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ハートランドの遙かなる日々 第26章  黒の一団

招かざる客

 それからもルーディックと衛兵達は、城内で徹夜の番をするのだが、侵入者を発見する事は出来なかった。
 明け方から起き出したアルノルトは、ルーディックのいる詰所まで行ってみた。
「ルーディック」
 見張りをしつつウトウトしていたルーディックは、弾かれたように起きて言った。
「ああ。アルノルトか」
「その後、見つかったかい?」
「いや、さっぱりだ。襲って来た奴も結局逃げられたし」
 ルーディックの細い目はいかにも眠そうだ。
「しばらくそこで寝てるといいよ。僕が見てるから」
「そう? じゃあ、お言葉に甘えて、少しの間だけ寝かせてくれ」
 ルーディックはそう言ってその場の板の間に寝転び、すぐに眠ってしまった。
 窓からは中庭の様子が見え、城壁上の建物の窓からはロープが吊り下がっている。
 周辺の窓からは衛兵の顔が時々覗く。しかし、それでは侵入者に警戒されるのも仕方がないと言えた。
 しばらくすると、「火事だ!」と言う騒々しい声が聞こえた。
 衛兵が詰所に駆け込んで来て、「火事です!」とルーディックに告げた。
 ルーディックは眠い目を擦りつつ、
「侵入者のしわざ?」と聞き返し、立ち上がった。
「僕はここで見てるよ」
 アルノルトはそう言って監視役を買って出た。
「助かるよ。ちょっと行ってくる」
 ルーディックが火事現場へ行ってみると、裏口のドアに火が点いて燃えていた。壁が石で類焼するものが無く、火はすぐに消し止められた。
「侵入者がドアを破ろうとしたのかな?」
「燃えていては通れませんし、この向こう側にももう一枚城壁がありますから、すぐには出られません」
「念のためこの向こう側を見てみよう」
 ルーディックと衛兵は、焼け焦げたドアをこじ開け、向こう側の門まで探索に入った。
 一方で、中庭を見ていたアルノルトは、不審な人影を見付けた。
 衣裳は衛兵のものを着ているが、中庭へ出てキョロキョロしている。そして、ロープを登り始めた。
 アルノルトは武器庫から槍を取り、中庭へと足音を忍ばせて歩いて行った。
 不審者はロープをかなり上った所でアルノルトに気が付いた。
 アルノルトは槍を構え、「武器を捨てろ」と言った。
 不審者はしかし、槍が届かない所へ逃げようと、さらに素早く上に登る。
 アルノルトは仕方なく、槍で足を少し刺した。
 不審者はさらに火が点いたように必死に上に登り、槍が届かない高さになった。
「上に行ったよー!」
 そう声を掛けたが、上にはさっきの火事騒ぎで人がいないようだ。
「しょうがないな」
 アルノルトは武器を剣に持ち替え、塔の階段を全力で駆け上り、城壁の上に出た。
 城壁の窓から顔を出すと、そこにまだ男はぶら下がっていた。
 そこから見上げるその顔は、どこか見覚えのある気がした。
「武器を捨てて降参して。でないとロープを切るよ」
 アルノルトは剣を振り上げてみせた。
「判った! 降参する! だが、両手が塞がっている。まず登ってからにしてくれ」
「あれ? あなたは…‥…‥」
「おや? 君か!」
 それは、以前イサベラが連れ去られた時に一緒に追い掛けた騎士、ピエールだった。
 アルノルトはピエールが上がるのを待ち、窓際から手を貸した。
 ピエールがそこへ降り立つと、「甘いぞ少年」と言って剣に手を掛けた。
 アルノルトは剣を構えるが、あまり剣には心得が無い。戦えば不利な状況だった。
「確か、ピエールさん? まさかイサベラお嬢さんを探しているとか?」
 ピエールは剣から手を離し、両手を広げて言った。
「おお。そうだ。どこにいるかご存知か?」
「知ってるけど、侵入者で城内は大騒ぎだ。おいそれと言えないな。僕も肩にこんな怪我させられたしね」
「ここにいた男は見つかったようだな」
「昨夜とっくに逃げたよ。その窓からね」
「そうか。ではもう逃げるルートも無いようだ」
「大人しく降参するんだね」
「降参するにあたって、一つだけ条件がある。この手紙をイサベラ姫に渡して欲しい。急ぎの手紙なんだ。しかも密書だ」
 アルノルトは手紙を受け取って言った。
「手紙? 届けるくらいはいいよ。それを届けに来てこんな事を?」
「まあ、それもある」
「人騒がせだなあ。普通にルーディックに言えば良かったのに」
「ルーディック?」
「あの時もう一人一緒にいた友人が城主なんだ」
「そうなのか? てっきりまた、王家の手の者に連れ去られて、ここに軟禁状態にされたのかと思っていた」
「まさか、それで連れ戻しにこの城に? こんな命掛けで?」
「ああ。これも騎士の務めだ。あの時のように後悔をしたくないからな」
「見上げた騎士ですね、あなたは」
 アルノルトは笑顔になって剣を収めた。
「話の判る男のようで良かった」
「イサベラお嬢さんなら今日にも帰る所でしたよ? でもなあ、みんな徹夜の警戒で、かなり頭に来てますよ。見つかったら酷い事になるでしょうね」
「既に君に見つかって、一度は観念したわけだが?」
「僕はここでは客です。まだ城の人には見つかってない。何とか僕の客として、城主を説得してみましょうか?」
「それは何という僥倖、君に見つかって良かった」
 ピエールは胸に手を当てて笑顔になった。
 そう言ってると、ルーディックが衛兵を連れて駆け上がって来た。
「アルノルト! また捕まえてくれたか!」
「いや。懐かしい知り合いだ。紹介するよ。前にイサベラ姫を一緒に追い掛けたピエールさんだ」
「ピエール・ド・シャンブリーです。その節はどうも」
「あの時の馬車を走らせてくれた方……いやいや、怪しいな。見張りの厳しい中でどうやって此処にいるのでしょうか?」
 ルーディックは不敵に笑った。
 アルノルトはさらに不敵な笑みを返した。
「イサベラお嬢さんへこの手紙を届けてくれた。僕への臨時の客という事にしてくれないかな?」
「姫に? まさかブルグントの方?」
 ピエールは胸に手を当てて言った。
「はい。ブルグントの母君より姫の警護を仰せつかっております」
 アルノルトは追補した。
「本人からは遠ざけられて、遠くから隠れての警護みたいだけどね」
「なっ。何故それを……」
 ルーディックは警戒を解いて言った。
「そうでしたか! そういう方なら我が同士です」
 ピエールは跪いて言った。
「イサベラ姫をここまで追って、お連れしに参りました。城主があなたとは知らず、押し入る結果となり、大変失礼を致しました」
「そうでしたか。姫にお会いになりますか?」
「お目通りをお許し戴けるのでしたら……」
「まだ朝も早いので、お目覚めを待って聞いてみる事にしましょう」
「じゃあそれまでは僕の部屋へ案内しよう」
 アルノルトはピエールを始めにいた部屋へ案内して、少しの休憩を取りつつ話をした。
「この手紙の用向きは、やっぱりイサベラお嬢さんの結婚の事ですか?」
「おそらくは。場所を知られてしまい、再び軟禁される事を怖れた事もある」
「結婚の相手はどういう人なんです? 彼女、泣いていましたよ?」
「……それは、国際問題に関わるので言えない」
「そうですか。逃げた男の方はまた押し入ったりしないですか?」
「来るかもしれない」
