2月26日 (火) 自我を摘む

起きてりんごをかじりながらきのう録音したマンドリンを聴いてテイクを選んでいく。まわりの音に比べてどうしても楽器はじめたての感じが出てしまい、やっぱり録り直すことにする。

昼ごはんに赤かぶとアボカドのサラダ、玄米ごはん、豆腐、納豆を食べて、1時間半ほどマンドリンを弾く。夕方ごろになって書類をもらいに出かける。

行きと帰りの電車で読んでいた佐藤卓さんの「塑する思考」がとてもおもしろい。デザインの本を読んでいるときにもっとも食い入るように読んでしまうのは、デザインということばについての誤用の指摘と、デザインとアートはまったく別ものだということ、そしてデザイナーにとって自我を出すことがいかに危険か、というもの。この本もそれらについてとても丁寧に書かれていて、とくに明治おいしい牛乳のパッケージデザインの裏話など、制作にあたっての考え方がドキュメント的に書いてあってとても参考になった。

ぼくにとってなにかをつくるということにおいて身近なのは音楽なので、いつもデザインの本を読んでいると、だれかに頼まれて音楽をつくるときのあたまの使い方について考えてしまう。きほん的に頼まれてつくる場合は主役は別にいるので、あくまで純粋に技術的に演奏され、録音、編集を施された音楽というプロダクトつくる、といった感覚で取り組むようにしている。ぼくが個性を出すことはそこでは求められていないので、デザイナーが仕事に取り組むように、あくまで目的であったりスコープを設定した上で、言語化できるような理由を組み立てながらつくっていく。

それでもここ最近おもうのは、あれ、ぼくにとって音楽ってそういうものだったっけな、ということだった。これまで頼まれてつくる機会は少なくなかったけれど、どれも報酬というものはほとんどなかったのできほん的には無償、当然仕事ではない。さまざまな要求に答えることでたぶんひとりでつくっているだけの場合とは違う技術を身につけることはできたのかもしれないけれど、それは本当にぼくが身につけたいことだったのだろうか。ただじぶんに向き合うことから逃げるために、技術的なことやデザイン的な考え方に逃げているだけじゃないのだろうか。

佐藤さんは本の中で、自我の芽を早いうちに摘んでおかないと、それは成長して手に負えなくなる、と書いている。それについてとても納得しながらも、それって仕事においてだよなあととてもおもう。佐藤さんも書いているけれど、きほん的に仕事というものはなにかとなにかを繋ぐものであるので、そこに自我や自己表現をいうものは必要ないとおもう。音楽制作の手伝いをこなしていくうちに、いつしかそういったやり取りを通した制作の工程を、仕事のようにこなせるように、もしくは、そこに自我がはいることでじぶんの気持ちが揺らいでしまうことから逃げるために、ぼくはデザインや仕事の論理を持ち出していただけなのかもしれない。

家についてからは録音したマンドリンを聴き返してみるけれどやっぱりしっくりしこなくて3時間ほど録り直す。そのあと大根とほうれん草のスープ、にんじんサラダ、玄米ごはんで夕飯にする。すぐにお風呂に入って、本を最後まで読んでしまった。

摘んでしまったぼくの自我はどこにいったんだろうと考えながら、けっきょくはじぶんの中から出てくるものを、じぶんのあたまとからだをつかってつくっていくしかないのだなとおもう。今週は時間がないのでできないけれど、来週はじぶんの制作のペースを上げたい。

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