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家族が入院してわかったこと

父の脳梗塞さわぎで見えたもの・実感したことがありました。

母ではなく妻になる

母は理解しようと頑張り始めるとグルグルしてしまう人です。
今回も担当医の先生からお話があるたびにグルグルしてしまい、置いて行かれてしまう場面が多々。
でも決してトンチンカンな想いを巡らせているわけではないので、娘としてはじっくり話を聞いてあげることが必要だと思い、たくさん会話をしました。

その中で感じたのは、母は「母」で在り「妻」でも在るのだということ。

例えば病院から「ご主人がベッドから落ちてしまいました」と電話が来た時。
先生から「やっぱり手術をするね」と言われた時。
何が起きてるんだろう、もしものことが有ったらどうしようという言葉を無意識に漏らす様子は、完全に「妻」でした。

もしも私が年端も行かないお嬢さんだったなら、母は「母」として毅然としていようと思ったのでしょうが、残念ながら私はだいぶ良いお歳なので(笑)、家を守ることより純粋に父を想う気持ちが前に出たのだと思います。

それは時に「ちょっと落ち着いて~」と私を焦らせることもありましたが、今となって思うのは、両親にも恋愛をしていた時期が有って、それは後に家族として何十年も過ごしてきたとしても根強く残るものなんだなぁということでした。

父は穏やかになった

一方父は、60代男性が悩むという「定年後の在り方」に囚われていたところがありました。
まだまだ体力はあるのに仕事は終わり。性格的にご近所の何かに参加する事は向いていない自覚がある(熱血過ぎてもめてしまうタイプ)。
しかし有り余る気力体力のせいで家族に対して過干渉になってしまい、皮肉にもそれは家庭内での孤立を生みました。
「想いはあるのにうまくいかない」───父はどんどん不機嫌になり、テレビに向かって、あるいは運転中ほかのドライバーに向かって暴言が増えていきました。

そんなところに脳梗塞。

視界は歪み、看護師さんや面会の家族から言われる自分の言動は記憶にないものばかり。大好きだった運転だって、こまごました買い物だって、今後は出来ないかもしれない───。
強がってはいたものの、誰よりも不安だったことは想像出来ます。

「時々(こみ上げるものがあって)、飲み込んだよ」
母にそう話したそうです。

そんな父も意識の混濁が収まり入院生活に慣れた頃から、纏う空気がどんどん柔らかくなり、かつてバリバリ働いていた頃のような溌溂とした会話が出来るようになったのを感じました。
母曰く「家族のありがたみを感じたんじゃな~い?」とのことですが、加えて、看護師さん達が徹底して父を褒めて下さったことが理由だと思っています。

脳外科の病棟は私が見た限りでは父より高齢の方が多く、語弊があるかもしれませんが…看護師さん達からすると父は「比較的若く、症状も軽く、筋力がある手のかからない患者」だったのです。
何かと「すごいですね!」「どんどん出来る事が増えてますね」「善くなっていますね~」と温かい言葉を皆さんが掛けて下さいました。
ある意味本音も含まれていたのかもしれませんが(苦笑)、この言葉たちは自信を失くした父にとって良薬になったことは間違いありません。

こんなに心身共に健康になった父を見て、家族側も勉強させていただきました。
家族はついつい遠慮がなくなってしまいます。言い合いをするにも無視をするにも加減出来なくなりがちですよね。
今回のさわぎで、家族全体の空気の流れが良くなったと思っています。

前の記事にも書きましたが、脳梗塞の症状は場合によっては素人には判断がつかないとわかりました。
もしあのまま対処が遅れていたら、家庭内孤立の孤独に苛まれたまま、悲しい道を辿ったかもしれません。そう思うと、日々はとても貴重なのだと痛感しました。

「まず、身近な人を大切にする」ということ。
難しいけど大切なことですね。

ご実家から独立されている皆さん、同居しているけどまともな会話が出来ていない方も、ぜひ、電話の一本でも「おはよう」「おやすみ」の一言でも。
結果もめてしまうだけかもしれないけれど、でも、いなくなってしまったら、もめることすら出来ないのですから。ね。

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