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「鹿」

熟睡した体は驚くほど回復していた。恐る恐る体を動かして筋肉痛を確認しながら布団から起き上がる。よかった普通に買い物にもクリーニングにも出かけられそう。我ながらあっぱれだけど。もしかしてピークは明日か明後日に持ち越しのパターンなのかも。どうかこの喜びが糠喜びになりませんように。では、筋肉痛までの道のりをここに記したいと思います。

お彼岸明けの新月に宮島は弥山に登りました。朝九時の海はまだ満ちていて猫の額ほどの砂地に裸足で足跡をつけてみた。波を蹴飛ばす足先にアオサが絡まってチクチクする。うっかり濡らしたズボンの裾が冷たい。宮島の海で体内時計は秋になりました。

寄せる波を手のひらに受けて。頭上に額に首の後ろにそっと禊の真似事。立ち寄った大願寺で山に入る報告をしていざいざ弥山へ。この山に入るのは何度目かなので手ごわさを心得ているだけにワクワクって感じではないのが正直な気持ちなのです。

緩やかな山道は渓流に沿って水の音のなか始まります。岩肌に生息する苔に手を伸ばすと。かさかさとした乾いた感触が残りました。あの、ふっくらとした湿り気のある苔とはちょっと違っていました。水が足りないのでは。豊富に見えるけれど昔ほどではないのかもしれないな。

巨大な岩が小さな岩と重なり合って作者不明のオブジェが楽しめる山。道幅が膨らむと土の柔らかさに気づきます。落ち葉が発酵をはじめて微かな匂いが脳内の緊張をほどいてくれます。岩に囲まれたこの場所が最初の休憩タイムになったのですが。傍らには冬毛になった立派な角をかざした雄鹿が横たわっています。冬毛になることで保護色にもなっているのか。それにしても森の番人のような優雅な風格には近寄りがたい雰囲気がありました。

弥山の守の番人

山には水の番人や森の番人がいて大切な場所を守っているのだと思います。そんな番人に遭遇することもあるのですね。幸先の良い印を見つけたみたい。

水分を補給したら森の番人ともお別れです。ここからは石段が続きます。山頂まで1時間半とありますが。体感では永遠になる瞬間があるくらいしんどい箇所があります。休憩をはさみながら半分も登ると太ももの張りを全身で感じながら一歩一歩を踏み出す。と言うか、石段なので一歩を持ち上げるが正しい表現なのです。

背中は汗で重たいくらい。給水した分が全部汗になるわけです。時々、連れの友人が応援の声を掛けてくれます。その掛け声が上手かった。なにせ微妙なお年頃の私が年齢を感じて落ち込まないような気づかいを要所要所に含ませて。かといって無理はそうそうさせないように。今回つくづく登山は若い友人と行くべしと教訓を得たり。数日後、同世代の友人に自慢げに山頂の感想でも話せたら2度おいしいじゃないですか。

山頂のざわめきが私に最後の力を与えた。汗ばんだ髪はボサボサとなり。もはや両手は地を這うがごとし映画貞子のような有様ではあったけれど。私は登り切ったのでした。友人の掛け声と共に。「本当に、ありがと」。

曇り空に助けられてここまで来ましたが。山頂ではゆっくりと太陽が顔を出して。瀬戸内海は程よく霞ながら見事な姿を披露してくれました。太陽を抱いた海は陽そのもの。水を抱いた山は陰そのもの。2つを同時に感じている状態こそ陰陽太極図じゃないかしら。弥山を開山した空海さんは山頂で何を感じていたのかしらね。

おにぎりを2個ペロリとたいらげて。御山神社に向かいます。実は今回の登山の目的はこの神社にありました。山頂から10分ほど下った突端に人払いしたような静かな場所があります。此処が御山神社です。今日も変わることなく良い風が吹いています。

境内は掃き清められた跡があります。それぞれの社には榊が飾れています。人里離れた神社とは思えない清浄さを保って私たちを迎えてくれます。

風の宮 御山神社

神前に友人の美しい歌が響いた。

「なにごとの おはしますをば しらねども
 かたじけなさに なみだこぼるる」
西行法師が伊勢神宮を参ったときのことばですが・・・・。この御山神社の風は伊勢の風とどこか似ているそんなことをふと思い出しました。

翌日、強い雨が真っすぐに天から落ちるように降っていました。遠くの空を雷鳴が走り微かに白い光が音を立てます。弥山から連れて来たかのような雨に御山神社を思い出していました。地上のあらゆる祈りが天に通じているよと。雨の朝に風の便りがありました。

鏡のような切り株



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