バカが運転免許とりにいく話①〜VS夫編〜

恥ずかしながら、この歳で持っていないものがある。
運転免許である。
運転免許を持っていないと困ることがある。
車を運転できない。(小泉進次郎構文)

独身時代は免許を持っていないからといって特に困ったことはなかった。
住んでいたのは交通インフラが充実した地域なので、通勤や通院、買い物も問題なし。趣味はどれも家にいながらできることばかりで、アウトドアや遠出には一切興味なし。
しいて言うなら顔写真つきの身分証明書がないのは少し面倒だが、まあこれもなんとかなる。

別にいらんやろ、免許。
そう思っていた自分を、あの頃に戻ってぶん殴りたい。

結婚すると同時に引っ越しをした。地元とは違い自然が豊かな場所である。
ほどなくして長男が産まれるのだが、とにもかくにもこの地域、すべてが遠い。スーパー、ショッピングモールなどの娯楽施設、病院、公園、幼稚園……車がないとどこへ行くにも重労働である。況んや子連れをや。

結婚し子どもをもうけるとそれまでの価値観は全てひっくり返る。
少しでも安くてモノが良いスーパーに行きたいし、子が体調を崩したら少しでも早く病院に連れて行ってあげたい、いろんな楽しい場所に連れていってあげたい。夫は例によってあまりそういった希望を持てないので。
何より歩きたくない。私が。

それでもまだ子ども一人ならなんとかなっていたのだが、三年半後、次男を産むにあたってパートを辞めた時にいよいよ決心した。
免許をとろう。もう歩きたくない。男児二人は無理だ。

次男が生まれて四ヶ月。現在仕事をしていないので、もうこの機会を逃せば次はないだろう。
車を運転できるようになれば子ども達に何かあった時も自分でサッと対処できるし、次男の保育園探しだっていちいち話したくもない夫と予定を擦り合わせずとも一人でできる。
早く社会復帰もしたい。車があれば職場選択の幅も広がる。
良いこと尽くめである。未来は明るい。取ろう、免許。

しかし、人のこういう前向きな気持ちを華麗に粉砕する奴がいる。夫である。
皆さんお待たせしました、夫です。毎日の願いも虚しくまだ生きている夫です。

「免許取んのはいいけどマニュアルで取らなきゃ車乗せねえからな」

自動車学校へ通いたいという旨を告げれば、この言い草である。
ちなみに我が家の車はごくごく普通の軽ワゴンだ。軽トラではない。思いっきりオートマ車である。妻ももちろんAT限定でさくっと取得するつもりだった。
うちはオートマ車なのになぜ?と至極当然の疑問をぶつければ、また夫はムスッとして答える。

「オートマなんてゴーカートみたいなもんなんだよ、あんな簡単なもの誰だって受かる。AT限定じゃないと受からないような運動能力の劣る奴が世に出てきたからアホみたいな事故が起こる。AT限定なんてなくなればいい。
その点、マニュアルはいろんな操作があっていろんなところを見なくてはいけない。そういう複雑なことがこなせるような人じゃないとそもそも運転なんて危ないし、子どもの送迎なんて任せられない」

妻は驚いた。なに言ってんだこいつ。

つまりはマニュアル車を運転できる技術を習得した奴でなければうちのオートマ車は乗せてやらん、ということである。なに言ってんだこいつ。
お前だってMT免許は持っているがスピード違反の罰金も払わずいい歳こいて最終的に痺れを切らした親に払ってもらうようなアホじゃないか。

バカ高い教習費用を負担してくれるのならそりゃあ妻だって言う通りにする。しかし額にして約34万円、全てこちらが出すのである。いちいち偉そうに指図されるいわれもなければ従う義理もない。

かようにこの夫という生き物、昔から妻が前へ進もうとするとこうやって足を引っ掛けて転ばせるような男である。
これに相談ごとを持ちかけて気持ちの良い返事が返ってきたためしがない。だから会話をするのもうんざりなのである。