「腕が達者な人のようですから、放っておくと危険ですね。一度戦って、この怪我をしたんです。ルーディックも戦いましたから、傷つけられていたのが彼だったらこうしていられなかった事でしょう」
「奴と戦ったのか。よく無事だったものだ」
「そんなに危険な人なんですか?」
「彼は恐れなき勇士だ。任務遂行のためならどんな犠牲も厭わない。任務終了を知らせたい」
「始末に負えないほど危ないですね。すぐ知らせたいですね」
「奴の性格なら、火事に乗じてもう侵入して、屋根にでも登っているかもしれない。窓を借りましょう」
 ピエールは窓から体を乗り出して、屋根へ大声で叫んだ。
「オーギュスト! 任務完了! オーギュスト! これから交渉する! あとは任せろ!」
 すると、少し離れた所に屋根からロープが垂れ、そこを黒いローブの男が二人急降下して行った。
 ピエールとそのオーギュストと呼ばれた男は目で頷き合う。
「任せたぞ」
「絶対殺すなよ」
 男達は着地すると、駆け寄った衛兵を蹴り倒し、ロープを持って自身を振り子のようにして城門を飛び越えて行った。
「すごい! でも気の毒に……」
 アルノルトもそれを窓から乗り出して見ていて、嘆声を漏らした。
 ルーディックはその後、警戒態勢を解除し、衛兵達はようやくそれぞれの寝床へと帰って行った。もちろんルーディック自身も自室へ帰って眠った。
 そこへエルハルトとマリウスが部屋へ帰って来た。エルハルトはアルノルトを見て、見たこともないくらいの笑顔を見せた。
「アルノルト! またお前が侵入者を見付けたって?」
「ああ。まあ……そうなんだ」
「なんだその気のない返事は。村の栄誉じゃないか! 良くやった!」
 エルハルトはアルノルトの背を叩いた。
「はは。人前でそういうのは……」
「この人は?」
「ピエールさんだ。ブルグントの騎士で、前にお嬢さんを一緒に追い掛けた人」
 マリウスはピエールに見覚えがあった。
「あ。おじさん捕まえてくれたおじさん」
「ん? 知ってるのか?」
「あの牛の犯人を捕まえてくれたんだ。木の棒を振り回して危なかったのを助けてくれた」
「ああ、あの時の!」
 エルハルトはピエールの手を取って言った。
「マリウスの恩人でしたか! 罪人を捕らえてくれた功労者でもある。深く感謝します!」
 ピエールは小さく頷きつつ言った。
「そこにいれば、当然のことをしたまでさ」
 アルノルトは苦笑いだった。
「危うく恩人を切り落とす所だった。少し刺しちゃったし……ごめんなさい」
「コラ。恩人に何をしてるんだ」
 ピエールは両手を振って言った。
「いやいや、見付けたのがアルノルト君だったからそれで助かったと言える。大いに助けて貰ったよ」
 エルハルトはそれで事態を察した。
「じゃあこの人が?」
「そう。侵入者」
「大丈夫なのか……」
「もう危なくないよ。もちろんルーディックと話は着いてる。僕のお客という事になってるんだ」
「決して危害は加えません。招かざる客で申し訳ありませんな」
 エルハルトはピエールをしばし見据えて言った。
「弟に感謝して下さいよ。こんな特別な配慮はアルノルトにしか出来ないでしょう。ましてやアルノルトは手術する程の怪我もした」
「仲間がひどい怪我をさせてしまったようだ。誠に痛み入る」
 ピエールは膝を折り曲げて、深く礼を取り、謝意を示した。

 しばらくすると、部屋へブリューハントが迎えに来て厳しい顔で言った。
「イサベラ姫がお会いになるそうです」
 ピエールが笑顔で立ち上がって言った。
「ありがたき幸せ」
 ブリューハントは厳めしい顔を小さく振って言った。
「しかしながら、随分ご立腹でしたぞ。厳しいお言葉は御覚悟下さい」
「誠に痛み入るばかりです」
 アルノルトも立ち上がって言った。
「僕もこの手紙を渡しに行こう」
「それは拙者が……」
「万一だけど、そのまま牢に捕まったりしたら、渡せなくなるでしょう」
「確かに……」
「一緒に行きましょう」
 ブリューハントの案内でピエールとアルノルトはエリーザベトの部屋へ入った。そこには少し迷惑顔をしたイサベラの他にはエリーザベト、ルーディック、ユッテ、そしてアフラが居た。
「ご機嫌麗しゅう、イサベラ姫」
 ピエールはイサベラの前へ出て跪いた。
 イサベラは、怒りに声が震えるような様子で言った。
「皆さん徹夜の警戒で寝不足です。どんなにご迷惑をお掛けしたか、ご存知? 私の大事な友人を死の危険に晒したんですよ! 申し訳無くて、穴があったら入りたい気持ちです!」
 ピエールは首を竦め、アルノルトを振り返り言った。
「アルノルト殿とルーディック卿には、心より謝罪を致しました」
 アルノルトもそれに頷いた。が、イサベラは早口で捲し立てた。
「彼には剣を突き付けたそうですし、ルーディック卿も危険に晒しています! それだけではありません! アルノルトさんの怪我は手術が必要な程でしたし、ここにいるアフラはその時の医療上の事故ですが、薬で死にかけたのですよ!」
「まさか、そのような事になろうとは……」
 ユッテが欠伸をしつつ言った。
「私も手当てに付き添って寝不足」
 イサベラはユッテに頷いて言った。
「ユッテ王女にも脅威を及ぼしました。元を質せば、全てあなたのせいですよ! まずは皆さんに謝罪をして下さい!」
「皆様。多大なるご迷惑をお掛けしました。深く陳謝を申し上げます」
 ピエールは深く跪いた。
 エリーザベトがそら寒くなるほどの微笑で言った。
「裏口で火事がありましたが、あれはあなたが?」
「あと三人程仲間が居りまして、その一人が……」
「良かった事。あなたでしたら帰れなくなる所でしたよ?」
 ピエールは無関係とは言えず、思わず怖気が走った。
 イサベラが腰を低くして言った。
「私からも謝罪致します、エリーザベト様。かかった費用は全て私の方で弁償致します」
「いいんですよ。やった当人にきっちり責任を取って貰えましたら」
 ピエールは平身低頭で言った。
「共に行動した者としまして、いかなる責めも逃れられるものではありません。全ての罪は私が受け、弁償は私がしたいと思います」
「ならば先ずは裁判となりますが、宜しい?」
「裁判……本当に帰れなくなるようですな」
 アルノルトが庇うように前に立って言った。
「裁判という事なら公正さが必要ですし、少し弁護をさせて下さい。この人はまず、命の恩人です。一度は祭りの火が倒れた時に助けてくれた。それに、イサベラお嬢さんが連れ去られた時には、一緒に追ってくれたんです。その時はルーディックも一緒だったね」
 エリーザベトがルーディックを見ると、「そうなんだ」と頷いた。
 イサベラも「確かにそうでした」と頷いている。
 アルノルトは続けた。
「それに、国境の牛殺しの犯人を追い詰めて、弟とイサベラ姫が襲われた時にも取り押さえ、捕まえてくれた。これは僕らウーリにとっても大恩人です」
 エリーザベトは驚くように言った。
「まあ、その時の? そうでしたか。それは私供の立場としましても同じですわね」
「そして今回は、緊急の手紙を届けに来たそうですが、イサベラ姫が王家の手の者に連れ去られ、ここに軟禁されたと勘違いしたそうです。そして、彼女を助けるために、この堅城に決死の潜入を試みた。そうですね?」
「はい……勘違いではございましたが……」
「この行為は騎士として、思わず賞賛してしまう。騎士道に適っているのです」
 エリーザベトは感極まって言った。
「なんて素晴らしい方! 正しく騎士の鑑ですわ!」
