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ハートランドの遙かなる日々 第29章  ブルネンの渡し船


 ブルネンの港では平底の渡し船が待っていた。大木を筏のように組んで板を貼り巡らしたようなその船には、馬車が二台くらい乗れる平らな部分がある。そこにブルグントの黒馬車が既に乗っていた。
 マリウスが馬車の後ろの窓から外を見て言った。
「来ないね。兄さん達」
「もう間に合わないかも……」
 アフラも窓を見て溜め息を吐いた。
 船頭が港の水夫と話していた。
「すでに出港の予定時間は過ぎている。待ってあと三分だな」
 ピエールは船頭に聞いた。
「この後の船はもう無いのか?」
「馬車が運べる船はこれが最後だ。すぐ対岸のゼーリスベルクへ行く船なら増発する事もあるが」
「すぐ対岸か……見るからに山だからな」
 アフラが馬車から出て来て言った。
「じゃあこれを逃すと明日になっちゃう? それは嫌よ」
 船頭は困って言った。
「嫌と言われてもな。馬車なら走っても行けるだろう」
 馬車の窓越しに、クヌフウタが言った。
「暗くなったとしても、ウーリを経由したり、男性四人なら馬車宿泊も出来るでしょうけど、心配は尽きませんわね。何かとても胸騒ぎがします」
 イサベラが心配そうに言った。
「何も無ければいいのですが……」
 しばらくすると船頭が大きな声で言った。
「そろそろ出発します!」
「仕方ありませんな」
 馬車の外でピエールがそう返事をして、それは承諾となった。
 出港合図の大きなアルプホルンが鳴った。
 そして船は数人の漕ぎ手によって少しずつ離岸して行った。
 そして白い帆を張って、船は一気に進み出す。
「あーあ。間に合わなかった」
「ダメだったね」
 アフラとマリウスは船縁で港を見ていた。
 そこへ、港町を白い馬車が走っているのが見えた。
「あれ、兄さんの馬車かも」
「おーい! 来た来た!」
 白い幌馬車は町を抜けて、港の桟橋にまで走って来た。
 アルノルトは馬車から飛び降りて手を振った。
「おーい! 待ってくれ!」
 アフラは船頭を捕まえて言った。
「馬車が来たわ! 戻って!」
「戻って戻って」とマリウスもせがんだ。
「え? ああ、あれか! しかし大きな船は走り出したらそう簡単に戻れんのだ」
 船頭は港でアルプホルンを握っていた水夫に大きな声を上げた。
「おーい。ツムブルネン!」
 港の水夫が出て来て言った。
「なんだー?」
「増発船で対岸にその人渡してやれないか?」
「おおー、いいぞ、わかった!」
「頼んだぞ!」
 アフラは船頭に聞いた。
「増発船? 対岸に行けるの?」
「ああ。ゼーリスベルクまでだが、増発で行ける」
「ゼーリスベルクって国境の小屋の近くね!」
 イサベラが馬車から降りて来て言った。
「私達もゼーリスベルクで降りて待ちましょう」
「ええ!」
 御者台からピエールもそう頷いた。

 港の桟橋では、ツムブルネンと呼ばれた人の良さそうなおじさんが言った。
「お前達、ゼーリスベルクへ行くのか?」
「いえ、もっと先のベッケンリートの予定でしたが……」
 アルノルトが首を振ると、ツムブルネンは「違うのか」と帰ろうとした。
 アルノルトが慌てて言った。
「ゼーリスベルクでも結構です! これ、割り符です。渡して下さい!」
「おお、それならば増発を出そう。ついておいで」
