見出し画像

この国の不寛容の果てに(4)ロスジェネ世代に強いられた「生存のための闘争」の物語 杉田俊介(批評家)×雨宮処凛

相模原事件を入口に、現代日本を覆う「不寛容な空気」の実像を探求する連続対話シリーズ。第4回は、元障害者介助ヘルパーで『フリーターにとって「自由」とは何か』『ジョジョ論』などの著書がある批評家の杉田俊介さんとの対話です。

解決されないまま放置されたロスジェネ問題

雨宮 杉田さんとは、2000年代にロスジェネの反貧困運動の中で知り合って以来のお付き合いです。フリーターの労働問題と、障害というテーマを結びつけて論じていた杉田さんの文章を通じて、私も障害というテーマに関心を持つようになりました。20代から介助の仕事をされてきたんですよね。
杉田 はい。大学院を卒業後、非正規のアルバイトを転々としたあと、ヘルパーの資格をとって、川崎市のNPO法人で障害者介助の仕事を始めました。以後10年ほど、介助と文芸批評の文章を書くことの二足のわらじでやってきました。現在は事情があって、文筆の仕事に専念していますが。
雨宮 当時はフリーターやニートに対して「甘えている」「自己責任だ」といったバッシングがすごくて、私たちはそれに対してこれは社会の問題だ、若い人が非正規雇用にしかつけなくなったことは個人の努力の問題ではないんだと、くりかえし言わなければならなかった。いちばん早い時期にそういう問題提起をしたのが杉田さんの『フリーターにとって「自由」とは何か』(人文書院、2005年)だったと思います。いま読み返しても、あそこで提起された問題はその後の予言のようでした。


杉田 現在、就職氷河期世代の中年化、高年齢化が進んで、ふたたび「ロスジェネ」が社会的に注目されています。7040問題とか8050問題といわれる高齢化したひきこもりの問題も深刻になっている。当時予言的に語られていた危機が、ほとんど解決されず現在に至っている。
雨宮 完全に放置されましたよね。植松被告は就職氷河期よりも下の世代ですが、彼が事件を起こした理由として社会保障の財源や国の膨大な債務を言っているのには、強烈な反発を感じつつも、財政破綻したら大変だという部分はどこかで理解できてしまう自分がいる。なぜかといえば、それは過去20年ずっと日本社会で言われてきたことだし、現実に私たちは、そのロジックでさまざまな権利や選択肢を奪われたり切り下げられたりしてきたからです。

2010年代、ヘイト言説の噴出と労働/生存問題の再浮上

杉田 相模原事件の背景として考えたいのは、障害者に対する差別や優生思想だけではなく、さまざまなマイノリティ(少数者)全般に向けられるヘイトスピーチ的な言説の蔓延です。障害者差別や優生思想の問題と、民族差別や排外主義の問題は文脈が別のものだと思っていましたが、相模原事件はそれを結びつけたというか、地続きであることを可視化したのではないでしょうか。
雇用・労働の問題やホームレス、生活保護といった問題、民族差別や障害者差別の問題、そして優生主義。さまざまな問題が連立方程式のようにつながって、複合的なヘイトが日常化している。杉田水脈議員が言った「生産性」という言葉も象徴的で、そこには労働してお金を稼ぐ能力という意味も、子どもを産む能力という意味も重ね合わされている。


雨宮 いわゆる「ネット右翼」の中では、在日コリアンは生活保護を優先的に受給できるとか、障害者の運動は左翼勢力に操られているとか、荒唐無稽なことが信じられています。共通しているのは、「あいつらは甘えている」「不当に守られている」という、やっかみとか嫉妬なのかなと思います。同時に、言ってはいけないとされてきたことを、「これがリアリズムだ」と言ってしまう、タブー破りの快感があるのだろうと感じます。たしかに2010年代に入って、そのたがが外れたような感覚がありますね。
杉田 2000年代に僕や雨宮さんがかかわったロスジェネ論壇では、いま思うとかなり殺伐とした言葉が飛び交っていました。雨宮さんの『生きさせろ!』や赤木智弘さんの「希望は、戦争」もそうだし、僕の本の帯にも「私たちは、もっと怒っていい」とあった。どれも不穏ですよね。
雨宮 たしかに、ヒリヒリするような叫びがありましたね。


