或る男の晩酌【バータイム編】

 ここ数日で、一気に春めいてきた。
 若干の花粉症持ちとして、暖かくなるのは鼻炎と表裏になるから複雑な気分だが、桜が咲く頃には鼻炎も治まるので、やっと春を楽しめるようになる。
 ちなみに、桜が好きか、と聞かれれば「割と好き」といったところか。満開の姿は立ち止まって見惚れるし、散り切る直前の葉桜も風情があっていい。
 何故、一番に推せないのか、って?年に一度、数日しか楽しめないからだ。儚いものは美しいが、心を移すには、いささか辛い。そういうものだ。

 話が逸れてしまった。そう、私は今、その葉桜を眺めながら歩いている。午後の河川敷は、薄曇りの天気とあいまって気分良く散歩ができるのがいい。また、新緑の緑も、日々モニターと書類に汚されている目に、心地よい癒しをもたらしてくれる。

 川沿いにある和菓子屋が目についた。
 残念ながらお腹は空いていないし、散歩の途中なので、ここでは買わず、眺めるだけに留める。ここの和菓子は大好きでよく買うが、一つ二つ買うだけでは止まらなくなる。それに、良い和菓子は目でも楽しませてくれる。まるで季節を切り取ったかのような、華やかな造形は芸術の一つと言ってもいい。
 気楽に眺める私の鼻に、フワッと何かが香った。懐かしいような、それでいてお香のようではない、妙に心に残る香り。
 「桜餅だ」
 出来立てなのだろう、桜餅を並べた容器が丁度店頭に並ぼうとしている。午後のこのタイミングで、この量は到底捌けないだろうから、何か予約注文でも入ったのだろう。容器が次々と袋詰めされていく。その容器から漂う香りのおすそ分けが、何故か無性に私の欲望に火を点けた。私は、顔馴染みになった店員に軽く会釈をし、和菓子屋を後にする。
 「飲みたいな」
 私の頭には、早く帰ってシャワーを浴び、着替えて飲みに行くことしか浮かんでいなかった。桜餅を食べ損ねた少しの悔しさ、この矛先が、桜とは縁のないはずのお酒を飲みたいという思考になるのは、大多数の他人には理解できないだろう。
 「最近、飲んでないなぁ」
 散歩というより、ウォーキングに近いペースで私は家路を急いだ。飲むなら、あの店だな。

 エレベーターを降りると、黒ベストにネクタイをキッチリと締めた店員がにこやかに出迎えてくれた。私は笑いながら軽く会釈する。すぐにカウンターに通され、上着を預けた。開店間もない店内は、どうやら私が一番乗りのようだ。
 よく磨かれた一枚板のカウンターテーブルにはスツールが7つ。二人用のテーブル席が二つとボックス席が奥に二つ。こぢんまりとしたオーセンティックバーだが、その小さい世界が私のオアシスだ。
 「ご無沙汰しています」
 と、お手拭きを使いながらマスターに挨拶する。にこやかに挨拶を返した彼は、歳のころは私とそんなに変わらないが、この店ともう一つの店を持つやり手の経営者でもある。そして、若い頃から私に酒の道を開かせてくれた、師匠のような存在だ。
 食と酒の知識と情報、そして資格を山ほど持ちながら、その肩書きをひけらかすことなく、ただ美味しいものをお客さんに提供したい、という彼の思想が私をこの店に通わせる。
 「ウオツカトニックをお任せで。それと季節の魚のカルパッチョをください」
 この店での最初の一杯は決まっている。何度か通ううちに、定番となってしまったロングカクテル。先鋒、といったところだ。
 楽しみに待つ私の目の前に、灰皿が置かれた。この店では喫煙ができる。愛煙家にとってこれほど有り難いことはない。ポケットからマールボロ・ミディアムとライターを取り出すと、一本咥えて火を点けた。吐き出される紫煙が、フワフワと天井へ向かっていく。
 もちろん、喫煙できるからと言ってバカバカ吸う訳ではない。カウンターの並びに他のお客がいたら吸っていいかを必ず確認するし、混み合ってきたら吸わないことにしている。ここは私だけの楽園ではない、みんなの楽園だ。最低限のマナーと気遣いを欠いて、後ろ指をさされながらの失楽園にはなるのは御免だ。