 ツムブルネンは隣の桟橋へ行き、若手の水夫に言って湖畔に繋いださっきより小さく年季の入った平底船を出して来た。小さくて幅も狭く、平らな部分は大きな馬車が一つ入るくらいしかない。
「その馬車は大きいから踏み外すなよ」
「はい。どうどう」
 エルハルトは気を付けて馬車を船に乗せるが、あまり細かい制御が効かないので気が気でなかった。
「お前さん達は何処の国だね」
「ウーリです」
「そうか、友邦で良かった。子供で割り符持ちとはいい身分だな。名前は何と言う?」
「エルハルト・シュッペルです。こっちはアルノルト」
「シュッペルか! ツムブルネンと同族じゃないか」
「いえ、かなり名前が違うようですが……」
「知らんのか。遅れてるな。シュッペルはツムブルネン家だったのを名前を変えたんだ」
「そうなんでしたか?」
「ツムブルネンはブルネンへいらっしゃいというような意味だから、ウーリでは聞こえが悪かったようだ」
 アルノルトが顔を出して言った。
「じゃあ、おじさんとは親戚って事?」
「ああ、遠い親戚だ。会えてうれしいよ。顔をよく覚えておくよ。あれ? お前さん、怪我してるのか?」
 見ればエルハルトの服にはあちこち血が付いている。特に背中は真っ赤だった。
「あ、血が……これは、怪我は無いんですが、怪我した人を負ぶったんです……」
「そうかい。その服じゃあひと騒ぎになりそうだ。着替えをあげよう」
「ありがとう。助かります。皆に見られる所だった」
 エルハルトはツムブルネンに船乗りの服を貰って着替えた。短いズボンが意外と快適だ。
 そして船は港から離岸した。漕ぎ手はツムブルネンと若手の二人だ。
 対岸のゼーリスベルクの港はすぐそこで、もう見えていた。
 アルノルトはそこに黒馬車が待っているのを見付けた。
「アフラ達もあそこで降りて待っているようだ」
「そうか。大分待たせたようだな」
「そう言えば、馬車の中も血が……」
 アルノルトはそれを拭いてみたが、拭くだけでは簡単には落ちない。エルハルトは布団や荷物を御者台や外に待避させ、バケツを借りて湖の水を汲み、中を水で流した。
「これで拭けば落ちるだろう」
「こんなびしょびしょじゃあ……人は乗れないね」
「そうだった……」
 エルハルトとアルノルトは全力で雑巾を絞って馬車を拭き、そこに再び荷物を積み込んだ。そうこうしているうちに船はもう港へ接岸に入っていた。
「おーい!」
「兄さーん!」
 と、マリウスとアフラの声が聞こえて来た。
「返事してー!」
 アルノルトは荷物を積み込みながら言った。
「忙しいんだ! 騒がしくて近所迷惑だぞ!」
「近所って、ねえ?」
 アフラは周りを見回して首を傾げた。
 周囲には乗船客用の待ち合い小屋しかない。
 船が桟橋に括り付けられると、アルノルトが御し、エルハルトが前から馬と梶棒を引き、幌馬車を船から降ろした。車輪が船から踏み外しそうなので、かなり慎重な作業だった。
 ようやくそれが終わると、エルハルトは疲れ果ててその場に座り込んだ。それまでの緊張と疲れがここへ来てどっと出て来たのだ。
「はあ。疲れた……」
「兄さんお帰りなさい。とりあえずここはウーリよ」
 アフラがそんなエルハルトの肩を叩いた。
「お帰り!」
 とマリウスも言った。
「そうかあ、ここはウーリかあ」
 エルハルトは自分の国に着いて心からホッとした。危ない所を生きてここへ帰れたのだから!