杉田 そういう議論は、2008年のリーマンショックと、それを受けた日比谷公園での「派遣村」を通じてピークに達し、民主党への政権交代へとつながった。けれども、その期待が宙に浮いた状態のまま、東日本大震災と原発事故の衝撃によって、労働や貧困の問題は一時、忘れられたようになったと思います。
3・11 以後の社会運動の中心的なイシューは、まず原発問題、そして安倍政権になって以降は民主主義の回復とか反差別、多様性といったテーマです。原則はデモクラシーと非暴力。言ってみれば、階級的な対立から、リベラルな戦後民主主義の原則を守るということへ争点が移ってきた。そこには断絶があり、つなぎそこねられたものがあった。しかし今後の2020年代には、移民労働者が増えて、AIが象徴するような情報技術によるオートメーションによって労働者の代替が加速していく。マジョリティの日本人との間で雇用や資源の争奪戦が始まるかもしれない。

「社会的排除」から「剥奪感」へ

杉田 こうした現象を読み解く上で、雨宮さんは「剥奪感」がキーワードだと書かれていました。これは僕も納得するところです。2000年代の貧困問題の議論の中では「社会的排除」がキーワードでした。雇用や教育、社会保障といった社会の機能からこぼれ落ちてしまうことを意味する言葉で、社会的排除の対義語は「社会的包摂」です。イメージとしては、人々の生命や権利が守られる「社会」という空間があって、そこからこぼれ落ちるのが社会的排除。それを回復して、ふたたび社会の一員に戻れるようにしましょう、というのが社会的包摂。
それに対して「剥奪」というのは、少しニュアンスが違います。「社会的包摂」が前提としていた、万人が守られる「社会」という空間があるかどうかもすでにはっきりしない。とにかく本来自分たちが持っているはずの権利とか安全が誰かに奪われている、という不安がまず先行してしまう。排除から剥奪へと、何かが変わった。「剥奪」という場合、それを奪う他者がどこかにいる。それは外敵だったり、共同体の資源を無駄に食いつぶす依存者や既得権を持つ者かもしれない。そうした敵から自分たちのテリトリーを守る、そのために先回りして攻撃するのは当然だ、という感覚があるのではないか。
雨宮 被害者意識ですよね。
杉田 そうですね。現代はグローバルな被害者意識の時代。まず漠然とした剥奪感が先にあって、それを正当化するために敵を見つけようとしている。それが在日コリアンだったり、中国の脅威だったり、権利を主張する女性や障害者だったりする。現代的なヘイトというのは、はっきり言えば誰が対象でもいい、自分たちを脅かす存在として名指しできる対象であればいい。

