見出し画像

声のない少女

『○○市立○○僻地保育所』
しっかり「僻地」と看板が出ている保育園で私は一年を過ごしました。県道に面したその看板のすぐ脇にある、子供が二人並んでやっと通れるぐらいの細い急な坂道を毎日通うのでした。

ずっと家猫状態で、人見知りの私が集団生活なぞに馴染めるはずもなく、一日一日を絶望と憂鬱さで満たされることしかなかったのです。ところで、近所には私を含めて5人の男の子が偶然にも同じ年長クラスにいたのです。そのクラスは紫組、年中クラスは青組、年少クラスは赤組と、赤と青、混ぜたら紫?子供にはちょっと渋い色です。

子供ながら初めての集団生活は驚くことばかりです。夏の雷様(らいさま)を怖がり、にわかに暗くなった昼間に泣く子供。冬のストーブで温められてアルマイトの弁当箱から強く漂う納豆を今か今かと待てない子供。積木を独り占めして誰にも触らせない子供。

これでもかと言うぐらい漂白された床と渡り廊下。塩素と糞尿と牛乳の混じり合ったような独特の匂い。保育園にたどりつく100メートルぐらいからでも目をつぶってもわかります。この場所が過去には村役場だった堅い仕事場は、いつしか幼い子供たちの匂いにつつまれてしまいました。

砂場はひとりで遊べる唯一の屋外活動。誰にも邪魔されることなく、橙色の移植べらと緑色のコップで創作に励みます。夢中になりながらも、ふとした視線に気づきます。
あれ?誰?こんな子いたっけ?青い桜の花びらの形をした名札をつけています。ああ……年中クラスの子でしょう。どうやら私が砂を固める様が気になるのか、じっと見ています。なんだか私の作品の良さに気づいてくれた、世界でたったひとりの最初のファンかもしれません。

ちょっと大きめの淡い黄土色の園児服で、まだ、見ています。
なんの会話もなく、いつのまにか、その子と二人で砂を固めていきます。そして、私が固めている間に、その子はコップに砂を詰めて準備をしてくれます。あなたは誰?

それから、砂場で遊べる時間帯が同じ時は、二人で遊ぶようになりました。
ちょっと日焼けした、涼しげで黒目がちな瓜実顔、頬がぷくっと可愛くて、平安時代なら、間違いなく美少女の類いです。そうです。私がこの世界で最初に見た美少女。

いつのまにか、砂場だけでなく、藤棚のテラスで子猫たちのようにじゃれあうといった急速な展開まで、まったくもって時間はかかりませんでした。そんな幸せな日々も、私の卒園で二人は会えなくなりました。気がついたことは、遊んだ記憶はあるのに会話した記憶がないのです。声を聞いた記憶がないのです。いったいなぜ?

さて、卒園して慣れない小学校生活も、1年通うことで、ようやく感覚を掴みはじめ進級したところ、あの砂場の彼女が入学してきたのです。当然といえば当然なのですが、その子は私に気づいていないようです。なぜだかとても寂しくなりました。

結局、それから9年間、私が中学を卒業するまで、時々、お互いに目があったりしたのですが、一切、会話もなく、それきりになったのです。

次の少女へ続く……

2012年1月 飼い猫を撮りたくてミラーレス一眼カメラを購入 | 現在は ライヴ写真を主軸に撮影 | 過去の私小説とそのイメージにあった女性を今後撮影予定