 騎士オスカーもさぞ国に帰りたかっただろうと、そう思った。
「帰って来たけど、まだ帰れないね」
 アルノルトが馬車の上から言った。
 エルハルトはその言葉に少し違う考えが沸いた。
「ここからなら、帰るか!」
 アフラがむくれ顔になった。
「え! やだーっ」
 ツムブルネンが出港の準備を済ませて言った。
「じゃあ元気でな、兄弟。また来たら寄ってくれよ」
 エルハルトとアルノルトは立ち上がり、ツムブルネンに手を振って言った。
「ありがとう」
「この服、返しに行きます」
「ああ、そうか。いつでもおいで」
 そう言って船は桟橋から離れて行く。
 エルハルトは咄嗟にアフラとマリウスを指さして言った。
「これ妹と、弟なんです!」
「そうかそうか。見れば判ったよ」
 そう言ってツムブルネンの船はブルネンへと帰って行った。
 エルハルトはアフラを振り返って言った。
「オレは急に帰りたくなったよ。で、アフラはエンゲルベルクへ行きたいと」
「うん! もう行くってイサベラさんに言ったもの」
「どっちを取るかだな」
 アルノルトが言った。
「どっちを取るも、向こうの馬車にこのまま乗せて貰えばいい。僕らはこの馬車で帰ってさ。この馬車にはとても乗れないし、ちょうどいい」
「そうだな」
 エルハルトはブルグントの馬車へと歩いて行った。
 馬車から降りて来たクヌフウタとペルシタには目礼をするのみで、エルハルトは何故かそっけなく、御者台のピエールに言った。
「ピエールさんに、お話があります」
 ピエールは高い御者台の上から言った。
「ああ、今降りるよ」
 ピエールは御者台から降りて来た。
「オーギュスト達はいないのか?」
「そのことですが……オーギュストさんは急用が出来たので、今は先に行くよう伝えてくれとの事でした……」
「そうか。何があったのかな?」
「それは……エンゲルベルクに着いたら、これを読んで欲しいと……」
 そう行ってエルハルトは手紙を渡した。
「そうか……着いたらと言ったんだな?」
「ええ。それに、僕達も早く知らせないといけない事が出来て、ウーリへ帰ろうと思うんです」
「せっかく追い付いたのにか?」
「クヌフウタさん達と、アフラを、このまま乗せて連れて行って貰えますか?」
「ああ、このまま乗って行くなら、別に構わないよ」
 そう言っている間にクヌフウタは幌馬車へとやって来た。ペルシタも黒鞄を持って後ろに続いた。そして荷物を載せつつ、馬車の中を覗き込んだ。そこは床が湿っていて、生臭い血の匂いがした。
「床が濡れてますね。何を乗せたんでしょう」
「これは! 血の匂い!」
 クヌフウタは想像するのも空恐ろしくなって、御者台のアルノルトを見た。
「何があったんです?」
 アルノルトは鼻を掻いて言った。
「うん……怪我人がたくさん出たんだ。クヌフウタさんにいて欲しいと心から思ったよ」
「この血の匂いの濃さ。まさか、手遅れだったのでは?」
 アルノルトはとても隠せないと肩を竦めた。
「イサベラお嬢さんにはまだ言わないでね。たくさん死んでしまったんだ。若い騎士さんも一人……」
「おお、主よ、御許に導き給わんことを……」
 クヌフウタは十字を切り神に祈った。ペルシタも同じくそれに習った。
 エルハルトはその声を聞いて、近くへやって来た。
「クヌフウタさん。僕らはウーリへ帰る事になりました。向こうの馬車に乗せて貰える事になりましたので、荷物はあちらに……」
 そう聞いてペルシタは、鞄を馬車から引き出した。
 クヌフウタは祈りを解いて振り返り、言った。
「エルハルトさん。私に何か言うことがありませんか?」
「何か?」
 クヌフウタはエルハルトに向き直り、エルハルトを目で追い詰めた。
「何かあるはずです」
「ああ、馬車が濡れてしまっていてすいません。ちょっと魚を運んでて……」
「嘘……」
 アルノルトが手を立てて「ごめん言っちゃった」と言ってる。
 エルハルトは観念するように言った。
「ごめんなさい。僕らは討伐隊に加わって戦って来たんです。それは酷い戦いを……。クヌフウタさん。一つ懺悔をさせて下さい」
「ここで?」
「はい。クヌフウタさんには聞かせたくなかったけど、心から神に懺悔したい気持ちなんです。そこで全てを言いましょう」
「いいでしょう」
 エルハルトはその場に膝立ちになって片手を上げた。
「罪の告白をします。私は、主の教えに反し、人を殺してしまいました」
