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この国の不寛容の果てに(3)命を語るときこそ、ファクト重視で冷静な議論を 岩永直子(BuzzFeed Japan記者)×雨宮処凛


相模原事件を入口に、現代日本を覆う「不寛容な空気」を多面的に探求する対話シリーズ。第3回は、BuzzFeed Japanで医療や介護、生命倫理などのテーマを取材する記者の岩永直子さんと雨宮処凛さんが対話します。

「命は大切」では植松の論理に対抗できない

雨宮 岩永さんは、ネットニュースサイトのBuzzFeed Japanで、障害や生命倫理に関する興味深い記事を多く手がけてらっしゃいます。相模原事件が起きたのは、まだ新聞社にいたころですか?
岩永 ええ。読売新聞社の「ヨミドクター」編集長のときでした。ちょうど終末期医療に関する連載をやっていたので、その寄稿者の方々に、緊急に事件についても書いてもらいました。というか、触れざるを得ないという感じでしたね。それ以前から、ヨミドクターでは難病患者や性的マイノリティ、認知症の人たちに連載を持ってもらっていました。病気や障害の経験だけにフォーカスするのではなくて、その人たちの日常的な生活や考えていることなどを発信してもらうことで、読者にもその存在を身近に感じてもらえるかもしれないと思ったのです。
そういう中で相模原事件が起こった。そうしたら、寄稿してくれていた障害や認知症がある人たちが、みんな具合が悪くなってしまったんです。心理的なショックだけでなく、実際に体調を崩してしまう。障害などハンディを持つ人たちに対してあの事件が与えた衝撃の大きさというものを、それによって実感しました。
雨宮 そうでしょうね……。
岩永 一方で、SNSなどネット上の世界では、植松被告の論理を肯定するような発言をする人が少なからずいた。それにも恐怖を覚えました。
植松被告の論理は、重度の障害者を生かしておくには莫大なお金と人的なコストがかかる。だから世界経済のため、日本のために彼らを安楽死させるべきだというものです。言葉はきれいでも、これは優生思想そのものです。そういう考えって、頭に浮かんでも即座に振り払うというか、公言すること自体が許されないものだと思っていたんですが……。それが歯止めなく溢れてきたような恐怖を覚えて、これはなにか特異なできごととか、自分たちとは無関係な「異常者」の起こした事件と片付けてはいけないのではないか。そう思ったのですね。


雨宮 事件のあと、テレビなどさまざまなメディアで「命は大切です」「すべての人に生きる権利があります」といったことがさかんに語られていました。でも、その同じメディアが日ごろ言っていることって、「少子高齢化で社会保障の先行きが危ない」とか、そういうことばかりですよね。そういう言説を真に受けて、突き詰めていった結果が植松被告の犯行だとしたら、「命は大切です」とお題目をくりかえしたところで、空回りにしかならないと思うんです。
岩永 そうですね。メディアの一員として、彼の論理に対抗できているのかということは強く考えました。

医療費は本当に破綻寸前なのか?

雨宮 国の借金が1000兆円を超えて国の財政が破綻寸前だ、だから社会保障費を削らなくては……ということが長年言われてきました。そういう財政危機論を煽ってきたためにこんな事件が起きてしまった、悪いのは財務省ではないかという意見すらありますが、どう思いますか。
岩永 財政の問題は私も門外漢なので自信を持っては語れないのですが……。昨年、社会学者の古市憲寿さんと若手メディアアーティストの落合陽一さんが『文學界』(2019年1月号)での対談で「終末期の1カ月の医療費が多大なので、高齢者の延命治療をやめるか保険適用外にすれば財源が浮く」といったことを話して、強く批判されたことがありました。
雨宮 「財務省の友達と一緒に詳しく検討した結果」というものですね。


