大津 乙彦

歴史を調べに調べ、歴史小説を書き進めるうち、それがいつか見た夢の風景であることに気が付…

大津 乙彦

歴史を調べに調べ、歴史小説を書き進めるうち、それがいつか見た夢の風景であることに気が付くことがあります。実在する人物の歴史でありながら、精細な夢の記憶でもある――そんな小説はいかがですか? それは中欧の精神史の源となるものでした。心奥世界への旅に誘います。

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  • ハートランドの遙かなる日々

    長編のヨーロッパ歴史小説です。そしてまた、これは夢の深淵への旅でもあります。 中欧にスイスという国がまだ生まれる以前、そして建国の時を迎えるその胎動の時代、神聖ローマ帝国に新しく立ったハプスブルク王への各国の反発を巡り、アルプス山中の自治領邦は生まれ変わろうとしていました。そんな中欧揺籃の頃のおはなしです。

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ハートランドの遙かなる日々 第30章 ただいまウーリ

 国境の牛小屋はまだ健在だったが、見ないうちにすっかり荒れたようだ。木の葉で葺いた屋根は風で枝が引っ繰り返っている上、地面はぬかるんで泥に浸かったようになって、小屋も少し傾いている。 「ボロボロみたい……」  アフラがそう言うと、アルノルトが泥の中を小屋の中まで歩いて行った。 「泥が溜まって小屋の中もドロドロだ。水捌けが悪いんだ」  マリウスも小屋を一周駆け回って言った。 「ホントにドロドロー。やっぱり屋根はダメダメだね。穴だらけだ。でもぼくらがやったんだった!」 「僕もだ。

    • ハートランドの遙かなる日々 第29章  ブルネンの渡し船

       ブルネンの港では平底の渡し船が待っていた。大木を筏のように組んで板を貼り巡らしたようなその船には、馬車が二台くらい乗れる平らな部分がある。そこにブルグントの黒馬車が既に乗っていた。  マリウスが馬車の後ろの窓から外を見て言った。 「来ないね。兄さん達」 「もう間に合わないかも……」  アフラも窓を見て溜め息を吐いた。  船頭が港の水夫と話していた。 「すでに出港の予定時間は過ぎている。待ってあと三分だな」  ピエールは船頭に聞いた。 「この後の船はもう無いのか?」 「馬車が

      • ハートランドの遙かなる日々  第28章 討伐隊

         アインジーデルンを囲む山を越えると、そこからの道は下りで真っ直ぐな道が多かったので、馬車は快調なペースで進んだ。  深い谷に差し掛かり、道が細くなったあたりで、前を塞ぐ荷馬車があった。  そこに近付くと、荷馬車は道を塞いで倒され、周囲には手に太い剣を持った五人の男達がいた。  ピエールは後ろに向かって言った。 「野盗だ!」 「野盗だって?」  アルノルト達は前の様子があまり見えず、驚くばかりだ。  しかし、避けて逃げようにも、細い一本道のために馬車を巡らせる事も出来ず、幌馬

        • ハートランドの遙かなる日々  第27章 奇跡の場所

          アインジーデルンの奇跡 馬車は湖を渡る架け橋のようなフルデン半島を越え、対岸の市街を抜け、山道へと入って行く。しばらく登った所で大きな岐路があり、そこで先行する馬車が停まった。  アルノルトはその馬車に横付けにして幌馬車を停めた。 「どうしたんです?」  高い御者台にいたピエールが言った。 「ルートを確認したい。ここからこの道を真っ直ぐ行けばシュウィーツを抜けてブルネンの港だ。そこから我々は船で湖を渡ってベッケンリートへ出るのが最短なんだが、ウーリへ寄るのか?」  ベッケン

        ハートランドの遙かなる日々 第30章 ただいまウーリ

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        • ハートランドの遙かなる日々
          31本

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          ハートランドの遙かなる日々 第26章  黒の一団

          招かざる客 それからもルーディックと衛兵達は、城内で徹夜の番をするのだが、侵入者を発見する事は出来なかった。  明け方から起き出したアルノルトは、ルーディックのいる詰所まで行ってみた。 「ルーディック」  見張りをしつつウトウトしていたルーディックは、弾かれたように起きて言った。 「ああ。アルノルトか」 「その後、見つかったかい?」 「いや、さっぱりだ。襲って来た奴も結局逃げられたし」  ルーディックの細い目はいかにも眠そうだ。 「しばらくそこで寝てるといいよ。僕が見てるか