 エリーザベトは笑顔で称賛を述べた。これは心からのものだった。
 ルーディックがその変わりように驚き、拍手して言った。
「同じ行いでも、弁護で全く変わってしまった! 驚くべき弁護だよ、アルノルト」
「いえいえ、これはピエールさんの真実あってこそ。真実に少し手を添えさせてもらっただけ、とミュルナーさんなら言う所かな」
 エリーザベトは小さく拍手した。
「エクセレント! それこそ最高の弁護ですわ。あなたのお陰で優れた功労の騎士を見誤らずに済みました。また助けられましたね」
 笑って返したアルノルトは、懐から手紙を出しつつ言った。
「彼から預かっていた手紙はここに。緊急の手紙だそうだよ」
 そう言ってアルノルトはイサベラに手紙を渡した。それを受け取ったイサベラはしかし、葛藤する表情で言った。
「ありがとう。でも、アルノルトさんにはこんな怪我をさせてしまいました。皆さんに危険とご迷惑をお掛けした事には変わりありません。私としましては、二度とこのような事が無いよう、厳重に処分をしなければなりません」
 そんなイサベラに、エリーザベトは優しく首を振って言った。
「宜しいのですよ。良い騎士をお持ちではないですか。単身飛び込んで来てくれる方なんてそうはいません。こちらは賠償も何も全て許しますから、お許しになっては?」
「そうですよ。怪我をしたアルノルトが率先して許している事ですしね」
 ルーディックがそう言うと、アルノルトも「もちろんもういいんだ」と頷いた。
「傷はルーディックの剣だったし」と付け足して笑えば、ルーディックは謝る仕草をしている。
「エリーザベト様とアルノルトが許すなら、もう無罪よ。あとアフラは?」とユッテが言った。
 アフラを見れば、もちろん許すと言うように頷いている。
「ありがとう。皆様がそう仰るのでしたら……」
 イサベラは低く礼を取り、そう言った。
 ピエールも皆に向き直り、さらに低く礼を取った。
「心よりお詫び申し上げます」
「そう来なくちゃ」とアルノルトは笑った。
「良かったこと。これで丸く収まりましたね」
 エリーザベトが小さく拍手をすれば、皆、笑顔をイサベラに向けている。
 ただ、ブリューハントは厳めしい顔をさらに難しい顔にしていた。
「だが、あやつは逃がせない。ただ逃がしては、堅城の信頼がもうズタズタです……」
 アルノルトはそれを振り返り言った。
「クロスボウの達人はさっきまで屋根の上にいたんです。もうピエールさんに追い返してもらいましたが」
「な、なんと……」
「それに、今もまだ誤解したままで、敵に回せば危険なんです。いっそ逆に一度城へ招いて、城の弱い所を指南して貰うのはどうですか? ご馳走もして、味方に付けた方が得策です」
「そうか! その手があった!」
「それはいいアイデアだ。是非ご指南願いたいね」
 ルーディックはそう頷くと、エリーザベトを振り返った。
「ご指南戴けるのでしたらむしろ顧問料をお支払いしますわ。皆さんを食客として歓迎致します。そうお伝え下さいますかしら?」
 エリーザベトにそう問われたピエールは、胸に手を当て、涙すら浮かべた。
「まことに……まことにこの無骨者の我らに、身に余るご配慮……有難うございます。取り分けては、アルノルト君にも感謝を述べたい」
「僕?」
「最高の弁護者、そしてなにより我らが騎士道の、真の理解者です」
 ピエールが涙を滲ませて頷くと、イサベラも礼を取って言った。
「本当に。アルノルトさんがいて下さらなかったらどうなっていた事か。本当にありがとう」
 ルーディックが眉間に指を当てて考えつつ言った。
「このまま小競り合いが続いてたら……ブルグント公国との戦争に火が点いてたかも……未然に防げたのはアルノルトのお陰だ」
「私達は逆を向いていました。全てアルノルトさんが導いてくれた答えでしたね。これは第一級の功しです」と、エリーザベトが続けて相槌を打つ。
 イサベラは続けて同意する。
「本当に。アルノルトさんはいつも私の思惑なんて跳び超えて、それでいて最善の結果へと導いてくれます」
「アルノルトは私達の国が戦争になるのを止めてくれたのね! またキスしてあげなきゃ」とユッテ、
「兄さんはもうヒーローね」とアフラ、
 ブリューハントは「見上げたもんだ」と皆アルノルトを褒め称えた。
 褒められ慣れていないアルノルトは、照れ顔を手で隠して言った。
「穴があったら入りたい……」
 ルーディックはアルノルトの背を叩いた。
「それはこういう時の言葉じゃないよ。むしろ誇っていいんだ。胸を張って、アルノルト」
 ルーディックにそう言われてアルノルトが懸命に胸を張ると、ユッテが跳んで来て、腕に抱き付き、頬にキスをした。
 アルノルトは寝ぼけたような顔で頬を手で擦った。
 ルーディックは言った。
「これはいい勲章ですね。ロイヤルキッスの栄誉に預かれるなんて」
「いや、気分は散々な目にあってると言う方だ」
「まあ! また失礼を言うのね!」
 ユッテはアルノルトの怪我した肩を叩いて去って行った。
「イッテ! また! ほら、ね?」
「プッハッハ。自業自得だよ。アルノルトといると楽しいね」
 ルーディックが笑うと釣られて皆も笑った。

騎士に一歩

 それから一同は朝食を摂り、徹夜気味で眠い人は仮眠を取った。
 ピエールは仲間の騎士を連れて来る事になり、ブリューハントと外へ出て行った。
 そして、黒いローブの騎士を三人連れて戻ると、客人として朝食のもてなしを受けた。ブルグントの騎士達は、あまりいい食事をしてなかったのか、その食べっぷりは良く、盛大に食べた。
 その後、ブリューハントの先導で、ブルグントの騎士達が城の中庭を見て回った。それは、しばしの仮眠を取っていたルーディックとエリーザベトをそこで待つためでもあった。
 アルノルトは窓からそれを見て、階下へ降りて中庭に出て行った。
 ブリューハントがそれを見付けて手を上げた。
「やあ恩人が来た。仮眠はいいのかい?」
「僕は薬のせいで早くに眠ってたんです。ブリューハントさんこそ寝てないでしょう」
「儂はこっちの方が重要だ。それに年寄りはどうせすぐ起きる」
 ピエールが駆け寄って来て、アルノルトを仲間達に紹介した。
「こちらは城主との間を取り持ってくれた大恩人、アルノルト君だ」
「ウーリのアルノルトです」
 一番体格の良い騎士が真っ直ぐにアルノルトを見て言った。
「あの時の楯の少年か……」
「あなたがあの時の?」
 帽子を取ると少し巻き毛の金髪のオーギュストは、胸に手を置いて言った。
「怪我をさせてしまったこと、何卒ご容赦を」
 それはアルノルトが見た中で、最も騎士らしい人の姿だったかも知れない。精強な体からは大きな威圧感が、精悍な眼差しからはそれに勝る温情が溢れている。そんな人と戦い、そして今は自分に頭を下げている、それに心が動かない筈が無かった。騎士とはこういうものなのかと、アルノルトは改めて感じつつ言葉を探した。
「いえ、これは戦った勲章のようなものですから」
 その言葉はオーギュストへの最大の許しだった。二人は熱いものを心で交わし合った。
「君には敬意を表したい。あの戦いで、君がその気なら一度は命を取られたと言っていい。私は一つ、命を助けられたことになる」
 アルノルトは小さく首を振った。
「あなたも本気ではなかった。それは判りましたよ」
「そうか。だが、それを見破られた時点で私の負けだった」