それからしばらく妻と夫で「AT限定でいいだろ」「MTだっつってんだろ」と言葉の応酬を繰り広げたものの、一向に埒が開かないのでひとまずその場で話を打ち切った。

妻はこの二十数年間、数多ものチャンスを棒に振って免許を取らず茫漠とした人生を歩んできた馬鹿者なので、車のことを何も知らない。
だからもしかすると夫の言い方は悪くても、言い分には一理あるのかもしれない。
しばらく一人で考えるうちにそう思い至り、いろんな人に夫から言われたことを話し、意見を聞いてみることにした。

ママ友に聞いてみた。
「私の時代はまだAT限定なんてダサいよねみたいな風潮があったんだけど、私はAT限定で取って困ったことなんて一回もないよ!」

行きつけの美容室の美容師に聞いてみた。
「ぶっちゃけ事故起こす人って、MTだろうがATだろうが事故りません?アクセルとブレーキ踏み間違えちゃうご老人だってMTしかなかった時代っしょ」

Twitterでフォロワーに聞いてみた。
「トラックにでも乗るの?」「謎理論すぎる」「旦那は昭和時代を生きてる?」「やばいね旦那」

友人に聞いてみた。
「あまり日本語を喋れない台湾人のうちの旦那が流暢に『死ねよ』と言った。びっくりした」

義母にも聞いてみた。
「キモ。黙ってAT限定で取りな」

そら見たことか。やはり皆要約すると「何言ってんだそいつ」という意見ばかりである。

助言通り、黙ってAT限定で取ってしまおうと考えた。
しかしふと、これから先ずっと免許証を隠して生きることなんて不可能じゃないかとも思った。
あの昭和時代を生きている謎理論のやばくてキモくて外国人に死ねよと言われる夫は、自分の思う通りにならないと、すぐに怒る。とても機嫌が悪くなる。その怒り方も非常に陰湿で面倒臭い。

仮に妻が免許を取ったと知ったなら間違いなく免許証を見せろと言ってくるだろうし、何かの拍子にバレたとなればそれはもうおっかないことになるだろう。

本当にいつまでもどこまでも足を引っ張ってくるどころかズボンもパンツも引っ張って脱がせてくるような、邪魔で仕方ない存在である。

夫とは、急いでいる時の赤信号、靴ではなく靴下の中に入り込んだ小石、切羽詰まってる時に落ちてくるZみたいなテトリスのブロック、気付かず踏んでしまったレゴである。うざいのだ。


そんなこんなで、妻は結局泣く泣くMTを選んだ。
AT限定ならばもっと安く早く済むものの、数万円と数時間という手痛い犠牲を払ってうざい夫の謎理論に付き合うという、自分でも涙が出てくるような茶番である。
妻がもっと自分の意見を強く主張し、気に入らぬ者は「くどい!!」とラオウが如く力でねじ伏せることができるタイプの妻なら良かった。

「免許取ったらまずてめえを真っ先に轢いてやるからな」と吐き捨てて、教習所へ申し込みに出かけた。

受付の女性には「AT限定ではなくMTでお間違いないですね?」と確認された際に「将来大型とかスポーツカーとか?」と尋ねられたので「どっちもないです」と即答した。

どこからどう見ても、ボサボサの髪をひっつめて度の合わない眼鏡をかけ、学生時代には「座ってるだけなのになんかバカっぽい」と笑われたことまであるような見た目の妻が、夜な夜なこだわりの峠を攻めコーナーで差をつけるような人物には見えないだろう。
妻が攻めるのは安売りシーズンの西松屋のみである。

とはいえ、免許を取って夫をこの手で抹殺するという新たな目標ができた。
これから襲い来る困難と払った犠牲から目を背ければ心も踊る。
社会貢献のためにも早くあれを仕留めねばなるまい。


明日は入校式である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?