2月13日 楽器のアフォーダンス

帰ってきてごはんを作りながら細野さんの「Medicine Compilation」、食べながらは毎晩楽しみにしている奥田民生さんのカンタンカンタビレの動画をみる。楽しそうに録音しているのがいい。

お風呂に入ってから、しばらくくりかえしビブラフォンのフレーズを練る。ジャズ的なアレンジというオーダーをクリアするとなると、どうしても少しフレーズが複雑になってしまい、作ったメロディを練習して仕上げ、聴いてみてまた修正、を何度も何度も。

作業を終えてストレッチをしながら、ボビー・ハッチャーソン「Happennings」を聴く。あらためて一級のビブラフォン演奏を聴くと、ぼくが作ってしまっているメロディは、どうやらビブラフォンという楽器の演奏性とは少し違うものになってしまっているということに気がつく。それもそのはず、キーボードにサンプリングして演奏しているものだから、指で演奏するニュアンスがどうしても出てしまう。マレットで叩くのとはわけが違う。

ぼくがサンプリングされた楽器の演奏があまり好きではないのは、このことがとても大きい。いまでは簡単にキーボードでギターもベースもオーケストラも演奏できてしまうけれど、あたまでっかちの演奏は楽器がもつ限界をすらっと超えてしまう。それを自由だ、ととらえることができるのかもしれないけれど、その楽器の音を使う意味が揺らいでしまう気がする。

ROLIから出ているSeaboardは、キーボードという操作性を一段進めたものとして、新しい演奏スタイルを奏者に提供しているようで、とても気になっている。でも、前にSeaboardでエレクトリックギターの音を出し、ジミ・ヘンドリックスを演奏しているひとの動画を観たのだけれど、それじゃあなぜギターを弾かないんだろうとぼくは思ってしまった。

それぞれの楽器にはそのかたちでしかできない演奏があるはずで、ギターがおもしろいのはコードフォームによって鳴らすことができる和音の限界があることだと思うし、逆にピアノのおもしろさは10本の指に対してそれぞれの音が平等に並んでいることだったりする。デザインや心理学ではアフォーダンスということばがあるけれど、楽器のアフォーダンスというのも考えてみるとおもしろいテーマだと思う。

眠りにつくまでJohan Johansonを聴こうと思う。亡くなってしまって、とても悲しい。

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