 のんびり一本を吸い終えたところで、ロンググラスがコースターに乗せられ、目の前に運ばれた。ウオツカトニックだ。私はグラスを目の高さに掲げて
 「いただきます」
とマスターに向けて言い、グラスを傾けた。炭酸の軽い刺激と、程よい甘みと酸味、柔らかいがしっかりとしたアルコールの感触を楽しみ、喉へ滑らせる。家ならば「クゥーッ!」と叫ぶこと間違いないが、ここでは軽く一息をつくのみに留める。
 美味しい。華やかではなく控えめなバランスにしているのは、私の好みに合わせて作られているのみならず、料理との相性も考えられているからだ。二口ほど飲んだところで、料理が運ばれてきた。

 「サワラ…炙り、ですか?」
 皿の上に、綺麗に盛り付けられた刺身の皮目に、軽い焦げが浮かんでいる。マスターの顔には満面の笑み。料理をこよなく愛するマスターと、こういうやり取りをするのは本当に楽しい。
 氷で締め、そのまま数日熟成させたサワラは、しっとりした食感で旨味が強く、また炙った皮目の香ばしさが良いアクセントになっている。よく咀嚼して飲み込み、カクテルを一口。素晴らしい。
 味付けは皿の何カ所かに描かれた細かい岩塩と、添えられた小皿の醤油ベースの自家製カルパッチョソースの二つ。どちらも良いが、今日は岩塩の方が合うかな。マスターのサワラ情報を聞きながらじっくり味わい、喉を潤す。贅沢な時間だ。

 「次は、ダルウィニーを水割で下さい」
 カクテルとカルパッチョを楽しんだ後は、私はウイスキーのハイボールか、水割を飲むことにしている。料理を反芻するかのように思い出しながらの煙草の一服に、何故かウイスキーが良く合うのだ。共感を得られるとは思っていない。しかし、私はこうやって楽しみたい。そこは理解して欲しい。
 運ばれてきたタンブラーの中身を軽く振り、口をつける。甘く、柔らかい香りと飲み口、喉を通った後の優しい後味。この言葉だけを聞いて、まさかウイスキーを語っているとは思うまい。
 少しだけ解説すると、ダルウィニーはシングルモルトウイスキー、というものに分類される。このタイプのウイスキーは良くも悪くも癖が強いのが特徴だが、ごく稀に柔らかい味わいのものもある。こいつを水割にすると、他のウイスキーでは味わえないほど、不思議な甘さと優しさを併せ持った飲み物が生まれる。

 この飲み方を教えてくれたのは、かつて私が心を寄せた女性だ。酒場で出逢い、共通の趣味を持っていたこともあり、妙にウマが合った。取り立てて何かアクションがあった訳でもなく、そのまま自然と会わなくなったが、あの時の私は確かに、彼女に恋心を抱いていた。ひょっとしたら、私の隣にいるのは妻ではなく、彼女だったかもしれない。言っておくが、結婚前の事だから他人からとやかく言われるような話ではない。
 普段の私が、過去の思い出話をすることはない。時間は戻らないし、もしもの話はしない主義だ。でも、酒を片手に、煙草をくゆらせながら物思いにふけるのも、たまにはいいものだ。それに、誰にだってそんな話の一つや二つはあるだろうし、語りたくなるタイミングはあるだろう。