 ピエールが驚いた。
「黒騎士のオーギュストが負けた?」
 その事に驚いたのは、他の仲間達もそうだった。
 アルノルトが石造りの城壁の途中からが木造になっている部分を見上げて言った。
「こういう木の場所が危険なんですよね?」
「その通りだ。城の内側はまだいいが、外側に木造があれば、格好の場所だ」
 そこへ、エリーザベトとルーディックもやって来た。
 ブリューハントは二人を紹介して言った。
「こちらが城主、ルーディク・フォン・ホーンベルク=ラッペルスヴィル、そして、エリーザベト夫人です」
「エリーザベトです。イサベラ公女殿下は私共にとって大切な賓客です。ブルグントの方々を歓迎致します。これよりはしばし顧問として、今後の城の防衛のため、どうぞご指南をお願い致します」
 エリーザベトが深く礼を取ったので、ルーディックも続いた。
「城主のルーディックです。どうぞご指南願います。あなたとは一度剣で相見えましたね」
「あの時の果敢なる少年が城主とは! 実に見事な剣さばきだった」
「軽くあしらわれていましたけどね。今は味方でとても心強いです」
「知らぬとは言えその節は失礼を。オーギュスト・ド・ナバラです」
 二人はそう言って握手を交わした。続いてエリーザベトとも握手をする。
 アルノルトがおもむろに言った。
「ひとつ教えて欲しい事があるんです」
 ピエールが言った。
「攻城に一番詳しいのはオーギュストです。何でも聞いて下さい」
「うむ。何でも答えよう」
「ロープを付けて撃つクロスボウの事です。どうやって狙い通り飛ばすんですか?」
 オーギュストは腰にぶら下げたクロスボウを取って言った。
「ああ、これか。クロスボウは城への侵入には時に使われる。ロープが重い分、弓は強力でなければならない」
「矢にはどうやって結ぶんです?」
「それには結び方がある。こういう感じで羽根にもなるように……」
 そう言って矢とロープを実際に結び出したので、ブリューハントはやきもきして言った。
「今回はそのクロスボウで、この堅城で名を馳せる城へ容易く侵入されてしまいました! それを防ぐ方法をお聞きしたいのです!」
「それならば、対策として大きくは三つ。実演で壁を撃っても?」
 そう言うオーギュストにエリーザベトは頷いた。
「人に危険でなければ」
「では、あちらの城壁へ」
 オーギュストは城壁上の木で出来た箇所をクロスボウで撃った。ロープの付いた矢が、建物の柱に深々と刺さった。
「こうした木の建物が上にあると、このクロスボウにとっては格好の場所となる。これだけ刺されば大人二人くらいはぶら下がれる。訓練した者であれば、ロープを登るくらいは容易い事だ」
 騎士の一人はそのロープを登って見せた。ロープを足に絡ませて、するするとかなり素早く登って行く。
「こう?」
 と、アルノルトはその下からその登り方を真似て登ってみた。何とか登れる事が判ったが、手の力は相当に必要だった。
「降ります」
 と、先行する男が降りて来たので、アルノルトのこめかみに足がぶつかった。
「ぐぅ」と首を曲げたまま、二人はロープを滑り降りて来た。
 ルーディックは火が着いたように笑った。
「アハハハ。アルノルトは楽しいなあ」
 ブリューハントはしかし、厳めしい顔のままだ。
「では、上の木造部分を無くす方がいいと……」
「それが一つめの方法だ。しかし、こういう事も出来る」
 オーギュストはロープの付いていない矢を番え、そして放った。それは城壁の低い所の石と石の間に突き刺さった。
 騎士の一人が矢に手を掛けてぶら下がった。
「これは! 石造りでも駄目という事ではないですか!」
「弾かれて刺さらない事もあるが、何度もやれば刺さる。固い物の方が人数が支えられる」
「もはや防げないという事でしょうかな?」
「防ぐ方法はある。一つは土壁だ。土だと刺さってもすぐ崩れてぶら下がる事が出来ない。日干し煉瓦やタイルを貼り付けても似た状況になる。矢にぶら下がるとその煉瓦だけが崩れる構造にすれば良いのだ」
「ほう。それは良いことを!」
「もう一つは窓だ。窓がしっかり閉じられていると、容易に中へは入れない。その証拠に今回は開いた窓には入れたが、本城側は窓がしっかり閉められていて、思うようには入れなかった。ガラスを割る事も出来るが、忽ち見つかってしまうだろう」
「なるほど、それは有効だったようですな」
「アフラのお陰か……」と、アルノルトが呟くとルーディックが言った。
「彼女が誰かぶら下がっている所を早いうちに見付けたから、それは対策出来たんだね」
「ピエールが見つかったのが早過ぎたようだ。しかし、強兵を揃えて来た時は、ガラスくらいは割って入って来る。さらに確実にするならば、全ての窓に格子を付けるともう入れない」
「全面格子窓……それは少々物々しくなりますな」
 ブリューハントが振り返ると、エリーザベトが言った。
「景観上あまり……やりたくありませんね。せっかく景色のいい所ですし」
「いい風景が格子で邪魔されるのは嫌だよね」
「近くに敵がいれば風景などとは言ってられなくなる事だろう。さらにもう一つは、窓の上下に返し針を付けるという方法だ。ロープで移動してくれば刺さる位置に針を並べれば、ほぼ入れない」
「それなら出来そうですな」
「針に少し装飾を加えたいですね」
「それはいいアイデアだね」
 ラッペルスヴィルの一同はそれで合意が取れたようだった。
 さっきから矢にロープを結んでいたアルノルトは、クロスボウを指差して言った。
「これ、少し撃たせて貰ってもいいですか?」
「クロスボウを? いいが、撃てるのか?」
「ええ。これなら使った事あります」
 クロスボウを借りたアルノルトは、目一杯力んで弓を引き、ロープが付いた矢を番えた。
 オーギュストがロープを整えつつ教えてくれた。
「ロープは足の前に絡まないように解いて出しておいて、弓の前方から垂らすんだ。弓や体に引っ掛けないようにな。ロープの重みの分は長さによるが、倍は遠くへ飛ばすイメージで撃つ」
「わかりました」
 そう言ってクロスボウをしっかりと構え、アルノルトは矢を撃った。音を立てて矢は飛んだ。
「やっるう!」
 矢は城壁の窓の少し左の壁に刺さった。
「いい狙いだ」
 アルノルトはクロスボウをオーギュストに返し、壁へと走って行った。そしてそこに垂れたロープを強く引っ張ってしっかり刺さったかを確認すると、そこに飛び付いた。さっきの要領でロープを登って行き、息を切らせつつ窓の高さに達し、窓に足を掛けた。しかし、ロープから手を離せず、なかなか窓には取り付けない。
「危ないよアルノルト。無理しないで」
 ルーディックが下からそう言うので、アルノルトは途中で諦めた。
「窓の横のこの辺りにも返し針がある方がいいですね」
 アルノルトは下へそう叫んだ。
 エリーザベトが手を振って答えた。
「よくわかりました。実演ありがとう」
 アルノルトが降りる前にそこからの眺めを見ていると、向かいの窓から悲鳴が上がった。
「キャア!」
 声のする方を見ると、その窓には着替え中のイサベラが椅子に隠れるのが見えた。その声を聞いたユッテとアフラが部屋へ入って来て、その様子を見て窓へと駆けて来た。
「コラーッ! 見ちゃダメー!」
「兄さん、不審者の真似? でもすごーい」
「そうよね、よく見れば! スゴーイ!」