          ハートランドの遙かなる日々 第26章  黒の一団

          ハートランドの遙かなる日々 第25章  ラッペルスヴィルの思い出

          懺悔教会 「あなた」  ルーディックはエリーザベトに廊下に呼び出された。 「足はもう歩いて大丈夫ですか?」 「うん。この通り。エリーザベトも大丈夫かい?」 「ええ。もう大丈夫です。では、日が沈まないうちに懺悔に行って来て下さい。牧師さんに待ってもらってますから」 「頭打って忘れてくれたら良かったのに……」 「何か仰いました?」 「いいえ……」  ルーディックは一人懺悔へと出て行った。  それをアルノルトが追って来た。 「どこへ行くんだルーディック」 「懺悔教会さ」 「ああ、

          ハートランドの遙かなる日々 第25章  ラッペルスヴィルの思い出

          ハートランドの遙かなる日々 第24章  旧家キーブルク

          キーブルク城  時を一日遡り、アルノルト達一行がキーブルク城へ向かった時のこと。  キーブルク城はヴィンテルトゥールから一つ山を隔てた山の中にあり、小さな山の天辺を城壁で囲んで建てられていた。このあたりの山の頂上には大抵小さな塔のような建物があった。 「ここは、どの山にも小さな城砦があるね。かなり小さいのもあるけど何でだろう」  見えて来た山の上の城壁を見上げながらアルノルトがそんな感想を漏らすと、ルーディックは言った。 「あれは灯火信号を中継するんだ。山の向こう側の町や

          ハートランドの遙かなる日々 第24章  旧家キーブルク

          ハートランドの遙かなる日々  第23話 父と子と聖霊と

          臨時診療 修道院への帰り道、クヌフウタが大事そうに抱えていたボウルを、ペルシタが「持ちます」と言って受け取って、医療鞄と一緒に脇に抱えた。ペルシタはクヌフウタの付き人であり、かつ医療の助手であり、修道生活を共にする相棒でもあった。 「あのお母さん、しっかりお医者さんへ行くかしら?」  アフラはさっきのリリアの態度に疑問を覚えて言った。クヌフウタは真っ直ぐ前を見て歩きつつ言った。 「たぶん行かないでしょうね。と言うよりも行けないのです。ホスピタル騎士団に所属する医師は貴族しか診

          ハートランドの遙かなる日々  第23話 父と子と聖霊と

          ハートランドの遙かなる日々 第22章  ヴィンテルトゥール

           ビュルグレン村を見下ろす共同牧場の高原に朝日が昇ろうとしていた。  薄暗いうちから起き出して、アフラは書き置きを一筆書いていた。  昨日の夜、アフラは父と一緒に最終の特急便馬車に乗って、夜半にウーリに着き、二週間ぶりに家に帰って来た。久しぶりに母とマリウスに会えたのは良かったが、勝手に家を出て行った事を母に怒られ、思い詰めたような顔のまま、話したい事を何も話す事が出来なかった。  話せなかった事をせめて手紙にとしたためたが、かなり長くなり、つい時間も掛かって遅くなってしまっ

          ハートランドの遙かなる日々 第22章  ヴィンテルトゥール

          ハートランドの遙かなる日々 第21章 車中泊

           アルノルトが目を覚ますと、天井は白い布だった。  隣にはエルハルトが寝ている。  昨日はチューリヒへ帰って来ると、馬車に幌をつけるための材料を買い、二人で馬車にしっかりとした幌を付けた。  沢山余った幌布にくるまって寝転がると案外寝心地が良く、昨夜殆どまともに寝ていなかったエルハルトは、これなら中で寝れると、そのまま眠ってしまった。  エルハルトは日が落ちても眠り続け、ホテルに帰りそびれたアルノルトはそのまま馬車の中で眠る事にした。  時間は明け方頃で、気温は震える程に冷え

