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スイスの山々とメラノーマ患者さんの想い

私はがん免疫療法を2012年から2年間、留学先のスイスで学びました。スイスには、タレントのイモトアヤコさんが挑戦して話題となった山、アイガーがあります。その北壁は「死の壁」と恐れられ、困難で危険な登攀(とうはん)に多くの登山家が命を失いました。アイガーのすぐ隣には、ユングフラウ、メンヒと4000メートル級の山々が連なり、オーバーランド三山と呼ばれています。絶壁が危険な山々とは対象的に、その麓にはゆるやかなハイキングコースが存在します。終着地に存在するクライネ・シャイデックには、ビールの美味しいオープンテラスカフェがあり、本場アルプスを眺めながらの白ビールは乾いた喉はもちろん心まで癒やしてくれます。

スイスで有名なのは山だけではありません。大手製薬会社がスイス北部のバーゼルに本社を置き、新薬開発の分野においても世界トップクラスです。私がスイスを留学先に選んだ理由は、最先端の環境と、そして「ボス」です。スイス留学中の私のボスは、ハリソン・フォードに似たドイツ人皮膚科医。彼は皮膚がんの分野では超がつくほどの有名人で、世界中を飛び回って講演をしていました。

私は彼のもとで、がん免疫療法の多くを学びました。臨床はもちろん基礎的な研究まで。日本に帰国してからも彼は私のことを気にかけてくれ、困難な症例を経験すれば的確なアドバイスをスイスから送ってくれました。まさに非の打ち所のないボスでしたがお茶目な部分もあります。僕の無料メッセージアプリWhatsAppには、彼から送られてきた「謎の木」や「どこの国かわからない景色」がコメントなしに並んでいます。超一流でありながら、誰にでも親切に別け隔てもなく付き合う彼を、私は心から尊敬しています。登山とビールを愛する彼は、病院のみんなからも愛されていました。

先日、ノーベル医学生理学賞の授賞式が行われました。京都大学の本庶佑先生は、オプジーボ登場のきっかけとなるPD-1分子を発見され、がん免疫療法という新たな治療の柱を世の中に打ち立てました。わたしたち皮膚科医は、ほくろのがんといわれるメラノーマ治療に関して、このオプジーボの恩恵を大いに受けています。オプジーボは、がん細胞を攻撃するキラーT細胞のブレーキを解除する薬剤です。がん細胞は自らPD-L1という「足」を細胞表面に出し、キラーT細胞に発現したPD-1というブレーキを踏み、攻撃力を弱めます。オプジーボはこのブレーキを外すことで、がん細胞への攻撃力を高める効果を持っています。このオプジーボの効果が初めて認められたのがメラノーマでした。

残念なことにここ最近、インターネットや週刊誌には、効果の確認されていないがん免疫療法がノーベル賞に絡めて宣伝されています。2018年6月1日、改正医療法が施行されました。公的医療保険が適用されない、自由診療との記載がないインターネットの広告は違法となりました。また、国立がん研究センターからも注意喚起があり、これまでの研究からほとんどのがん免疫療法は無効であることがわかっており、自由診療で行うがん免疫療法は効果があるかどうか不明であることが記載されています。さらに、がん免疫療法は副作用も多彩なため、確かな医療機関で実施されることが望まれます。

 私は、スイスのハリソン・フォード医師から多くのことを学びました。メラノーマの転移の仕組み、遺伝子異常のメカニズム、新薬の使い方、そしてメラノーマ患者さんの苦しみ。

 普段、医師や研究者による学会や講演で、学術的なこと以外の話題提供を演者の先生がすることはほとんどありません。

 ハリソン・フォード医師も、講演会では学術的な話題提供に終止します。ただ、一度だけ、アルプスの麓で開催された小さな研究会で、ある若い患者さんの話をしてくれました。

 登山が好きな30代の青年は、発見時にはメラノーマがすでに多発転移していたそうです。メラノーマの治験を多く手がけていたハリソン・フォード医師と出会い、諦めかけていた青年はがんと闘いました。

 元気になったら一緒にメンヒに登ろう。

 ハリソン・フォード医師はそう言って患者を勇気づけ、その約束を果たすべく、青年は治療を行いました。新薬の効果は抜群で、しばらくして彼の体の中のメラノーマは全て消えました。

 約束通りハリソン・フォード医師とその青年はオーバーランド三山1つであるメンヒに登りました。山の頂上から見下ろしたアルプス麓の絶景、青年の嬉しそうな顔、そんな素敵な写真を散りばめたスライドでした。

 それから数カ月後、残酷なことに、青年のメラノーマは再発してしまいます。それも脳に。
有効な薬剤はほぼ使い切りましたが、半年後には新しい治験が始まるかもしれない。

 そんな中、青年は

「次の治験が始まる前に、もう一度メンヒに登りたい」

そう言って、一人で山に出かけていったそうです。

 ハリソン・フォード医師は、とても表情豊かな先生です。嬉しい時も悲しい時も、周りの人間は彼の表情から多くを読み取れます。

 講演の最後、数ヶ月前に青年と登ったメンヒ頂上の写真をバックに、彼はとても悲しそうな顔をしました。

「メンヒに登ったのが彼の最後に登山になりました。彼はその山で消息をたちました。もしかしたら、登山の途中で気分が悪くなったのかもしれません」

会場が一層静まり返ります。

「ほんとはもしかしたら、自ら命をたったのかもしれません。ただ、だれも彼の最期を知りません」

そういって涙で声をつまらせました。

なんとしてでも彼を助けたかった。

全ての聴衆がハリソン・フォード医師の無念な思いを共有し、会場は悲しみに包まれました。

メラノーマは若い患者さんも多く、医師も苦しい思いをすることがたくさんあります。私だけでなく、がん患者さんを診察しているほとんどの医師が、治せなかった悔しい思いを何度も感じているはずです。

がんを治すために医学の発展は今後も必要です。私も微力ですが貢献できるように頑張りたいと思っています。オプジーボは多くのがん患者さんの命を救いました。ただ、新規治療法が間に合わず、無念な思いをした患者さんが沢山いたことは今後もずっと忘れずにいたいです。

(この記事は2018年12月14日AERA.dotで配信されたものです)

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