 そんな窓辺で騒ぐ声を避けるように、アルノルトは慌てて下に滑り降りた。慌て過ぎて手が熱くなり、擦り剥いてしまった。
「イッテ」
「大丈夫かい? アルノルト? 何を見たんだい?」
「着替え中とは……」
「まさか、姫の?」
 アルノルトが見回すと、ブルグントの護衛達の顔色が険しく変わっていた。王女を覗いたら普通に死刑だと言われた以前の事を思い出した。
「とても言えない……」
「そのようだ……」
 それから一行は裏口の焼けた扉へ行き、ブルグントの客人は弁償を申し出たが、エリーザベトはこれも授業料だと強く主張し、結局不問になった。
 一行は裏口から城外へ出、城の周囲を歩いて廻り、オーギュストに城壁各所の詳細なアドバイスを貰った。

 アルノルトは場外へ出るあたりで一行から離れ、自室へと戻った。
 エルハルトがアルノルトを見付けると、声を掛けた。
「何処へ行ってたアルノルト」
「ちょっとブルグントの騎士さんに教えて貰ってた」
「そうか。もうすぐ帰るから荷物を纏めておけ」
「うん。判った」
「どこかでクヌフウタさんを見なかったか?」
「ああ、何でも隣の修道院を見に行っているそうだよ」
「それはしばらくかかりそうだな。まだ出発時間を話してないんだ」
「イサベラ姫はブルグントの護衛団と帰るだろうから、クヌフウタさんもそっちに乗るかも知れないね」
「ペルシタさんも合わせたら三人もいるし、そんなには乗れないかもな」
「でも、僕らの馬車に乗ると、エンゲルベルクまでは行かないよ?」
「まあ、一度お前達を家に降ろしてから行ってもいいさ」
「それだと馬足も遅くなるし、早く出ないと日が暮れるかもね。エンゲルベルクに着いても戻る頃はもう真っ暗だよ」
「そうだな。送るならエンゲルベルクに泊まりが必要……か。話し合う必要があるな」
「アフラを迎えに行くついでに、イサベラお嬢さんと話して来よう。ちょっと謝る事もあるし……」
「そうか。じゃあオレは馬車の用意をしてよう。しかしアルノルトも貴族に交友が広くなったものだ。確実にお前は跡継ぎに向いてるよ」
「跡継ぎなんていいよ。色んな人に言われて、騎士になりたいと思い始めているんだ」
「そうか。オレもまあラザロ騎士団には入っておくつもりだが」
「じゃあ一緒に入ろうよ」
「跡継ぎは誰がするんだ?」
「マリウスがいるさ」
「ボク? 若過ぎるよ」
 部屋の隅で着替えていたマリウスは、思わず椅子に転んだ。
「フッ。若いと言うより幼いと言うべきだな」
「ボクはもう幼児じゃないよ?」
「ハハッ。まあすぐに大きくなるさ、マリウスも」
 アルノルトとエルハルトは笑ったが、マリウスは嬉しいような、困惑に塗れたような、複雑な顔をしていた。


 アルノルトはユッテの部屋の扉をノックした。後ろにはマリウスもいる。
 ドアを開けたのはセシリアだ。
「おはようございます、セシリアさん。こっちは弟です」
「おはようございます。アルノルトさん。ご活躍だったそうですね。侵入者を見付けて全て解決されたとか?」
「え? いえ、たまたま見付けたら、知っていた人だっただけです」
「他の人には出来なかった事です。レオナルドやマルクがお陰で眠れると感謝していましたよ」
「いやあ、皆さんが落ち着いて眠れて何よりです」
「あと、覗きと誤解されるような事は、もうしないように。これからは特に、身の危険になりますから」
「スイマセン。もうご存知で……。彼女にも謝っておこうかと。それと、僕らはもうすぐ出発します。アフラを迎えに来たんですが、入ってもいいですか?」
「あ、はい。どうぞ。こちらです」
 アルノルトはアフラの部屋へ通された。しかしアフラは部屋に不在で、そこで待つ事しばし、すぐにセシリアがアフラを連れてやって来た。もちろん、ユッテとイサベラも連れて。
 イサベラは修道女の格好に着替えていたが、気まずくて正視出来なかった。
「アフラ、そろそろ帰るぞ」
「兄さん? イサベラさんに言うことあるんじゃない?」
 アルノルトは先程の騎士の姿を胸に抱くように、跪いて言った。
「偶然とは言え、ご容赦を……」
 イサベラは驚いた。この少しの間で、アルノルトは仕草にも騎士の精神を宿していた。
「騎士に一歩、近付いたようね」
「僕はここへ来て初めて、騎士になりたいと、そう思う」
 ユッテが目を丸くした。
「急に騎士らしくなったわ」
「兄さん、立派になって……」
 アフラは何故か涙ぐんだ。
「どうか国の護衛の方々には言わないよう……また問題になるといけないから」
 跪いたままそう言うアルノルトに、イサベラは笑った。
「偶然ですから言いません。ちょっとビックリしただけです」
 アルノルトは溜め息混じりに言った。
「良かったー。また重罪にされそうで冷や汗が出たよ」
 イサベラは首を大きく振った。
「功しの人を罪になんてしません」
 ユッテが首を傾げつつ言った。
「アルノルトは何故かいつも功罪が同居してるわね」
「罪の方はもう全部偶然だったじゃないか。無かったことにして、忘れてくれる?」
「無かった事に? 忘れる? それは出来ないわ。ねえ」
「ええ」
 イサベラも笑ってユッテに同意した。
「そんなあ」
 アルノルトは残念がったが、ユッテが言葉を続けた。
「みんな楽しい思い出よ。忘れられないわ」
「私も忘れないわ。ずっと」
 ユッテとイサベラは見つめ合って手に手を取り、名残り惜しそうにしている。
「そういうこと……」
 アルノルトは立ち上がって手を小さく広げた。
 アフラも二人の手を両手で包み、「私も忘れません」と言い、三人で見つめ合った。
「いい場面だ」と、アルノルトが見ていると、ユッテが言った。
「アルノルトも入って」
「ここに手を置いて」
 アルノルトもユッテとイサベラに促され、手を重ねた。
「アルノルトも色々ありがとう」
「アルノルトさん、想い出をありがとう」
 アルノルトは「少し大袈裟だなあ」と笑ったが、この時は知らなかった。彼女達の子供時代は、もうすぐ終わろうとしている事を。
 ユッテは涙を滲ませつつ言った。
「この二週間、とても楽しかったわ。また戻りたいくらい。でも、もう戻れないのね……」
 アフラも半ベソの声で言った。
「私もです。イサベラさんもご一緒出来ると良かったですね」
「今はこうして一緒よ?」
「最後に合流出来て良かったわ」
 そこへハルトマンとルードルフもやって来た。
「何してるの?」
 駆け寄ったハルトマンが聞くと、ユッテが言った。
「お別れをしてるのよ。お二人も手を置いて」
「では」と、ルードルフとハルトマンが手を置いて輪になった。いつの間にかマリウスも手を上げてそこに加わった。
 ユッテが言った。
「みんなしばらく会えないけど、元気でね。弟さんもハルトマンも来てくれてありがとう。親戚だしルードルフはまあ会うわね。アルノルトも結局、ここまでお付き合いしてくれて。短い間だけど、色々あったわね」
「色々有り過ぎて傷だらけだよ」
「アルノルトさんがいて下さって、本当に助かりました」
「アルノルトはもう私達のヒーローね」
「兄さんはヒーロー!」
「な、無しにしてくれ。普通でいいんだ」
 ハルトマンが「かっこいいなヒーロー」と頷いた。
 ルードルフが言った。
「僕にとってもヒーローだよ。何せ王子に裁判で勝ったんだから」
「いやあ、それはユッテのお陰もあったね。その節はありがとう」
「あれも一大イベントだったわね。いい想い出になったわ」