岩永 それを受けて、BuzzFeed で配信した二木立先生(日本福祉大学名誉教授、医療経済学)のインタビュー記事が参考になると思います。二木先生は、「終末期医療費が医療保険財政を圧迫している」という言説は以前からあるものの、恣意的なデータ解釈や誤解に基づくものだとして、再三批判しています。
厚生労働省のデータでも、いわゆる終末期(死亡前1カ月間)にかかった医療費は約9000億円(2002年度)で、同年度の「医科医療費」(歯科や調剤費用などを除いた医療費)の3.3%にすぎません。
しかも、ここには救急救命などの急性期医療のコストも含まれているんです。そうすると、私たちがイメージする「終末期」の患者さんを生かすためにかかるコストというのは、医療費全体からすればごく一部にすぎません。
雨宮 つまり、急に倒れて搬送されて、手を尽くしたけど亡くなってしまった。そういうケースも「死亡前1カ月」に入るんですね。
岩永 そうです。2018年に政府が経済財政諮問会議に提出した予測でも、日本の社会保障給付費(対GDP比)は2040年で24%とされています。フランスやスウェーデンの現在の数字より少ないし、現在の21.5%からみても数ポイントの増加にとどまります。これが日本の財政を破綻させるかといえば、それは言い過ぎではないでしょうか。
二木先生は、過去にも何度も医療財政の危機論がくりかえされていることを指摘しています。オプジーボなど、新たに開発された高額医薬品が保険適用となるたびに、医療保険財政が破綻すると危機が煽られました。人工透析が導入されたときもそうです。でも実際は、技術革新や薬価の改定などで、医療保険が破綻することはなかった。先日、承認されたばかりの「キムリア」という新しい白血病の治療薬があって、この薬価は1患者あたり約3350万円となりました。これで今度こそ医療財政が破綻するという意見も早速出ていますが、過去の事実を見ることで、冷静な議論ができるのではないかと思います。


雨宮 新薬とか技術革新で、より安く命を救うことができるようになったなら、いいことですよね。
岩永 ええ。AI(人工知能)やICT(情報通信技術)の利用などで効率化できる部分も相当あると言われています。そういうファクトを見ずに不安を煽るだけの議論は建設的ではないと思います。不安を煽った結果、どこかで得をしている人がいるかもしれない。
雨宮 それって軍事費の議論とどこか似ていますね。対外的な不安を煽ることで軍事費は削らない。一方、メディア上では財政危機がすぐにでも起こるように言われて、結果として国が公的な負担を削る言い訳に使われている部分もある気がします。
岩永 漠然とした不安ではなくて、個別の問題をきちんと見ながら、ファクトやデータに基づいて議論していく。もちろん、負担のありかたや優先順位を決める必要も出てくると思いますが、乗り越えられない危機ではないと思うんですよね。過去にもそういう危機を言われながら、乗り越えてきた事実があるわけですから。

経済格差と健康は密接につながっている

岩永 私が新聞社の医療部で取材を始めたころ、健康格差の問題を扱ったことがありました。当時、市区町村別の生命表で、沖縄県が長寿県から転落し、横浜市青葉区が日本の男性の長寿のトップになったのですが、それは何を意味するのかを取材したのがきっかけです。横浜市青葉区はいわゆる高級住宅街とされます。収入が多く、学歴も高く健康への意識が高い住民が多い。質の高い医療機関も、公園やジムなど運動の場へのアクセスも豊富でしょう。しかし、お金持ちの多い地域は寿命が伸び、貧困な地域の寿命は短くなる、そういう社会でいいのか。最初にそういう問題意識を持ったので、その後医療や健康の問題を考える上でも、常に社会経済的な要素を意識する癖がつきました。
貧困は健康の悪化に直結します。たとえば、もともと母親の栄養状態が悪いと、子どもはお腹の中ですでに糖尿病のリスクを持って生まれてしまうという可能性が研究で指摘されています。そして、生まれた家庭が貧しければ炭水化物主体のジャンクな食事が増えますし、運動の機会も減り、教育が不十分だと自分の健康管理への意識も育たないし、進学や就職も不利になる。そういうことが積もり積もって不健康になるのはまったく自己責任の問題ではないんです。「生活習慣病」という言葉自体が、個人の習慣とか意識に起因する病気というニュアンスを与えるのでよくないと思っています。
雨宮 麻生太郎氏も、過去に「たらたら飲んで食べて、何もしない人の分の金(医療費)を、なんで私が払うんだ」といった発言をくりかえしていますね。