「生存圏」をめぐる闘争

杉田 グローバリゼーションの中で先進国としての優位性も弱まり、未曽有の少子高齢化も進んで人口が縮小し、これから日本は緩やかに衰退し沈没していくだろうという予感は、多くの人が持っていますよね。そういう中で、かろうじて維持してきた社会的な資源を全員で分けあっていける余裕はもはやないから、分配の優先順位を決めなければならない。努力もせずにそれを安穏と守られるというのは幻想だと。社会に出る前からそういう皮膚感覚を持たされてきた世代からすると、経済成長でふたたびパイが大きくなるだろうとか、かつての豊かな日本の幻影のまま、まだまだ社会は大丈夫だというような上の世代の言説に反感を抱くことはありそうです。
雨宮 私も、植松被告の主張に同意はできないけれど、一方で、財源論なんかに関して、何も心配はない、日本にはまだ余裕があるという議論にも、どこか疑念を持ってしまうところがあります。
杉田 90年代からずっと、そういう論理で新自由主義的な政策が進められてきましたからね。ただ、現在起きていることは、もはや新自由主義ですらないんじゃないかと感じます。
雨宮 どういうことですか。
杉田 90年代に語られた新自由主義というのは、高度成長期につくられた無駄の多い制度や行政組織を改革して、一部は民営化し、規制緩和で市場の競争に委ねる。そうした「小さな政府」のもとで税金は効率的に使われ、経済も成長し、トリクルダウン(滴り落ち)によって社会的な弱者も救われる。そういう議論だったと思います。
でも、いまや社会的弱者へのトリクルダウンなんて誰も本気で言わなくなった。氷河期世代のニートや中年フリーターはお荷物扱いで、彼らをふたたび包摂しようなどとは考えられていない。むしろ、そこに含意されているのは、これからの過酷な時代に全員が豊かに生きられるなどという余裕はないのだから、生き残るべき国民と、切り捨てるべき者を冷徹に峻別する必要がある。「生存圏」とでも言うのか、生き残る側のイスの数は限られていて、自分がそのイスに座れるか、あるいは蹴落とされるかという殺伐とした感覚があるのではないでしょうか。
いわば、社会にとって「使える」者と「使えない」者を分け、「使えない」者は廃棄する。安楽死させたり、自殺に追い込む。植松被告は「自殺スイッチ」が必要だと言っていましたが。それこそが社会を持続可能にする道だと。新自由主義の自己責任論ですらなくって、すべては自業自得なんだという感じ。障害者に生まれたことも、マイノリティに生まれたことも自業自得。

画像1


雨宮 たしかに、2000年代にフリーター運動をやっていたときは、どこかで「これだけ人口の多い団塊ジュニア世代を、まさか政治が見捨てないだろう」という期待というか、政治への信頼がどこかでありました。いま安倍政権は、就職氷河期で正社員になれなかった世代を「人生再設計第一世代」と呼び変えて、30万人を正社員化するとしています。でも、それは約2000万人いるロスジェネ(うち非正規雇用が約400万人)のうち、とくにがんばった30万人だけを国民に統合してあげましょうという話ですよね。
杉田 そうですね。年金の問題でも、もはや政治が責任を放棄して、あとは自己責任で2000万円貯蓄してくださいと。それはもう、新自由主義とすら呼べないものじゃないだろうか。
「さとり世代」という言葉もありますが、現在の若者にとっては、もともと世界は弱肉強食だし、それ自体に文句を言っても仕方がないので自助努力をするしかない。それが嫌だというのは無意味だ、というのが実感なのではないか。そういう世界では、戦わずに権利や庇護を要求するだけの者は早晩自滅するし、敵と戦わなければ自分や家族を守れない。
進撃の巨人』という漫画がヒットしていますが、そういう殺伐さと諦め(さとり)を感じます。高い壁に守られて平和を享受してきた国で、あるとき壁を破って人を食う巨人が侵入してくる。巨人とは意思疎通が不可能なので、人類は生き残るために壁の外に出て戦うしかない。その中で登場人物たちが虫けらのように死んでいくさまが、これでもかと描かれます。物語が進むうちに、主人公たちが守ろうとしている人類の側の正義も不確かになって、もしかしたら自分たちこそが歴史修正主義者であり排外主義なのではないか―そういう疑問も芽生えつつ、とにかく戦う以外ない。そういう物語です。自分たちが実は間違っているかもしれないと不安になっても、とにかく「戦え」「戦え」と自己暗示をかけ続ける。そうでないと自分を維持できない。ほとんど自己啓発ですね。