 「冷凍のズブロッカ、ストレートで下さい」
 私のオーダーに、マスターがおや?という表情をした。そういえば、この店で初めてオーダーしたかもしれない。そんなマスターに、私は一言添えた。
 「桜餅を食べ損ねましてね」
 苦笑いを浮かべる私の言葉に得心がいったのか、ニヤリと笑うマスターがショットグラスを棚から取り出し、足元の冷凍庫からボトルを取り出した。
 ラベルにバイソンのイラストが描かれたボトルの表面に、うっすら霜が下りた。グラスにトロリとした澄んだ液体が注がれる。チェイサーの水と共に、グラスが私の前に置かれた。
 ズブロッカ。ポーランドのウオツカだ。今日は、このお酒を飲むためにここに来たと言っても過言ではない。ショットグラスを手に取り、口元に近付けて香りを楽しむ。一口含み、喉に通す。冷たい中にアルコールの熱い刺激と、柔らかい香りが体内に入る感覚が心地良い。
 「これだよ」
 不思議なことに、このズブロッカから漂う香気は桜餅と非常に近い。ボトルに入った香草からこの風味が生まれると聞いたことはあるが、詳しいことは分からない。だが、この香りに惹かれたのか、日本でもファンの多いお酒だ。大人の桜餅、なんて呼ぶ人もいる。
 私も以前は自宅用に買ってはいた。しかし、毎日飲みたいという訳ではなかったことと、保存方法に難があることから、最近は買っていなかった。
 私はウオツカやジン等の蒸留酒を、基本的に冷凍庫に入れて保管する。極限まで冷やしてストレートで飲むスタイルが好きだからだ。しかしズブロッカの場合、中に入っている香草が冷凍するたびに凍って折れてしまい、最終的には瓶の底に澱のようにたまっていく。濁ってしまった最後の一杯を見るたび、悲しくなってしまうのだ。
 家で飲むお酒と、店で飲むお酒は同じでなくてもいい。お酒のプロに管理されることで輝くのなら、無理をする必要はない。かつては好きなお酒を買い漁った私も、今はそのあたりの道理に従っている。

 「最後に、タンカレーを同じようにストレートで下さい」
 ズブロッカを飲み干し、残り香を楽しんだ私はマスターに注文をした。鮮やかなグリーンのボトルから、同じようにトロリとした液体がグラスを満たす。ウオツカの後にジン。バーでの飲み方にしてはいささか型破りな作法だが、私はバータイムの最後をジンで締めることにしている。これだけは譲れないところだ。まぁ、たまに浮気心でラム酒を貰うこともあるが、そこは御愛嬌、ということで。
 注がれたジンを、今度はクッと一口含む。爽やかな風味と、冷たくて熱い喉越しがたまらない。酒と煙草で混雑した口の中を、洗うようにすり抜けていく感覚が、私の背中をシャキッとさせる。酔ってフワフワした状態で帰るのもいいが、少なくともこの店では、背筋を伸ばして帰りたい。
 三口でジンを飲み干し、ため息を一つ。煙草に火を点け、ゆっくりと余韻を味わう。この時間が長く続けばいいのにと思いつつ、物事には終わりがあることを自分に言い聞かせた。
 「ごちそうさまでした。お会計をお願いします」

 屋外に出ると、冷え込むまではいかないが確かな寒気が身体を包む。ジャケットの前ボタンを一つ閉め、口中の温かな感覚を逃さないよう、鼻で空気を吸い込んだ。
 マスターは会計時、一口分のコーンポタージュスープをお客に振る舞う。冷たい飲み物で冷えた胃と身体を温めてくれる気遣いが嬉しい。ちなみに夏場はヴィシソワーズ、ポテトの冷製スープに切り替わる。心憎い演出だ。
 葉桜を愛でて、美味いお酒も飲めた。しばらくストレスと二人三脚だった私の心は、楽しさで満たされた。
 さぁ、帰ろう。

 と、バーの入るビルを振り返ると、一階に新規のお店ができていることに気付いた。そういえば、入るときには目にも止めていなかった。
 『伝説のすた丼』
 先ほどのオーセンティックバーとは対極に位置する店に、私は見入ってしまう。

 いやいやいやいや、待て。素晴らしく魅力的なのは分かるけど、この流れで最後に此処は無いんじゃない?

 私は酔いで幾分減った理性を総動員して、爪先を駅方向へ向けた。
 痩せ我慢ではない。ほろ酔いで食欲を開放するのは危険だ。この1年だけでも、何度失敗したと思っているんだ。
 次は、素面でここへ来よう。

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