「え! 人?」とアフラが驚きの声を上げたので、アルノルトは人差し指を立てつつ、アフラとマリウスをそこから遠ざけた。
 エルハルトは困ったような顔をして、続けた。
「盗賊とは言え、死を賭した戦いの中、この手で何人もの命を……。ずっと手の震えが止まらないのです……」
 その手を握り開くと、その震えが判った。エルハルトの手はずっと震えていたのだ。
「この手はもう、取り返しの付かない罪を犯してしまったようなんです。主の許しすら得られそうにありません……」
 クヌフウタはじっとエルハルトの話を聞いていた。
「あなたのお体は大丈夫ですか?」
「はい。不思議と怪我はありません。でも周りの人は、皆死んでしまった……」
「それこそは主のご加護だとは、思いませんか?」
「皆を助けられなければ、戦いも無意味です。一緒にいた中で生き残ったのは、オーギュストさんだけでした」
「あなたも! あなたこそが無事に生きているではありませんか。それは神のご加護でないと?」
「いえ……でも、一緒にいた騎士さんも巻き込んで、死なせてしまいました……」
 エルハルトの目からは涙が溢れて来た。それでも懺悔の仕草はまだ解かなかった。
 クヌフウタは言葉を強く言った。
「私は、その手に助けられました。そしてその手に、討伐へ向かうあなたへの神のご加護を祈りました。神は私を通して、そしてあなたを通して采配を振るわれたのです。それを罪と言うならば、私も同じ罪です。さらには神の罪でもありますが、神の御許にはもう罪はありません」
「まさか……」
 後ろからアルノルトが泣きそうな顔で言った。
「僕の罪もあるよ。討伐隊参加は僕が言い出したんだ。でも、行かなかったらもっと苦戦して被害も出てただろうし、シュタウファッハさんが、討伐隊は処刑と同じ扱いって言っていた。兄さん一人の背負う罪じゃないよ」
「アルノルト……」
 クヌフウタはエルハルトの手を包むように握った。
「その手にもう罪はありません。法の下によって望む時は、神にも赦されています。既に罪は赦されているのです。あとはあなたが赦さなくてはなりません」
「俺が?」
「自分自身を。そして時に見せる運命の険しさを」
「運命を……」
「あなたは運命に憤っているのです。それがこの手の震えとなっている。運命は見えざる神の御手。その手を取って行かねば前には進めなくなってしまいます。私はその運命の御手のままにここまで来たのです。赦すと、心に誓うのです」
「赦します。主の運命ならば」
 クヌフウタはエルハルトの手を天に引き渡すような仕草で離し、微笑んだ。そしてロザリオをその手に握って祈った。
「主よ。御救いをこそ喜ばれ、罪人をお赦しになる我が神よ。ここに全ての罪が赦され、清められますように。アーメン。自分を捨ててこそ初めて自分を見いだし、赦してこそ赦され、死ぬことによってこそ、永遠の命に甦ることを、深く悟らせ下さい。主の計らいにより御許に召されました人々に永遠の安らぎを与え、あなたの光の中で憩わせてください。アーメン」
「アーメン」
 共にそう祈りを結ぶと、エルハルトの心から重いものが解けた。そして、手の震えはもう収まっていた。
「震えが止まった……。ありがとう、クヌフウタさん。まるで心を、魂を救われた」
 エルハルトは一筋の涙を流し、そう言った。
 アルノルトが「クヌフウタさんって、すごい修道女だったんだ」と感心した。
「これでも修道女なんですよ。医者ばかりでなく、少しは修道女らしい事が出来て、私も嬉しいですわ」
 クヌフウタはそう誇らしげに笑った。
 その話を遠くから聞いていたピエールは、帰らない仲間の命を知り、急いで御者台に戻って涙を流した。そして密かにオーギュストからの手紙を開いて読んだのだった。
 馬車の中にいたイサベラがそこへ声を掛けた。
「そんな所で何してるの?」
「え! これは!」
 ピエールはギョッとしたが、それは後ろのアルノルト達に向けたものだった。
 アルノルトは答えて言った。
「ちょっと兄さんが懺悔をね。プライベートだから秘密だよ。僕らはまあ聞いてるけど……」
「ここから牛小屋がすぐ近くなの。一緒に見て行きましょう? もう無くなってしまうんでしょう?」
「そうか! 行ってみようか」
 アフラは諸手を挙げて賛成だ。
「行こう行こう」
 そこから一行は馬車を発して牛小屋を見に行った。馬車ならそれはほんの目と鼻の先だった。


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