岩永 そこまで言うなら、生まれたときから国が手厚いケアをして、家庭環境などスタートラインからの差を是正していかなければ。予防医療では「上流から下流」という言い方もされますが、成人して病気になってからでは、いくら医療で介入しても、その人の社会資本的な貧しさに起因するものはなかなか取り戻せないんですね。できるだけ早くから手当てして、生活習慣や文化資本の不足を補ってあげることで、格差を埋めていけると言われています。そういう状況を長年放置してきた政治家が、「生産性」だとか「病気は自己責任」だと発言することには、見識のなさを感じますね。

登戸の殺傷事件と男性の孤独

雨宮 今日(2019年5月28日)、川崎市の登戸でスクールバスに並んでいた子どもと保護者が切りつけられる事件が起きました。岩永さんも先ほど現地取材して来られたばかりということなので、そのことも伺いたいと思います。
岩永 はい。小学6年の女の子と、30代の保護者の男性が命を奪われた悲惨な事件です。
雨宮 たしかに衝撃的なニュースなのですが、どこかで「またか」と思ってしまう自分がいる。理不尽な形で人の命が奪われることに、なにか慣れてきてしまったことが怖いと感じます。犯人が自殺したこともあって事件の動機などははっきりしませんが、子どもを狙った事件ということで、池田小の事件を思い出してしまいました。今回の事件の加害者は、長年ひきこもっていた50代の男性だったようですが……。こういう事件で、どうして狙われるのがいつも子どもなのかと理不尽に思います。


岩永 実際の犯罪発生率は2000年代からずっと低下しているのですが、なんとなく体感治安だけが悪化している。それはやはりそのころから、動機が理解不能な無差別殺人事件がたびたび起きてきたからかなと思います。
雨宮 加害者がひきこもりだとか、オタクだったとか、そうした特定の属性で一律に「あいつらは危ない」と決めつけては絶対にいけないと思います。ただ、こうした事件では多くの場合、犠牲になるのは子どもとか女性、相模原事件のように障害者といった弱い立場の人で、加害者には孤独な男性が多いことが共通しています。どうしてだと思いますか。
岩永 なぜでしょうね……。やはり、ジェンダーは一定影響しているのかもしれません。
脳性麻痺当事者で東大准教授の熊谷晋一郎さんが「マジョリティの当事者研究」の必要を言っています。日本において成人男性であるということは、それだけで有利な立場にあるはずですが、一方では男性稼ぎ手モデルから逃れられず、働かないとか、企業社会の中で出世しないといった選択が許されないプレッシャーにも晒されている。弱音を吐くと同性からは見下されるし、女性やマイノリティからは「マジョリティなのに」と非難される。そういうマジョリティ固有の苦しさを言語化できる場が必要だと、熊谷さんと杉田俊介さんは論じています。そうした言葉にできない鬱屈を抱えた男性から見ると、働いていない女性とか子ども、障害者などは「甘えている」と見えてしまうのでしょうかね。自分はこんなに苦しいのに、と。


雨宮 ロスジェネ世代だと、正社員の職につけた人と非正規のままの人がいて、同世代の中でも明暗が分かれているというか、世代内格差がかなりある。家庭を持つことが一種の特権のようになっていて、家庭を持たない人の中には、既婚者や子持ちの人のSNSなどでの発信が「勝ち組の幸せ家族」を見せつけられ、攻撃されているように感じる、という声も聞きますね。
岩永 親世代と同じ「正社員で結婚して子どもを産む」というモデルを周囲から強いられると、それができない自分を責めてしまうんでしょうかね。普通に「しんどい」と弱音を吐けばいいと思うんですが。
雨宮 なんだか、そういう男性ならではの苦しさが、子どもや女性に日常的にぶつけられていると感じます。ベビーカーで電車に乗っただけで舌打ちされたり、保育園の建設に「うるさい」からと反対運動が起きたり、少子化だと言われるのに、子どもがこんなに大切にされないのって変ですよね。女性に対しても、セクハラはなくならないし、駅でわざと女性にだけぶつかってくる人がいるとか…… 。
岩永 ありますね。私もぶつかられたことがあります。
雨宮 私も。「わざとぶつかる男」、怖いですよね。


