活気の無い商店街。沿道に植えられたソメイヨシノが、淡い桃色の花びらを懸命に咲かせ始めた。背後から光輝く太陽が、忙しなく廻る通勤の人の流れを、穏やかに包み込んでいる。商店街を歩く人々の顏は、どこかぎこちなく、機械的だ。
 いつもと変わらない気持ち良く晴れた春の一日だった。
 当たり前のように、くたびれたスーツに身を包んで、この商店街を抜けて駅に向かう。途中、市場で卸されたばかりの新鮮な魚が、氷が敷き詰められたショーケースに詰め込まれていく様子を見る。隣に続く八百屋も同じだ。美容室の前に置かれた、ガラス張りの赤と青と白の三色の棒が元気に回っている。始まる生活に取り囲まれて歩んでいく。ふと、商店街を横切るようにして、艶々と光るランドセルを背負った子供達が列を作って、目の前を通り過ぎていく。当番の母親が、子供の安全を見守るように、後ろをついて歩いていった。こんな素晴らしい陽気だ、頭のおかしな奴から守ってやらねばならない訳だ。微笑ましい、賑やかな行進に、思わず頬が緩んでしまう。それは、変わらない、いつもの日常だった。

 初めて見たのは、ちょうど一年前の、こんな季節だった。

 その日は、今日の様にすっかりと晴れてはいたが、春風が優しく吹き荒れていて、弱弱しく萎びた桜が、桃色の視界にふわりと舞っていた。確か、それは、随分と美しい景色だった。
 あの子は、入り乱れる桜に紛れて、現れた。
 黒く長い髪を、風に自在に触れさせて、ママチャリのような銀色のみすぼらしい自転車に、どういったわけか、えらく行儀よく座り、背筋が天へ伸びるように真っ直ぐに伸びていた。必ずマスクを着けていて、その肌は透き通るように、とても、白い。目元は恐らく上手なメイクをしていて、二十歳を迎えていると言われても、何ら疑う余地が無い程、彼女は大人びていた。身に纏う制服と、似合わない自転車にまたがる姿を見て、彼女は高校生なのだと気が付く。桜が視界に散りばめられている。すれ違う高校生はたくさんいたが、あの子とは違い、幼く見えた。
 あの子は、どうも、美しかった。
 つまりは、この日を境に完全に惹かれてしまった。名前も知らない、年も離れたあの子を待ち侘びては、商店街を駅に向かって毎朝歩んでいる。あの子を見ると、どうしても意識してしまう。何でもない朝の日常が、あの日から光を帯びているような気がした。
 視線の向こう、擦れかかった商店街の看板を潜り抜けて、今朝もあの子が現れた。まだ二百メートル位は離れているだろうか。ここまでなら、彼女の漕ぐスピードを考えると、こちらがゆっくりと歩んでいれば、すれ違ってしまうまで時間はたっぷりとある。歩みを緩めて、徐々に大きくなってくるあの子の姿を、じっと、見つめる。ああ、また春を迎えられて良かった。あの子は今年もまだ高校生のようだった。朝陽に照らされたあの子の姿は、今日もどこまでも美しい。彼女の姿はどんどん大きくなっていって、次第に、鮮明になって、目の前に現れる。
 瞬間、息を呑んで、彼女の顔を見る。
 整った姿勢、前だけを見つめた瞳、マスクを付けていても分かるすうっと、伸びた端正な鼻。あの子はどこか違う。どこにも、まだ染まっていない。そんな気がする。彼女が通り過ぎて、その後ろ姿を目で追うと、ふと、情けない古びた自転車に、マジックで名前が書かれているのに気が付く。「伊藤」。それは確かに、「伊藤」と書かれていた。ああ。それがあの子の名前だった。
 ホームに上がって、動き始めた街を見ながら、暖かな熱を感じる。しばらく目を閉じていると、いとも簡単に、あの子の姿を思い浮かべられた。
 そういえば、いつか、あの子は同年代の友達と一緒に自転車を漕いでいた。その日ばかりは、身に着けていたマスクを外して、整った顔を露わにしていた。唇に塗られた赤色がおそらく流行のビビッドカラーで、彼女の澄んだ真っ白の中に、上手く馴染んでいた。そうして、彼女の笑顔を初めて見ることになった。どうも大人びていた彼女の、まだあどけない笑顔が、際限なく可憐だった。友達の前で、あんな笑顔もできるんじゃないか。あの子、いや、伊藤か。いつも一人だから心配していた。彼女は、まだ高校生じゃないか。
 白線の内側までお下がりください、そんなアナウンスで、ゆっくりと瞼を開ける。銀色の四角い箱の中、自分と似たような姿の男女が、つまらなそうな表情を浮かべて、ぎゅうぎゅうに押し込まれている。扉が開くと、後ろに並んだ人の波に押し込まれるようにして、身体が、吸い込まれていってしまう。
気が付くと、身動きが取れないでいた。圧迫感のある空間に引き込まれていく。流れに従い、そのままに、いつの間にか動けなくなる。首元に閉まるネクタイが、どこか、息苦しく、辛うじて動かした手で、どうにかそれを緩める。