マジョリティ問題としてヘイト・優生思想を考える

杉田 いま現在噴出しているヘイトスピーチや障害者差別・優生思想、あるいはフェミニズムへのバックラッシュといった問題を「マジョリティ問題」として考える必要があると思っています。マイノリティの人々に対してどう正しく振る舞うかというだけではなく、マジョリティである「私たち」が内側からどう変わることができるか、非暴力的で幸せな生き方ができるか、そのように問わねばならない。
トランプ現象とか欧州での極右政党の伸長など、世界的に反マイノリティ・排外主義の噴出があり、その背景として置き去りにされたマジョリティ中間層の鬱屈(実際に排除や剥奪、被害を受けているかどうかにかかわらず、心理としての被害者意識を抱えてしまう)があると言われています。リベラルとか左派から見ると、そうした人々は間違った現実認識にとらわれているのだから、啓蒙したり、うまく説得したりして認識を正さなくてはならない、となるのですが、感情のレベルでは否定し難い根拠があるので、簡単にそうした不安や剥奪感を解除することはできません。
「感情労働」論などで有名なA・R・ホックシールドという社会学者の議論が参考になります。彼女は『壁の向こうの住人たち』(岩波書店)という本で、アメリカの茶会(ティーパーティー)運動に参加する白人貧困層の聞き取り調査を重ね、彼らの認識の底に共通してある感情的な物語を描出しました。


彼らが感じている不安、屈辱、怒りといった感情を説明するのにホックシールドが使っているのが「ディープ・ストーリー(深層の物語)」という概念です。彼らはアメリカンドリームを信じて、真面目に働いていればいずれ成功できると思って忍耐強く生きてきた。イメージとしては、順番待ちの長い列があって、いずれ自分たちの順番が来ると辛抱強く待っていると、その列に横から入ってくる者がいる。それが移民だったり、非白人のマイノリティである、ということです。
こうした彼らの認識が事実として正しいかどうかはともかく、彼らの心情の物語としては強い説得力を持っている。そのことをまずは認めなくてはならない。アメリカが侵略されるといった荒唐無稽な言説を信じるポストトゥルースの狂信者だ、といった言い方で彼らを非難しただけでは、保守派とリベラルの間の壁は永遠に越えられない。
現代日本のヘイト問題も、こういうふうに、彼らの内面にある物語を理解することでしか解決できない面があるのかもしれません。もちろん、あからさまに差別的で排外主義的な言動をまき散らすようになってしまったら擁護できませんが、そこに至る前に抱えている不安とか鬱屈とか剥奪感は、頭ごなしに否定するだけでは消えないと思う。

内なる優生思想への対抗は「自己愛」の回復から

雨宮 そうした憎悪にとらわれないために、杉田さんは「マジョリティ男性が健全な自己愛を取り戻すこと」が大事だと言われていますね。どうしたら、そういう健全な自己愛を回復できるんでしょうか。
杉田 「内なる優生思想」という言葉は、もともと脳性麻痺当事者の運動「青い芝の会」から生まれましたが、もともとは他人を責める言葉ではなくて、自分の内面を問う言葉でした。青い芝の脳性麻痺の人たちは、障害者を差別する社会を鋭く糾弾しながら、自分たちの中にも「内なる優生思想」があるのではないかと問いました。
鏡に映る自分を醜いと感じてしまうことや、好きになる女性がいつも健常者であり、同じ障害をもった女性の身体を美しいと思えないこと。たんなる言葉の上での正しさや倫理観ではなく、自分たちの感情や感覚のレベルにまで食い込んでいる障害者差別があるとしたら、どのようにそれを内側から解除していけるのか。自分の身体を醜いと思わずに済み、自分の存在を愛せるのか。彼らはそういうことを問題としました。
植松被告にも、醜貌恐怖的なものが間違いなくあったと思います。整形手術をくりかえしたり、犯行前に自分の正装した姿を自撮りしてTwitter にアップしたりしています。自分が嫌いだ、肯定できないという感覚がアディクション(依存症)的に存在したのではないか。それはいわゆるセルフネグレクトとか、あるいはセルフヘイトのようなものかもしれません。
青い芝の会の人たちは、鏡に映る自分を醜いと感じてしまう感覚を受けとめつつ、そのまなざしをふたたび社会に向けることで、そこから社会を変えていくべきだと考えました。現代の差別やヘイトも、正論からの批判だけでは足りなくて、異なる次元からアプローチが必要だと思っています。

画像2


この記事はダイジェスト版です。『この国の不寛容の果てに 相模原事件と私たちの時代』いよいよ9月16日刊行!ぜひ書籍で全編をお楽しみください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?