岩永 私にも子どもがいませんが、産まなかった女性への風当たりもすごく強いです。
雨宮 少子高齢化の元凶のように言われますね。人としての責任を果たしていないかのような。
岩永 「老後の介護はどうするんだ」なんて言われることもありますが、自分の老後のために子どもを産むわけじゃないと思うので……。政治家も、将来の納税者になる子どもを産むのが国民の務めだといった発言をしょっちゅうしていますし、そういう圧力はありますね。
雨宮 「子どもを産んでいない人の年金を減額するべきだ」という意見を読んだこともあります。それじゃまるで懲罰じゃないですか。
岩永 そういうふうに、自分に足りないものを社会から責められているという感覚をみんなが持っているのかな。男女とわず、ひとつのライフスタイルしか認めない世の中は息苦しいですね。

モンスター視するのではなく

雨宮 植松被告も、当初は父親と同じ教師をめざしたものの諦め、措置入院を受け、一時は生活保護も受けていた。客観的にみれば強者ではないはずですが、彼は自分が弱者だとは認めたくなかったのかもしれませんね。
岩永 彼自身もひとりのマイノリティだったと思います。そういう人をモンスターのように見て社会から排除することは、むしろ問題を解決から遠ざけると思います。近年、芸能人などが薬物使用で逮捕されると、メディア上で徹底的にバッシングされますよね。薬物依存は孤立の病ともされていて、孤立の苦しさから逃れるためとも言われています。薬物依存からの回復のためには、そうやって世間が叩くことはまったく逆効果のはずなんですが。
雨宮 すごいですよね。もう、二度と社会復帰できないところまで追い込むような。


岩永 同じように、こうした事件でも、個人の落ち度や異常性として叩いて抹殺しただけでは、第二、第三の事件がまた起きてしまう。今回の登戸の事件も、背景などはわかりませんが、加害者の男性は相談したり気にかけてもらったりする人はいなかったのでしょうかね。
雨宮 だとすると、なんてちっぽけなというか、ごくありふれた関係の欠如のために、何人も殺してしまうなんて……。引き換えにしたものの大きさに、やるせない思いになりますね。
岩永 そういう事件をどう報道するかは、私たちメディアも問われていると思います。

「弱さ」をベースにつながるには

岩永 多分、非正規雇用とか貧困で苦しい人に限ったことではないですよね。むしろ高い地位にいる人も、そこから滑り落ちる恐怖がすごくあるので、ワーカホリック的に働いたり、勝ち続けることにこだわったりしてしまうことがあると感じます。高収入の人でも、家族の関係性の希薄さに悩んでいたり、孤独のために自殺まで考えたりといった声を多く聞いてきました。健康格差の問題でも、貧富の差を示すジニ係数が高い社会では、貧困層だけでなく高収入の人々も不健康になるという研究があります。下からの敵意とか不安に晒されて、常に緊張を強いられるからなのかもしれませんね。
雨宮 自分がその境遇に見合うだけの優秀さを持っていると証明し続けなくてはいけないというプレッシャーも、ものすごくありそうですね。
岩永 相模原事件のあと、熊谷晋一郎さんが「弱さでつながろう」と呼びかけました。そういうことが必要なんだろうなと思います。熊谷先生にインタビューしたときに、性的マイノリティや障害、難病、貧困でなくとも、マジョリティもいつか滑り落ちる不安を持ち、名前のつかない生きづらさを抱えているという議論になったんです。先ほど申し上げたように、そうしたマジョリティの当事者研究も始まっていると。「自分は貧乏くじをつかんでいる。損している」というマジョリティの被害者意識を排外主義につなげるのではなく、もっと弱さや生きづらさを開示することで連帯できないか、と問いかけています。
本当の加害者はマイノリティではなくて、「生産性の高さ」で人の価値を測り、すべての人を「不要とされる不安」に陥れている思想なのだということに気づいて、そこから抜け出そうという呼びかけですよね。
雨宮 「べてるの家」も「弱さの情報公開」と言っていますよね。もっと弱さとかダメさとか、そういうものをシェアして生きていこうということですよね。思えば、ずーっと強さや効率や速さといったものばかりに価値があると言われてきましたが、その反面、強くいられなくなった途端に自殺に追い込まれてしまうような最悪の状況がある。そんな社会はとてももろいと思います。もっと弱音を吐きあえて弱みを見せあえたら、全然違う地平が広がっている気がします。弱みを見せまいと強がっている人より、弱さをさらけ出した人のほうがずっと魅力的だと思います。

この記事はダイジェスト版です。フルバージョンは『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』として9月下旬に刊行予定です。お楽しみに!


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