 俺だって、あの時は違ったんだ。
 今でこそ、こうして短く切りそろえられた黒髪で、スーツに身を着込み、ネクタイを締めて、電車に揺られているが、昔は、もっと、俺だって、違ったんだよ。多分、自信があったんだ。俺は、なにか。なにかが、できるんじゃないかってさ。サラリーマンになっちまって、口うるさい上司や、頭のおかしい客なんかに、だんだんと慣れていってしまったけれど。…まあ、それは、誰だって通る道なんだろうが。俺だって、あんな子に気軽に話しかけられる。そんなことだってあったんだよ。

 目の前に、脂ぎった頭皮が見える。暖かくなってきたせいで、薄くなった頭皮に、ありありと透明な汗がべったりと塗られ、露わになった肌に、不健康そうな髪の毛が纏わりついている。四十代半ばのおっさんだった。頬に微かな髭の剃り残しが見える。随分と近い距離で顔色ひとつ変えることの無いまま、電車に揺られている。おっさんの彫刻の様にしかめた顔を見る。何も関係ない。どうも、そんな風には見ることができない。…昔の俺だったら?嫌な顔のひとつでもして、友達とけらけらと笑いあったりできたんだろうか。いや、それは、幼いということだ。子供だということなんだろう。人々を詰め込んだ電車は、そのまま会社へと向かう。何一つ身動きが取れないままに、会社へと運ばれていく。
 ぎゅっ、と力強く目を瞑って、あの子を描く。ああ、なんて、君は。思い描いた彼女は、相変わらずどうしようもない程に美しかった。これは、恋なんだろうか。この感情は何と呼べばいいのだろう。

 その日は、朝から部長が張り切っていた。キーボードをテンポ良く打ち込んでいる中、エンターキーを強く叩く音と、時折、ふぅぅぅ、というひどく臭そうな、長い溜息が交互に聞こえる。部長は大きい契約を先週決めたばかりだ。そうも悪くない表情をしているのは、今月の仕事は部下にプレッシャーを与えるのみ、そういうわけだ。その日は、月末の金曜日だった。部長が部内のメンバーを連れて飲みに行く日だ。自分の数字が達成された月末は、決まって部長はみんなを誘ってくる。先週、部長の前に不意に転がってきた数字のせいで、僕は友人との約束をキャンセルしていた。部長の机の前に向かい合うようにして一列に並んだ机に座る営業部隊には、少しだけ重たい空気が流れている。その空気を感じ取っている事務の女の子達も、心無しか、鳴り響く電話に出る声がいつもより小さく懇切丁寧だ。
 目の前のデスクは細かい金額の見積書で散乱としている。先週、計上する予定だった数字を落とした。取引先の都合で来月に契約になったのだが、それでも月末の締日までには、到底達成できそうにない目標数字が、パソコンの画面にあっさりと映し出されていた。営業会議で、どう報告すべきか、いや、どうすればあの小言のような文句は減るものだろうか。やるはずだった見積書は書類の山のどこかにあるが、探し出す気も起きずにそんな事ばかり考えている。来月は代わりに、数字が大きく乗る?今月ショートした分は取り戻せる?事実は事実だ。では、どう伝えるのが正解なのだろうか。波風が立たないのだろうか。こんな考え方をするようになったのはいつからだ?大人になっているのか?本当にこれでいいのだろうか?ええい、とにかく、今晩の飲み会では、部長の隣に付いて回ろうじゃないか。
 薄く開けられた窓の隙間から風が入り込む。春の陽気に、誘われているような感じがした。ぽかぽかとした陽光は、包み込むように暖かく、頭を重くさせる。あの子は、おそらく授業を受けている。パソコンの画面を切ると、足りない数字に追われるように外回りに飛び出した。
 外は、未だ明るく晴れていた。あの子を見たのも、確かに、こんな時期だった。