「私の護衛を守って弁護してくれてありがとう。本当は嬉しかったの。おかげで大事な人を罰せずに済みました。この場をお借りして、お礼を言います」
 イサベラは深く礼を取るように、膝を低くした。
 ユッテが言った。
「アルノルト、一国の王女がこうしてるのよ。騎士らしく返しなさい」
 アルノルトは組んでいた手を離し、さらに低く腰を折り、大仰に言った。
「ははあ。光栄です」
 ルードルフが失笑気味に笑うと、イサベラは吹き出して笑った。
 ユッテは手を離して言った。
「何それ、ちょっと変」
 それを期に皆笑いつつ組んでいた手を離して解散して行った。
 最後まで手が残ったハルトマンとマリウスは何故か互いにハイタッチを始めた。
「どこか変だったかなあ……」
 何が悪いのか判らず、戸惑うアルノルトにユッテは言った。
「解散しちゃうほどには変ね」
「もおー」
 皆、一様に呆れ顔をして笑っていた。
 気を取り直してからアルノルトはイサベラに聞いた。
「ところで、イサベラ姫の帰りは、護衛騎士の馬車で?」
「ええ。そう言われてます。最近は姫と呼んでくれるの?」
「周りがこうだと、お嬢さんもどうかと思って」
「お嬢さんでもしっくり来てたのよ。この頃は」
「じゃあこういう場ではお嬢さんで?」
「ええ」
「じゃあお嬢さん、エンゲルベルクへ暗くなる前に着くなら、そろそろ出発する時間なんだ。是非ご一緒にと思うんだけど、如何かな?」
「もちろん、同道させていただきますわ」
「それは護衛騎士さんに聞かなくて大丈夫かな? 指南が長引いてるようなんだ。それに、クヌフウタさん達もその馬車に? 僕らはウーリまでだから」
「いけない! 聞いておきます。クヌフウタさん達にも言わなきゃ。エルハルトさんの馬車に乗ると思ってたので」
「ウーリに寄るならそれでもいいんだ。エルハルト兄さんが、向こうで泊まれるならエンゲルベルクまで送って行けるってさ」
「良かった。でも、エンゲルベルク修道院にはベッドはあっても、布団や毛布が足りてないの」
「布団ならまあ馬車にいっぱいあるな」
「それなら宿泊は問題無いと思うわ」
「良かった。じゃあ、その段取りで決まりかな」
「決まりじゃない。私も行きたい……」
 そう言ったのは、アフラだった。
「行くって、エンゲルベルクへ?」
「うん。イサベラさんは、お手紙で呼び出されて、エンゲルベルクへ戻ってから本国へすぐ帰ってしまうの。だからすぐ行かなきゃダメなの」
「ダメなのって言っても、またお父さんに怒られるぞ」
「書き置きだけで出て来ちゃったから、どっちにしても怒られるの。マリウスも連れて来ちゃったし……今なら一つ増えてもおまけみたいなものよ」
「無茶の破れかぶれじゃないか……知らないぞ。兄さんが行くから僕はいいけど」
「いいの?」
「まあ後は兄さん次第だな。上手く頼め」
「うん……」
「私も……行きたい……」
 心苦しそうにそう言ったのはユッテだった。
「駄目ですよ、ユッテ様。お約束の日はもう今日ですから。私達も急いで帰り支度をしませんと」
 と、セシリアがピシャリと言った。
「う……アフラはいいわね、理解あるお兄様で」
「では、まずはお着替えを」
 有無を言わさないセシリアの言葉で、ユッテは奥の部屋へと連れて行かれた。
 イサベラは思い出したように言った。
「じゃあ私、クヌフウタさんを呼んで来ます」
「一緒に行くよ。用意はもういいのかい?」
「ええ。荷物もあまり無くて」
「アフラは?」
「私もあまり無くて」
「元の部屋にもまだ結構あったぞ? 何かいっぱい貰ったみたいだな」
「そうだった……」
「僕はおもちゃの剣貰った!」
 アフラとマリウスは荷物を纏めに部屋へ行き、アルノルトとイサベラはそれに付き添った後、修道院へ一緒に向かった。

プレゼントの小さな馬

 エルハルトが城の前の広場で馬車の用意をしていると、そこへブリューハントが先導するブルグントの一団が通り掛かった。
「おはようございます。もう馬車の用意ですか?」
 エリーザベトがエルハルトにそう声を掛けた。
「おはようございます。馬の足も遅いので、早めに出ようと思います。多ければ乗る人数も六人になりそうですし」
「そんなに! 一頭立ての馬車では厳しいですわね」
「まあ、みんな軽いですから」
「山道もありますから、降りて押す場所も出て来る事でしょう」
「その件では、ピエールさんにひとつお話ししたい事が。ピエールさん」
 エルハルトがそう言うと、ピエールがやって来て言った。
「何なりと」
「そちらの馬車にはクヌフウタさん達二人は乗って行けますか?」
「こちらの馬車に? 乗れない事もないんですが、王女を狭い思いをさせる訳にも行きません。王女は後部席でお一人になるので、隣に一人くらいなら乗れますが、大人二人だと厳しいですね。ここだけの話、少し匂いの事もあるそうですし……」
「やはりそうですか。では、こちらの馬車にクヌフウタさん達二人を乗せる方がいいですね。六人だと少し馬足は落ちるかもしれませんが、用心の為にはご一緒出来ると有難いのですが」
 オーギュストが呟くように言った。
「盗賊か……護衛して行こう」
 それを聞いていたエリーザベトが言った。
「そういうことでしたら、こちらで一つ馬車をお出ししましょうか?」
 エルハルトは目を丸くした。
「滅相もない。そんな事をしたら戻るのが大変でしょう。こちらの馬車の方が乗り心地はいいと言って貰えましたし、少し遅くてもこれで行きたいと思います」
「そうですか……お力になれるといいのですが」
 そこへルーディックが言った。
「うちにある二頭立ての幌馬車を使って貰ったらどうかな?」
「そうですね。それはいいアイデアです」
 エリーザベトはルーディック流に賛意を示し、ブリューハントに幌馬車をと頼んだ。
「では、私達もそろそろ馬車をこちらへ持って来て準備をしましょう」
 そう言ってピエールとブルグントの一団は、馬車の準備へと向かった。
 しばらくするとブリューハントは衛兵を一人連れて、裏手の小屋から大きな幌馬車を出して来た。
「これです」
「これはいい馬車だ」
 その幌馬車はエルハルトの馬車より一回り、いや二回りも大きく、しっかりと四輪あって安定感もある。
 エリーザベトは言った。
「よろしければこちらを使って下さい。あまり使ってないので、そのまま返さないでいいですよ」
「しかし、ただというわけには……」
「今のこちらの馬車と交換で如何でしょう? 小さく畳めて省スペースですし、使うのは大量の買い物か、ルーディックが隠れて出かける時くらいですから」
「あれ? ばれてる? ほんの買い物だよ」
 ルーディックがブリューハントを見ると、家老は素早く目を反らした。
「おほん、もう一頭の馬もお付けせねばなりませんな。これはアルノルトへのお礼としては如何でしょう」
 エリーザベトは目を輝かせた。
「いいですね。こうして皆様にお知恵を戴きましたのもアルノルトさんのお陰ですし、まだしっかりとお礼を出来ていませんでした」
「ブリューハントさん。いいアイデアだ。けど……言ったね?」
 ルーディックの言葉に、ブリューハントは心苦しそうに「とても隠せません」と首を振った。
 エルハルトは二頭立ての馬車が素直に嬉しかった。そして跪いて言った。
「こんな立派な馬車にして戴きまして、それに馬の事までご配慮をありがとうございます。我が弟にも成り代わり、お礼申し上げます」
