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やっと通信網が復旧した。窓の外は嘘みたいに晴れている。でも、この世界にはサイレンが鳴り響き、この美しい晴れ間が一時的なものだと告げている。半日ぶりのラジオからは、リクエスト曲のシベリウスのトゥオネラの白鳥が流れていた。

近所の子どもたちの威勢のいい笑い声が、通り過ぎていった。僕は驚いて、急いで窓を開け、彼らの姿を探した。砂嵐の揺り戻しが来ると、彼らはきっと視界を失い遭難するだろう。不気味な生暖かい風を頬にいっぱいに受けた僕は、窓から身を乗り出した。でも、彼らの声しか聞こえてこない外の世界は、砂に深く埋もれていた。

これはいけないと僕は靴を履いて、玄関から生暖かい世界に踏み出していった。空の色は薄いピンク色をしていて、比較的穏やかな低い大気の上を、凄い勢いで薄い砂の層が流れているのが見えた。何百メートルも離れている風に流される砂は、これだけ離れても、ざざざと擦れ合う音が聞こえた。

歩いていると、ボールをバウンドさせる音も聞こえてきた。音はあちこちの壁面にこだまして、いくつも届いてくる。おかしいな、この近所にドッヂボールをするだけの広場もないはずなのにと思いつつ、「おうい」とその音が明確に聞こえる方角に向けて、声を掛けてみた。けれども、相変わらずバウンドさせる音だけが続いていた。

路面は砂に完全に埋もれて歩きにくく、走れば躓くか、もうもうと砂埃をあげるかの、最悪のコンディションだった。そもそも路面は深い砂に埋もれているはずで、バウンドするはずがなかった。

「おうい」ともう一度声を掛けると、今度は豆腐を売るラッパの音が風に乗ってきた。つけっ放しにしてきた僕のラジオが風に乗って聞こえたのかと疑ったが、その音は確実にこちらに近づいていた。それに僕の家は立っている場所から風下に位置していて、この強風では音がたどり着けそうにない。

これまで一度だって、豆腐屋が火星の街を売り歩くことなんてなかった。そもそも火星に豆腐屋は一軒も見たことがない。リヤカーなのか軽トラックなのかわからないけれど、この砂に埋もれた公道を商って回るのは無謀極まりなかった。

ところが、豆腐屋はいくら待っても現れなかった。それどころかラッパの音はすぐ近くを横切ってドップラー効果で去っていった。風向きが変わるタイミングでサイレンの音が大きくなると、ラッパの音も、ボールの音も、子どもたちの気配もぱたりと消えた。

砂と風とサイレン以外は、静かな世界に戻った。砂漠に面した街は大海に面した漁村と似ていて、ぽっかりと開けた沈黙の空間と対峙している。

僕はあるリスナーからの投稿を思い出していた。火星人に誘い出されてさまよう体験談だった。火星人たちはさまざまな音源をコレクションしていて、そのなかには地球でサンプリングされたものもあって、それを使い開拓者たちを音で翻弄するのだという。彼らは特にシベリウスの音楽を電波で拾って愛していたと体験者は書いていた。もちろん、それが本当にあったことなのか、知る由もないけれど。

僕は音と音楽を愛する彼らと、もう少しで合流しかけていたんだなと気づいた。惜しい気もしたけれど、すぐ砂漠に背を向けた。砂の雲はもうすぐそこまで迫って、街を飲み込もうとしていた。「おうい」と念のために声を掛けたけれど、開拓者たちからも火星人たちからも返事はなかった。僕は冷たくなった向かい風のなかを、泳ぐように歩いた。

玄関にたどり着いた頃には、すでに二度目の停電が始まっていた。スイッチの空しいカタカタという音だけが部屋に響き、ラジオも沈黙していた。そいうえば、さっきラジオから流れていたのは、シベリウスだったことを思い出した。

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