*

 千鳥足で、駅からこの商店街をふらついている。春の夜は、昼間から引き続きすっかりと晴れていて、長細い雲が月に微かにかかり、気持ちの良い風が、家まで続く商店街に吹き渡っている。
 外回りから戻ると、部長はいつものように、張り切った声でみんなを飲みに誘った。結局、数字はどうにもならなかった。そこからの立ち回りが肝要だった。
 部長に気持ち良く飲んでもらって、ほわほわと視線が宙を舞い始めたのを確認してから、実は、と打ち明けた。焼酎と水の比率をひっくり返して、濃い目に割ったおかげで、部長はにんまりとした顔を崩さず、数字がショートした理由を聞いているフリをして、理解できていなかったようだった。これはどうやら正解ではないだろうか。報告済み。報連相。そんなわけで営業会議は堂々としていようじゃないか。それにしても、部長に合わせて飲んでいたから、視界が歪んでいる。包み込む穏やかな春の陽気も相まって、身体が浮かんでいくようだった。
 外灯が等間隔に離れて地面を照らしている。沿道には早く咲き過ぎた桜の花びらが、地面に散りばめられていた。商店街は、朝の喧騒をすっかり忘れてしまい、どの店もシャッターが降りている。時刻は、夜の十時過ぎだった。
 急に強い風が向かいから急に吹き渡り、散りばめられていた桜が一斉に、舞い上がった。月明かりが、いつもの景色を幻想的にさせる。打ちつけられた突風に、僕の意識は急激に、研ぎ澄まされる。顔中に押し寄せる甘い桃色が視界を染めた。
 辛うじて、目を開けると。
 あの子がいた。
 視界には、夜桜が舞っていた。思わず、息を呑んだ。
 文化祭の準備か、部活動の帰りか、塾の帰りか、はたまた、彼氏との密会の後かもしれなかった。いいや、そんな事はどうでもいい。あの子が、ここにいる。例のくたびれた自転車は、ひいて歩いていた。今日は、マスクは身に着けていない。微かに紡がれた灯りの中、あの子がこちらに向かってくる。朝とは、互いに逆方向だった。
 …いや、ひょっとすると、あの子は、待っていたんじゃないだろうか。
「あっ、あのぉ」
 言葉を口に出していた。気が付くと、彼女に話しかけているようだった。
 驚く様に、目を丸くして、彼女はぐるりとした黒目をこちら向けていた。だが、それこそ怯えているようには見て取れなかった。もしかすると、僕だけではなかったんじゃないだろうか。
「い、いとう、いとうさんだね。ははっ。いつも、ああ、ごめん、ほら、すれ違ってるだろ」
 心臓の音が聞こえる。散りばめられた花びらは、鋭い風の音と共に、足元を過ぎ去っていく。声は、俺の声は、あの子に届いているのだろうか。
「あ、ご、ごめん。突然、あ、こんな事あるんだね、嬉しいよ。驚いたかい。はは、俺もだよ。不思議だよ」
 あの子は、俺を見ている。ほのかに艶々と潤った唇が動き、輝いた気がした。
 聞き取れない。風の音が強いせいだ。彼女の声が聞こえない。視界に桜が舞い込んでいく、なんて可憐なんだろう。君も同じ景色にいるんだ。
 ほら、聞かせてごらん。君の声を、君は、何を、きみが。おれが、おれは。
「…おれは、君を求めてるんだ」
 静寂が流れた。世界で最も美しい時間だと思った。
「きめぇんだよ、おっさん」
 彼女の瞳が俺を見ている。遙か彼方を見ている。
 それは、真っ直ぐに、交じり気が無い輝きをしていた。
 ただ、それだけを求めていた。
 もう二度と触れることができないものへの、底知れぬ欲だった。
 彼女の言葉に呼応するように、迷いなど無いどこまでも鋭い風が商店街を突き抜けて、再び桜が視界に舞い上がった。
 時間をかけて落ちていく萎びれた花びらの中に、自分を見た気がした。それは、抗えず、どうしようも無いままに、その身を重力に任せて音もなく沈んでいく。桜が地面に落ちきったことに気が付くと、彼女は目の前から消えていた。酔いに身を任せて、自宅を目指して商店街を進んでいく。
 ふと、シャッターの降りた美容室の前に、三色のあの棒が大人しく立っていることに気が付いた。湾曲したガラスに映しだされたのは、シャツを乱し、ネクタイを緩めた、どこまでも情けない姿をした男だった。

*

 時刻は七時四十二分。駅に向かって、一直線に伸びている大して活気の無い商店街。沿道に植えられたソメイヨシノが、淡い桃色の花びらを目いっぱい輝かせる絶頂を迎えた頃。長年着続けたスーツを纏い、扉を開く。今日も変わらずに、駅を目指して歩みを進める。
 視界の奥に、あの子は、現れる。
 黒く長い髪をたなびかせ、姿勢は整い、今日も変わらず、いつもの自転車に乗っている。あの子は今日も変わらずに、真っ直ぐ、前だけを見ている。すれ違う瞬間、鼓動は高鳴っていくが、あの子がこちらを見る気配は無い。ああ、とても美しい。すかさず彼女を目で追ってしまう、彼女の背中と、歩いてきた商店街の入り口が見えた。すると、そこには、

 昇り始めた太陽があった。

 彼女はきっと明日も進んでいく。いっとう白く高い光へ向かっていく。

 陽気に当てられていたのだろうか。ふと、商店街を横切るようにして、ぴかぴかに光るランドセルを背負った子供達が列を作って、また目の前を通り過ぎていく。思わず、頬が緩んでしまう。
 子供が通り過ぎていった電柱にひどく錆びついた看板がぶら下がっていた。
「変質者!注意!」
 看板に描かれたサングラスとマスクをした不審者が笑みを浮かべながら、登校中の子供達を羨ましそうに見ていた。それは随分と、羨ましそうに。



あの子を、求めている。

三十歳になった、春の陽気に包まれた日のことだった。



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