 エリーザベトは晴れやかに笑った。
「こちらこそ感謝しているのですよ。まだ足りないくらいです。エルハルトさんにも良い馬車を教えて戴きましたし、ご要望があれば何でも仰って下さいね」
「要望と言えるかはわかりませんが、もう一つだけ思う所があります」
「何でしょうか?」
「侵入者を捕まえた事について、アルノルトに感謝状を頂けましたらと。あんな怪我までして捕まえたのに、ブルグントのお客人への罪の免除と一緒に、弟の栄誉が消えてしまいそうですので」
「流石はご家族です。それは仰る通りですね。後日になりますが、作成してお送りします」
「有難き幸せです」
 そこへアルノルトとイサベラ、そしてアフラとマリウスが荷物を持って城門から出て来て、小さく手を上げた。
「兄さん、荷物持って来た。この後クヌフウタさん達を呼んでくるよ」
「そうか。まだそこのベンチにでも置いておいてくれ。さっきピエールさん達と話して、もうすぐ一緒に出る事になった。そう伝えてくれ」
 ブリューハントはアルノルトの腕を捕まえて言った。
「良いところに来た、大恩人。馬を選んで貰おう」
「え? 僕は修道院へ……」
「お主の馬になるんだ。自分で選ぶ方が良かろう」
「僕の馬って?」
 ルーディックが近くへ来て言った。
「これまでのお礼として、アルノルトに馬を一頭あげることにした。好きな馬を選んで来るといいよ。クヌフウタさんは僕が呼んで来るよ。姫のエスコートと案内も兼ねてね」
 歩き出すルーディックにエリーザベトがすかさず「私も行きましょう」と言い、一緒に歩いて行った。
「馬なんて高価なもの、貰えないよ……」
 そう言うアルノルトに、エルハルトが幌馬車を指差して言った。
「馬車をこの二頭立ての馬車と交換したんだ。馬が二頭必要だから、貰っておけ。釣り合いのいいのをな」
 アフラはそれを見て言った。
「大きな馬車に変わってる!」
「大きい馬車!」とマリウスは馬車に乗り込んで、中から幌を開けて顔を出す。
 アルノルトも馬車を覗き込んだ。
「いいね。そう言う事か。わかったよ」
「では、行こうか。馬を見る目が判るというものだ」
 ブリューハントはアルノルトの腕を引き、広場の端にある馬小屋へと連れて行った。
 石造りの馬屋には、十頭ばかりの馬が並んでいる。
「わあ、馬がいっぱいいる」
 後ろからはアフラとマリウスも入って来て、歓声を上げている。
 アルノルトは壁から地面まで石で囲まれた殺風景な馬小屋を見て言った。
「ここは地面が固くてかわいそうだね」
「うん? ウーリに比べればそうだろうな。好きな馬を選ぶがいい」
「兄さんの馬はかなり走れるいい馬なんだ。それと釣り合う馬はいるかな?」
「それはお主が見極めて選ぶんだ」
 アルノルトは馬を一頭一頭撫でて行った。殆どは大きくて気が強そうな馬ばかりだ。
「この子かわいい」
「かわいいね」
 アフラとマリウスは一頭の小さな馬を見て駆け寄った。
 そこにはつぶらな瞳で見詰めている細い馬がいた。アルノルトが撫でるとしきりに鼻を寄せて来る。
「この子は少し小さいな」
 アルノルトが言うと、ブリューハントが言った。
「まだ若いんだ。それに少し成長が遅いようなんだ。もしかすると、小さいままかもしれない」
「兄さんの馬とは釣り合わないな。大きさなら、こっちの馬がちょうどいいかな」
 アルノルトがさらに隣の馬を撫でていると、アフラは不満顔で言った。
「この子の方が目がいいわ。目で走りたいって言ってるわ」
「走りたいのか?」
 アルノルトが戻って細い馬に聞くと、そうだと言うように足を掻いた。
「この子判ってるみたい」
「賢いね」
 アフラとマリウスは馬を撫でてやった。
 ブリューハントは嬉しそうに言った。
「十分馴らすには若い方がいいかも知れないな。馬とは気が合う事も大切なんだ」
「みんな気に入ったみたいだし、この馬にしようかな。乗りやすそうだし。兄さんに怒られるかもだけど」
「気が合ったようだし、いいんじゃないか? 馬も相方に合わせて走るだろうさ」
 ブリューハントは馬を柵から出して手綱をアルノルトに手渡し、言った。
「たった今からお前の馬だ」
 アフラとマリウスは「やったあ」と大はしゃぎした。
「ありがとう。名前は何て言うの?」
「グラウエスだ。たてがみが白いだろう?」
 そのたてがみと鼻筋の真ん中が白く、全体の体毛は葦毛だ。
「グラウエス。一緒に来るかい?」
 グラウエスは返事をするように小さく嘶いた。
 アルノルトは手綱を引き、馬をエルハルトの所へ連れて行った。
 エルハルトは二頭立ての馬車に一頭の馬を繋いだ所だった。
「何でまたそんな小さい馬を連れて来る。もっと大きい馬を貰えばいいだろう」
 エルハルトはヤレヤレと首を振り、アルノルトも首を振った。
「みんなこの馬が気に入ってしまったんだ」
「しょうがないな。馬車に繋いでみるか」
 馬を繋いでみると、梶棒が背の高い方の馬だけにぶら下がる形になった。
「背丈が合わないね。ちょっと可哀想……」
「だから釣り合うのをって言ったんだろ。まあもう少し紐を調整すれば、速く走らせない限りは問題ないか」
 そうして兄弟達は布団を積み直してベンチを作り、持って来た荷物も載せ、馬車の準備を整えた。
 その間にブルグントの一団の黒い馬車も到着し、黒い大きな馬が広場に轡を並べた。ブリューハントが飼葉桶を持って来て、それぞれの馬に飼葉をくれた。
 その後、クヌフウタ達を連れに行った一行が戻って来た。 
 ルーディックは遠くから手を振った。
「アルノルト、準備が進んだようだね」
「ああ、準備はもう万端だよ」
 アルノルトは二頭の馬に飼葉を食べさせながら、グラウエスを撫でていた。
 アフラとマリウスも手に手に飼葉を持って食べさせている。
 イサベラがそこにやってきた。
「かわいい馬ね」
「かわいいでしょう。どうぞ」とアフラが飼葉をイサベラに渡し、イサベラはそれをグラウエスに食べさせた。
 ルーディックがそれを見て言った。
「小さいのを選んだね。この馬は少し成長が良くないそうだけど、いいの?」
「皆に人気でね。それに僕にはちょうど乗りやすそうだ」
「ならいいんだ。侵入者の発見と仲裁のお礼だから、遠慮無く受け取って」
「ありがとう。何よりのプレゼントだよ。うちの牧場で大事に育てるよ。エリーゼ様もありがとうございます」
 騎士風に礼を取るアルノルトに、エリーザベトは暖かな笑顔で頷いた。
「アルノルトさんの所に行く方が、馬には幸せかもしれませんね」
 隣にいたクヌフウタは、何故か今日は固い表情をしていた。
 エルハルトは少し聞いてみた。
「どうでした? 修道院は?」
 クヌフウタは悔しそうな表情で言った。
「………風邪の人に乾燥させたカレンデュラを渡しただけで、止められてしまいました。ハーブなんて魔女の使うものだとか言って……悔しいことです」
「それは災難でしたね……」
「伝統医療の殆どは経験の蓄積で効くことが証明されて来たものです。効いたという声が積み重ねられる事のみで、薬として認知されるのです。どうしてそれが判らないんでしょう。本質を見ず、魔女の方法だと勝手に決めて、そう幾つもない効くとわかっている薬を使わせないなんて、一種の迷妄なる迷信です」
 憤って言うクヌフウタを宥めるように、エリーザベトが言った。
「騎士団や、ローマでもそう言う風潮がありますしね。人によっては効き目が少なかったり、時々過敏反応や毒性による事故がありますから、そういう時に槍玉に上げられるんでしょう」