          ハートランドの遙かなる日々 第21章 車中泊

          ハートランドの遙かなる日々 第20章 ウーリの青空裁判

           アルトドルフの教会前の菩提樹の広場では、久しく無かった青空裁判が行われようとしていた。  広場には多くの人々が詰めかけ、後ろからも見えるように木箱で壇が組まれ、その上に粗末ながら木箱で裁判席が作られている。  その群衆の最前列にはマリウスがいて、その後にはカリーナの姿もあった。  被告はその正面に一つ置いた木箱の上の椅子に座らされ、ロープで縛られていた。狭いので少しでも暴れると木箱から落ちそうだ。被告は、先日の牛を死に追いやった蓬髪の大男だ。その大きな目はひどく憔悴してい

          ハートランドの遙かなる日々 第20章 ウーリの青空裁判

          ハートランドの遙かなる日々 第19章  リンデンホーフの丘

          「おっそーい」  リンデンホーフの丘にアルノルトが駈けて来たのは、約束の時間から大きく遅れていた。  アフラは三十分も前から来ていたので、都合一時間近くも待っていたようだ。手には読んでいたのであろう装丁の美しい大きな本を持っている。  今日のアフラは真新しい白のブリオーの上から緑のシュールコーを着て、かなり都会人風に着飾っている。 「今日はまた綺麗だね」 「そんなこと言ってごまかしてーっ」  そう言いつつもその顔は少し赤くなった。 「ゴメン。ホントゴメン。昨夜はワイン

          ハートランドの遙かなる日々 第19章  リンデンホーフの丘

          ハートランドの遙かなる日々 第18章 チューリヒ生活

             まだ日の上がり切らない早朝、ユッテとアフラは護衛がいない事を確認し、ホテルの玄関から大通りへと歩み出した。  石畳の道に背の高い欧風の建物が並ぶ町並みは、まだ薄暗くひっそりとした佇まいを見せている。  因みに既に靴を交換し、以前とは互いに違う靴を履いていた。 「たまには通りを歩くのもいいわね。それに、この靴なら外でもコットを引き摺らなくてとてもいいわ。交換して貰えて良かった」  ユッテは時折欠伸をしながらアフラに手を引かれ、暗い道を歩いて行く。  アフラは時折立ち止

          ハートランドの遙かなる日々 第18章 チューリヒ生活

          ハートランドの遙かなる日々 第17章 王女ユッテ

           講義を終えた後、ラッペルスヴィル伯夫妻は帰り支度をした。突発スケジュールに振り回され、予定はかなりオーバーしていた。  仕度が終わると夫妻と同行するルードルフ、ブリューハントやリーゼロッテ達は広場に停めた馬車へと向かう。エンゲルベルクの一行とイサベラ達も同時に馬車へと向かった。すると修道院のあちこちから人が出て来た。総員で見送りをするようだ。老齢の修道院長が言った。 「エリーザベト様のお陰でこのような立派な修道院が出来ました。水害に遭った時は皆生きた心地がしませんでした

          ハートランドの遙かなる日々 第17章 王女ユッテ

          ハートランドの遙かなる日々 第16章 運命の一日

           明くる朝、宿泊棟にいるアフラを訪れたブルクハルトは手に包帯を巻いていた。女性専用棟なので男は奥に入れず、マリウスが食堂を兼ねる待合室にアフラを呼んで来る事になった。マリウスが入れるのは小さい子のみの特権だ。 「お父さん、どうしたのその手は」 「ちょっと火傷しただけだ。大した事は無い。それより傷の調子は大丈夫か」 「うん。お医者さんが丁寧な手当てをしてくれたから、とてもいい感じよ」 「それはいい医者だったようだ。王子様には礼を言わねばならんな。村の敵方ながら……だがな」 「

          ハートランドの遙かなる日々 第16章 運命の一日

          ハートランドの遙かなる日々 第15章 会議は夜踊る

             その日の夜のこと、エーテンバッハ教会の講堂では内々に会合が行われた。集まったのは修道院関係者が多い。  大修道院ではザンクトガレン修道院のヴィルヘルム修道院長、そして聖母聖堂のエリーザベト大修道院長、グロスミュンスターの修道院参事が数人、その他にもアインジーデルン修道院、ヴェッティンゲン修道院等、ラッペルスヴィル家が関わる修道院が殆ど集まっている。  そして地元チューリヒからは人数も多く、市長と参事会員数人とツンフトを代表する大商人がずらりと並んでいる。  ハインリッヒ

          ハートランドの遙かなる日々 第15章 会議は夜踊る