「それは確かにそうなんですが……ちゃんとそれぞれのハーブの特性や分量を知って、その用法を守った上で使えば、殆どは効いているんです」
 エルハルトは言った。
「もっとハーブが広く知られるといいんですが……。多分そうそうはクヌフウタさんくらいにハーブを使いこなす人がいないんですよ」
「まあ。それは褒め言葉?」
 クヌフウタはようやく少し笑顔になった。
「少なくともオレ達はクヌフウタさんを認めていますよ?」
「それはうれしい言葉です」
「帰りも僕らの馬車へどうぞ。交換して新しく大きくなったんです。もうすぐ出発しますから、準備が出来次第乗って下さい」
 エルハルトがそう言うと、クヌフウタは頷いて、ペルシタの持つ黒鞄を指差した。
「私達の荷物はこの診療鞄とこの腰布の薬草だけです。もう準備は整っていますよ。本来なら『旅のために財布も袋もパンもお金も杖も持ってはならない』と、禁じられているのですけど、医療品は別扱いです」
「そうでしたか……。そんなに厳しいんですか……」
 診察鞄はしっかりした造りの大きな革の鞄で、それ以外は袋も禁止と言う事は、お金はもちろん、着替えも食料も日用品も無いという事だ。フランチェスコ派の修道士達は、何も持たずに旅をする事で神のご加護を証明する。シスター二人でそれを守ろうとすれば、アルプスを越えてローマへ行く旅は相当過酷なものになるだろうと、改めてそう感じざるを得なかった。
 エリーザベトがそんなクヌフウタに言った。
「ウーリの南のゲシェネンには私共の修道院があるんです。峠の手前ですから、山を越える際は是非そこにご逗留下さい。手紙で伝えておきますので」
「心遣いを感謝致します。是非立ち寄らせて戴きたいと思います。ここまでの道中も大変にお世話になり、感謝の言葉も無い程です。神の祝福を」
 クヌフウタとペルシタは一礼をして、幌馬車へ乗り込んだ。
 リーゼロッテが城からエーバーハルトとハルトマン、そしてユッテを連れて来た。
 イサベラとユッテは別れを惜しみ合った。
「しばらく会えなくなるけど、元気でねユッテ」
「どんな事になっても、私達友達よね」
「ええ。どんな事になろうとも、友達でいましょう」
 二人はそう固く手を握り合った。
 アフラもユッテと握手を交わした。
 ハルトマンとマリウスも手を握り合っていた。
「僕らももう友達だよね」と言い出したのはハルトマンだ。
「そうだね。お互いいい奴だってわかったね」
「うん。僕もわかった。また遊ぼうね」
「うん」
 そう言って二人は握手をして別れを惜しんだのだった。
「では、出発しますよ」
 エルハルトが御者台に乗り、皆に声を掛けた。
 アルノルトは既にその隣に座っていて手を振っている。
 アフラとマリウスは幌馬車に乗り込み、イサベラもブルグントの一団の馬車に乗り込んだ。
 ピエールが言った。
「こちらが先に先導します」
 そうしてブルグントの馬車は先に走り出した。
 城にいる人達は手を振ってそれを見送った。
 続いてエルハルトが「ハ!」と声を掛け、幌馬車も進み出す。が、グラウエスはやはり反応が悪く、馬車は次第に曲がり出し、壁にぶつかりそうになって止まった。
「ああー」と響めきが沸いた。
「行くよ!」
 アルノルトが御者台からそのお尻を叩くと、グラウエスは懸命に走り出し、再び馬車は進んだ。
 見送りの人々も、気を取り直して再び手を振った。
 アフラとマリウスは、幌馬車の後ろの幌を開け、後ろから手を振った。
 ユッテが歩み出て手を振り返し、ハルトマンは駆け出してしばらく馬車を追い、手を振った。
 マリウスも大きく手を振り、互いに見えなくなるまで手を振り続けた。
 城門を出て、修道院を過ぎ、馬車が町中の石畳の下り道に入ると、アフラが言った。
「いつの間にそんなに仲良くなったの?」
「色々あってね」
「いい旅になったわね」
「うん。無理して乗って来て良かった。帰って自慢出来るよ」
「帰ったらお父さんにそう言ってよね。怒られるの私なんだから」
「うん。旅っていいね」
「そうね」
 そこへ衝撃と共にドスンと馬車が何かに当たった音がした。
 大きなカーブに差し掛かり、曲がるときに、家の出窓に当たったようだ。
 御者台では何か騒いでいる。
「うわっ! 方向が思うように変わらない」
「兄さん、ちょっと手綱を貸して。グラウエスに伝わってないみたいだ」
 アルノルトが手綱を取って、グラウエスを中心に馬を御すると、ようやく方向が定まるようになった。遥か後方からは家の人が出て来て、怒っている声が聞こえた。
「ごめんなさーい」とアフラが後ろから叫んだ。
 先行するブルグントの馬車は、もうかなり先へ行ってしまっていたが、桟橋を渡る辺りで待っていて、輪転棒を回して浮き橋が掛かると一緒に向こう岸へと渡った。
「すごい橋ですね」と、クヌフウタも感心して、後席へ見に来た。
「この風景も綺麗です」とアフラは笑い返して言った。
 エルハルトが前を指差して言った。
「対岸のすぐそこにも大きな修道院があるんですよ。寄りますか?」
「結構ですわ。ブルグントの人達に置いて行かれるといけませんし。ウーリからは乗せて頂かなければなりませんし」
「この子らを降ろしてから、この馬車でエンゲルベルクまで行きますよ。向こうには布団があれば泊まれるそうですし」
「それは、大変では御座いません?」
「いいんですよ。オレはしばらく追放の身でしたし、向こうの馬車ももうあまり乗れないそうですから」
 アフラがエルハルトの所へやって来て、手を合わせて言った。
「兄さん! お願い! 私もエンゲルベルクへ連れて行って!」
「何を言うんだ。お前はまだ父さんに怒られたいのか」
「クヌフウタさんと薬草園を見せて貰う約束をしたでしょう? イサベラさんももうブルグントへ帰ってしまうから、帰ってたらもう時間が無いの」
「しかしな、連れて行くオレが怒られるよ」
「お願い!」
「父さんの許しを得てから行けばいい」
 アフラは泣きべそをかくように言った。
「そんなぁ。帰ったらきっと、しばらく外に出してくれないわーっ」
 手綱を取りながら、アルノルトが言った。
「僕がこのまま連れて行こうか。それならいいよね」
「兄さん!」
 アフラは目に星の輝きが灯るようだった。
 エルハルトはしかし、難色を示した。
「お前が帰るのを心配して待ってるんだ。早く帰る方がいい」
「今や僕もイサベラお嬢さんの友人さ。すぐ抜糸しにまたエンゲルベルクに行かなきゃいけないし、場所を覚えるのにもいい」
 マリウスも急に言った。
「僕も行きたい!」
「みんなか!」
「みんなで行きましょう。旅は道連れよ」
「みちづれみちづれ!」
「待てよ。全員行くならまあ、ブルンネンからの平底船で対岸へ出て、かなり早く行けるな……」
 エルハルトがそう考えていると、アルノルトが言った。
「馬も疲れてくるし、乗るお金はあるし、そうしよう。前の馬車もそのルートだろう」
「エンゲルベルクを経由して峠を越えるなら、安全を見て一日泊まるのもありだ。そのルートを取るならまあ、父さんにも説明が立つかな?」
「やったーっ!」
 アフラは飛び跳ねて馬車が揺れ、馬が驚いた。
 アフラの旅はまだ続くようだ。


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